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ユカの話

 自分に、300歳年上の「双子」の姉がいると知ったのはユカが10歳の誕生日の時だった。その時はそうなんだ、というただそれだけの感想だった。自分が両親の子供であることは変わらないし、毎日は楽しかった。それで十分だった。

 ユカは南街区のハイスクールに越境入学することになった。西街区のハイスクールにおける第四学年は、転入者の関係で女性が極端に多くなったので、そのバランスを戻すためであった。南街区ハイスクールの図書館で、人工知能アーカイブ中の自分の遺伝子コードに対するアクセスが許可されていることを確認したユカは、早速キーボードを操作した。M2156Fというのが私の遺伝子コードナンバー、双子の姉と共通のコードナンバーである。遺伝子配列は全く同じ、300年の歳月が間に横たわっていても双子である。「ユキ・ホンダ」とその資料の最初には名前が書かれていた。ユキ姉さんか、初めまして、お姉ちゃん、よろしくね。


  恒星間宇宙船「ノア」の課題の一つは、乗組員の遺伝子多様性をどのように維持するか、ということだった。遺伝的脆弱性の可能性をできる限り下げることは、6000年の旅を完遂させるための必要条件であった。例えば船内で未知の疫病が発生した場合に、乗組員の遺伝的形質が近すぎると全員が死滅する可能性がでてくるからである。遺伝的脆弱性を下げない最低の人数は計算上100人程度とされていたが、冗長性を持たせるために乗組員は最初500人が選抜された。その上で、全体の遺伝子プールが混血により均一化することを避けるために、定期的にオリジナルの乗組員に近い世代の遺伝子を持つ、いわば双子の「弟」「妹」を誕生させることが定められていた。そして30歳までに子供を授からなかった夫婦が、その両親となることになっていた。いわゆるクローン人間だが、一卵性双生児と全く変わらないことが証明されており、社会的倫理的な抵抗感は、ユカの生きるこの時代には無かった。また双子の元になる人物は、男女比、人種構成などを考慮した上でAIが選択した。

 遺伝的形質が同じだからといっても、育つ環境が違えば考え方や性格は、当たり前だが変わってくる。ただし、似たような人生を歩む確率が若干高いことが統計的には証明されてはいたので、先代の人生について、後代の同一遺伝子コードの持ち主へ提供される情報には、ある程度開示範囲の制限が掛かっていた。そして開示には年齢制限もあった。高校入学と同時に先代の情報にアクセスできるようになるのだ。ユカはその日を楽しみにしていた。


 資料の先頭の名前の横に表示された写真は、一卵性双生児なら当たり前というか、ユカ自身によく似ていた。名前も似ているし、なんだか初めて見る気がしないわ。開示範囲制限のため、ユキ・ホンダの写真としては、ちょうどハイスクール進学時のID写真が表示されており、ちょっと緊張した面持ちのショートボブの女の子が写っていた。ユキ姉さんには、小さな泣きぼくろがあるのね、可愛いな。この髪型私にも似合うかも、そんなことを脈絡なくユカは思った。私と同じ西街区に住んでいたのね、ハイスクールの制服についた街区を示すリボンの色とデザインには変化がなかったからすぐわかる。身長は152cm、私よりちょっと小さいのね。体重も軽い。痩せてるんだ、いいなあ。成績は、ワオ!第四学年までずっと最優等?!優等生だったんだ、凄いよユキ姉さん。私も頑張ってみようかしら。

 配偶者の情報は、私にはまだ非公開だが結婚はしたという印が付いている。どんな人と結婚したのかな。ルーツはアジアの日本国、お父さんもお母さんも日本人か、祖父母全員が日本人。なるほど、じゃあ私は純粋なアジア系なわけね。あれ、途中から祖父の家に、その後は西街区の叔父の家に引き取られている。どうしたんだろう、病気か事故で両親を失ってしまったのか。寂しかっただろうな、大丈夫だったのかな。私は公開されている範囲のユキ・ホンダのプロフィールをすべて読み終えた。ユキ姉さんは、幸せだったのかな。ハイスクール生活は楽しくすごせたのかな。


 「アレックス!アレックス!!」

部屋の中からうなり声が返ってくる。

「ご飯できたよ」

ユカはドアを軽くノックしてから弟の部屋に入る。やっぱりVRゲームしてたんだ。ユカは弟が頭部に装着したビュワーの上をトントンと叩いて、夕ご飯だと告げる。姉ちゃんわかった、すぐ行くよ。

 アレックスはユカの4つ下で初等部の第六学年に上がったばかりだった。せっかくいいところだったのにな。はいはい、先に食堂に行ってるね。はあい。


「ねえ、ルイーズ?」

晩御飯を食べた後、自室に戻ってベッドに寝っ転がったユカは、音声AIに声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

「『運命の人』っているのかしら?」

音声AIは、しばらく黙り込んでから、おもむろに答えた。

「『運命の人』の定義によると思いますが、ユカが思う『運命の人』ってどういう人なのでしょう?」

ユカは寝返りを打って、音声AIのスピーカーの方に顔を向けて答える。

「例えばね、私のお姉ちゃんが好きになった人の双子の「弟」に巡り会うとか」

ああ、音声AIは実に人間っぽく、小さなため息をもらす。

「そう言えば、今日見てましたね、あなたの双子のお姉さんの情報を」

「うん、ユキ姉さんのね」そう言って、ユカはベッドの上にあぐらをかいて座った。

「ユキ姉さんの彼氏とか。その後その人と一緒になったのかなとか、幸せだったかなとか気になるわね」

音声AIは、小さく笑った。ユカは少し怒り気味に音声AIに言う。

「ルイーズは全部知ってるんでしょ?いじわるだな」

音声AIは、少し間をおいてから静かに答えた。

「いいえ、私も非公開情報には直接アクセスできません。だからユカと基本的には同じ事しか知りえないのです、ただし」

ただし、なに?ユカは勢い込んで聞く、ルイーズ教えてよ。

「誰かは特定できませんけれど、ユキさんの結婚相手の双子の「弟」は、現在生存中ですよ」

そうなの!ユカはベッドの上に立ち上がって小さくガッツポーズをした。それがもしかしたら私の『運命の人』だわ。

「ユカ、落ち着いて」音声AIが慌てた調子で言う。

これが落ち着いていられるわけないじゃない。会いたいなあ、どんな人だろう。

「まだ赤ちゃんかも知れませんし、おじいさんかも知れません。私にもこれ以上わからないのです。本当ですよ」

 ユカは少し落ち着きを取り戻して、ベッドの端に腰掛けてから言った。

「そうか、近い年齢とは限らないものね。でもなんか運命を感じるわね」

音声AIは、少し黙った後にユカに言った。

「そうですね、意外にユカの身近にいるかもしれませんしね」

そうなの?!ルイーズ、マジで??

「単なる勘ですよ」

音声AIは、笑い声でAIらしくない答えを返した。


 美容室でショートボブにしてもらう。うん、やっぱり結構似合うわ。ユキ姉さんっぽい。あとは勉強がんばるか、そんなことをユカは鏡を見ながら思った。で、『運命の人』を見つけるの。


 ユカは西街区のブラスバンドクラブに入っていた。パートはクラリネット。練習は西街区のハイスクールの講堂でいつも行われていた。先に練習を終えたブラスバンドクラブと入れ替わりに、ロックバンドのメンバーが練習室へと入ってきた。

「ユカちゃん?」

振り向くと、近所に住んでいるアンドレイだった。あ、久しぶりです。ジュニアハイスクールのときの先輩、初等部の頃から知ってる。アンドレイの妹のシンシアとは同学年で親友だったので、幼い頃よく一緒に遊んでもらった。「髪型変えたんだね、わからなかったよ」

ちょっと気分を変えてみました。

「似合ってるじゃん!」

えへへ。

「じゃあ、またね」

少し練習見ていって良い?

「もちろん、いいよ、大歓迎」


 アンプやマイクのセッティングをバンドのメンバー各自がおこなう。ドラムはついこの間まで西街区のジュニアハイスクールで同じクラスだったサイードだった。こちらを見て手を振って、南で元気にやってる?と聞いてきた。うん、元気。サイードは?俺はいつも元気だよ、そういってサイードはドラムのソロパートを軽く叩いて、最後にスネア連打から少し間を空けて、ダン!と終わらせた。決まったね、パチパチパチ。

「じゃあ、練習やろうか」

チューニングを終えた長身のアンドレイが立ち上がって、全員に声を掛ける。一瞬の静寂の後、アンドレイのエレキギターが最初の曲のイントロを奏で始めた。


 宇宙船の目的地である三重連星、ケンタウロス座α星A、B、Cの詳細な情報を得るために、「プロジェクト・ノア」の直前に超高速恒星間探査機「メルクリウス」が旅立っていた。慣性飛行中は「ノア」の実に40倍の速度を誇る「メルクリウス」には、各恒星の惑星を自律的に探査する惑星探査機が数十台積まれていた。4.3光年離れた場所にある探査機を地球から操作することは現実的では無いので、搭載されたAIが最も適切と考える観測をおこなって、その詳細データを「ノア」に持ち帰るという計画であった。しかしいくら超高速といっても、光の速度の1/25がやっとということで、首尾良く「ノア」にたどり着いたとしても、その到着時期は、「ノア」が地球を出発してから少なくとも約350年以上後という気の遠くなるようなタイムスケールの話ではあった。

 その「メルクリウス」からの帰還信号が「ノア」に最初に届いたのは4年前のこと、「ノア」の詳細位置を把握し、核パルス推進機関による減速に入る前に「メルクリウス」が送ってきた最も興奮すべき情報は、真っ暗な宇宙の中で、まるで宝石のように青く輝く合計3つの惑星の映像であった。なんという幸運か、ケンタウロス座α星Aには二つの、そしてα星Bには一つの、液体の水をたたえ、大気を伴った岩石惑星が存在したのである。それぞれの惑星の質量は、地球の0.9倍から1.1倍と人類の生存に適しており、地表温度も地球に近く、大気の成分も二酸化炭素がかなり多いことを除けば地球の大気に近かった。そしてなによりも人々を驚嘆させたのは、一つの惑星探査機が送ってきた一枚の画像だった。そこには、どこまでも緑が広がる大草原と真っ青な空が映し出されていたのである。

 

「メルクリウス」が「ノア」に回収されたのは、10月3日だった。ノアが地球を出発してから実に354年後であった。その日のために「ノア」は、多くの科学者を養成していた。成人乗組員の半分以上がなんらかの専門を持つように訓練されたと言ってよい、それほどの大きな出来事であった。想像を絶する膨大な量のデータが「ノア」にもたらされ、分析が始まった。「メルクリウス」は完璧な仕事をしてくれたのである。

 しかし一点だけ、「ノア」の乗組員をがっかりさせた情報があった。3つの青い惑星には知的生命体と呼べるような存在は全く存在していないようだ、という観測結果である。我々人類は今のところ、宇宙の中で一人ぼっちだというのが、その段階での一次的な結論であった。

 ユカたち学生にも、「メルクリウス」からの情報は公開されていたので、学校の中もしばらく興奮状態であった。流される映像ニュースもほとんどがケンタウリからもたらされた新たな情報で埋め尽くされていた。しかし一月後には、みな落ち着きを取り戻した。そして奇妙な停滞感が船を支配した。なにしろ「ノア」がケンタウリに到達するのは、順調にいっても、今から5800年後なのである。そのことに思い至った人々は、しだいに自分たちの通常の生活のリズムに戻っていった。


「ねえ、ユカ?」なあに。

「ここわかんないんだけど教えて」おう、任せろ。

しばらくユカが教えた後に、しみじみとソフィアは呟く

「ユカ、最近勉強、頑張ってるねぇ」えへへ。

「昔とは大違い」ほっとけ。

ソフィアは、9月に南街区ハイスクールへ一緒に移ってきた幼馴染みである。

「なんかきっかけでもあったの」いやあ特に無いよ。

「髪型も変えたし、イメージ変わったよね」

とソフィア。そしてにやりと笑って続けた。

「男だな、間違いない。誰?お姉さんに教えてみそ?」

違うよお、私は笑いながら否定した。そんなんじゃないよ。進学したから気分を変えてと言うか、やる気出してるだけ。

「ふーん、ほんとー?!」

ソフィアはなおも疑いの目つきで私を見る。

ほんとだから。

さすがに、いつか会えるかも知れない『運命の人』に良いところをみせたいから、とは言えなかった。ユキ姉さんに負けないようにがんばろう。


 シンシアから久しぶりにメッセが入る。

「今日、放課後ヒマ?お茶しよう」

「いいよ、西の喫茶店で良い?」と、ユカは返事をする。

「じゃあ、16時に」シンシアからすぐに連絡があった。


「南はどう?慣れた?」

「うん、慣れた。っていうか、ソフィアも一緒だしね」

「そうだねー、そこが変わらないからね」

他愛も無い雑談が続いた。

「この前、あなたの弟に会ったよ、なんか背が伸びたね」

「ああアレックスね、なりばっかりでかくなってさ。中身は子供のままだよ」

「でもさ身長、もう抜かされちゃったよ?!」

「私もよ、4つも下なのにイヤになっちゃう」

シンシアが2杯目の紅茶を淹れているときに、メッセに連絡が入る。あれ、アンドレイからだ。

「アンドレイ、今度ライブやるんだね」

私はシンシアにメッセの画面を見せながら言った。

「そうそう」

シンシアはティーカップを置いて言った。

「それで、今日ユカに連絡したの」

「見に来てねって、連絡があった」と私。

「この前、講堂でお兄ちゃんたちとすれ違ったでしょ」

シンシアは私に続けた。

「それで、ユカもライブに誘おうかなって」

「行く行く。南のライブハウス?ソフィアも誘うよ

」楽しみだ、と私は思った。

シンシアは紅茶を一口飲んで、いたずらっぽく笑って私に言った。

「お兄ちゃん、ユカのこと、なんか可愛くなったって言ってたよ」

えへへ、照れるなあ。

「髪型変えたからかな、似合ってる?」

「うん、よく似合ってる。お兄ちゃん、ユカに参っちゃったかも」

あはは、彼女いるのに。同じ第六学年のサラさんだよね。

「うーん、夏にいろいろあって別れたみたい」

とシンシア。そうなの?

「我が兄ながら、お勧め物件だよー」

シンシアが笑って続ける「結構格好いいし、頭も良いし、性格も良いし」

ブラコンかい、と私はシンシアにツッコみを入れる。

少し間があってから、シンシアはちょっと困ったような笑いを浮かべながら答えた。

「お兄ちゃんとは血が繋がってないしな、本当にブラコンかもねえ」

「え、そうなの?」

ユカは尋ねた。

「どっちかがクローンなの?」

シンシアは答えた。

「そうよ、お兄ちゃんは300年くらい前の人のクローンだって言ってたよ。ロシアとアジアのハーフだって。私は天然物」


「ねえ、ルイーズ?」

食後、自室で勉強をしながらユカは、音声AIに声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

「もしかしたらアンドレイが『運命の人』かしら?」

少し間が空いて、音声AIは話し始める。

「正直に言って、わかりませんね」

ユカは椅子を回転させて音声AIの方向に身体を向けて言った。

「本当にわからないの?それとも言っちゃいけないから言えないの?」

「本当にわかりません、それに」

それに?

「言っちゃいけないから言えないなら、それ自体言いません」

いじわるだなあ、ユカは椅子を机の方向に戻し勉強に戻る。

独り言を言う。なんか『運命の人』を知る方法は無いかなあ。

「知ってどうするんですか?」

音声AIはユカに尋ねた。

どうしようか。

言われてみればユキ姉さんが結婚していた人の、双子の「弟」、というだけだ。

「そうね、どうもこうもないわね。でもなんとなくロマンチックじゃない?」ユカは言った。300年の時を経て、愛する二人が再び巡り会う、みたいな。

「遺伝子配列が一緒だというだけで、どちらも別人ですよ」

ルイーズは容赦ない、おっしゃるとおりです。でもさあ、会ってみたいじゃない。


 ソフィア、シンシアと待ち合わせてから向かった南街区のライブハウス前には、行列ができていた。結構人気があるのね、ユカは思った。本日は3組の出演、2番目がアンドレイが率いるバンド「microcosmos」、トリが今日の目玉であるプロのバンド「Chase」だった。へえ、「Chase」と一緒のステージに上がるんだ、緊張するだろうな。

 会場は、観客でいっぱいに埋め尽くされた。すごい熱気だ。会場の照明が落とされ、ステージが明るくなる。トップバッターは東街区ハイスクールのガールズバンド「WoW!」だった。わあ、可愛い衣装!勢いよくオリジナル曲の演奏が始まった。会場は大声援である。友達が随分来ている様子で大いに盛り上がる。シンプルな繰り返しフレーズが耳に残る。2曲を熱演して終了した。いよいよアンドレイ達の番だ。「microcosmos」の面々がステージに上がり、セッティングを行う。表情に緊張の色が見える。頑張って!

 ステージが明るくなる。一瞬の静寂、アンドレイがサイードに合図を送る。ドラムがリズムを刻み始める。続けてアンドレイのエレキギターがイントロを奏でる。そしてボーカルが力強く歌い始めた。地球の古いロックンロールだった。みんな知っている曲なので会場もノリノリになった。良い感じね、シンシアにユカは囁いた。2曲目はオリジナル曲、静かなバラードだった。あ、この前練習してた曲ね。観客は静かに聞きいっていた。最後もオリジナル曲、アップテンポのヘビーメタル、おお格好いい!会場は全員立てノリで、ヘドバンを激しくする観客もいた。バーン!とフィニッシュが決まって大喝采。「microcosmos」のライブが終了した。一旦、会場は明るくなり休憩に入った。「microcosmos」の面々が満足そうに話しながら裏にはけていった。良かったね、とユカはソフィアとシンシアに言う。二人とも大喜びの様子だった。お兄ちゃん格好いいでしょ、とシンシアが自慢する。うん、格好いい、とユカが同意する。ソフィアはボーカルが気に入ったようだ。あの人どこの人?とシンシアに聞くが彼女も知らないとのことだった。あとでお兄ちゃんに聞いとくね、とシンシアが言った。


 ステージではスタッフとおぼしき人たちがセッティングを始めていた。おお、プロっぽい。「Chase」のメンバーも数人出てきてチューニングを始めた。会場がザワザワし始める。ブザーが鳴り、会場全体が暗転する。いよいよ「Chase」のライブがスタートする。

「Chase」は、船の中で唯一のプロのロックバンドだった。結成から14年、メンバーは何人か入れ替わったものの、リードギター兼ボーカルのKenを中心とする骨太の音を聞かせることは変わらない。楽曲は地球にも配信されており、相当メジャーだと聞く。もっとも地球でメジャーになっても、「Chase」には一銭の得にもならないのだが。

 Kenのギターから一曲目が始まる。数年前に船内で大流行した曲だ。スローなAメロから明るいBメロ、そしてハイトーンボイスのサビと繋がる、失恋の歌だ。Kenの実話だと、もっぱらの噂だが、狭い船の中では余計なお世話だろう。二曲目は、バリバリのメタルインスト。ドラムソロに会場が大いに沸く。三曲目は、地球でもヒットしたという十年前の名曲「Trick」だ。おお、伝説の曲を生で聴けるとは!ユカも盛り上がる。恋の駆け引き、騙し合い。歌詞の言葉遊びが特徴的な曲だ。観客もサビで合唱する。いやあ、ライブは良いねえ。最後の曲は、新曲だった。バラード、祈りにも聞こえるようなギターソロに観客は静まり返る。最後の一音が消えると同時にステージも暗転。割れんばかりの拍手と歓声の中でライブが終了した。

 

 「よかったねー」

ソフィアは感激の様子であった。

「やっぱりライブは良いねえ」

とユカも言う。いやあ、ホントによかったわ。シンシアは兄のアンドレイが出演していたせいもあってか、なんだか緊張の糸が切れたようにぼおっとしていた。出待ちをしていると、しばらくして「microcosmos」の面々が街路に出て来た。サイードがユカ達を見つけて照れくさそうに笑って、

「ライブどうだった?」と聞いた。

三人は声をそろえて言った、最高!


 明後日から期末試験だ。私たちのクラスの女子四人は南の喫茶店で勉強会を開催していた。

といっても、真面目にやっているのは私一人であった。他の女子三人は携帯デバイスを弄ったり、ドーナツをかじったりしながらおしゃべりに忙しい。まあいいや、私はユキ姉さんに負けないように頑張るんだから。そう決めたんだから。

 

「だるい」

エミリーが机に突っ伏す。

「眠い」

「はい、エミリー、がんばって」

前に座っているソフィアがエミリーをつつく。

「うう」

エミリーは唸った後、一言「ヤだ」と答える。

「そこのガリ勉さんを見習いなさいよ」

とは、私の前に陣取るズーハンの言葉である。



ズーハンは携帯デバイスの操作に忙しい。

 私は、そのだらけきった雰囲気に呑まれることなく、選択科目の勉強に勤しむ。

「ユカはなに勉強しているの?古典?」

しばらくしてエミリーが顔を半分だけ横に向けて私に向かって言った。

「うーん、選択科目の日本語」

私は答えた。

「漢字覚えないといけないんでしょ?大変だ」

と、ソフィアが顔を上げて言った。ドーナツを食べ終わったソフィアは、真面目に数学の演習問題を始めている。えらい。

「まあね」

コーヒーを一口飲んで、私は休憩する。

「なんで日本語なの?」

ズーハンが携帯デバイスをしまいながら、私に尋ねる。

「結構マイナー言語じゃん」

「私のルーツ、だからね」

と私は答えた。

「えー、そうなんだ?」

エミリーがむっくりと起きた。おはよう。

「おはよー、漢字のデザインって超格好いいよね」

とエミリー。

「でもあんなの1000個も覚えるとかありえなくね?!」

「欧州言語の格変化とかだってメチャ面倒じゃん。覚える手間は同じだよ」私は答えた。

ズーハンが言った。

「中国語の漢字と日本語の漢字は微妙に意味が違うんだよね」

お、さすがにルーツが中国のズーハンは詳しい。そうなのよ。

「やっぱ、だめだ」

再びエミリーが机の上に沈没する。

「私寝る」

おやすみね、私を含めた残りの三人は苦笑しながらそれぞれの勉強を始めた。


 「メルクリウス」から各惑星に送られた探査機が取得した情報に基づいて、VR素材が作成されたというニュースは、船内を興奮させた。誰も行ったことのない、いわば「第2の地球」を疑似体験できる。今回作成されたのはケンタウロス座α星A 第2惑星の「海岸」「草原」それと「森林」だった。味も素っ気も無いタイトルだが 、まだ地図もできていないので仕方がない。VRAI施設には予約が殺到した。施設には定員があるので抽選制となった。ユカも4人分申し込んでみた。当たるかな。楽しみ楽しみ。当たったら誰を誘おうかな。


 シンシアからお昼にメッセが入った。お、久しぶりだわ。近々会えないか?という連絡だった。いいよ、いつにする?期末試験は終わったし今日でも良いよと、ユカは返事をした。

 少し時間が経ってから、今日16時から南の喫茶店で、と連絡が来た。なんだろう、わざわざ南に来るんだ、少し不思議に思ったがユカは承諾の返事をした。


 久しぶり、ライブ以来だね、とユカがガラガラの喫茶店の奥から声を掛けると、シンシアは、虚をつかれたような表情をしてから、小声でそうだね、あれ以来だねと答えて、ユカの前の席に座った。なんか元気の無い様子だった。


 沈黙。

「どうしたの?」

私は尋ねた。

私から聞かなきゃ、これは進まないかな。

また沈黙。シンシアはコーヒーを少し飲む。


決意が固まったようにうなづき、ようやくシンシアが話し始めた。

しかしその内容は私が思ってもみないものだった。


「あのね、ユカにお兄ちゃんと付き合って欲しいの」


はあ?私は固まってしまった。言葉がでてこない。どういうこと、付き合うってなに?

シンシアは黙ってうつむいている。どうしよう、なにか言わないと。


「ええと、アンドレイに頼まれたの?まさかね、そういうキャラじゃ無いよね」

我ながらバカなことを言ったと私は後悔する。

シンシアは顔を上げて急いで首を振って言った。

「お兄ちゃんが頼んだんじゃなくて、私からのお願いなの」

ようやく思考回路が動き出す。私は言った。

「付き合うって、どこか一緒に行くとかそういうことじゃなくて?」

この深刻な雰囲気でそういう話ではなさそうだな、と話しながら私は思う。

シンシアは小さく首を振ってから、私の目をじっと見ながら答えた。


「ユカがお兄ちゃんの恋人になって欲しいの」


シンシアはすでに半泣きだった。私は言った「なにか事情があるの?話してみて」

しばらくうつむいて沈黙した後、シンシアは顔を上げて言った。

「私、お兄ちゃんのことが好きなの、大好きなの、でもお兄ちゃんなの」

ボロボロとシンシアは涙を流し始めた。


 ブラコンとか言っちゃったしなあ、ごめん、と私が慌てて言いかけるとシンシアは手を振って、

「そうじゃなくて、ライブの時に私は気がついちゃったの、私、お兄ちゃんことが好きなんだって、ずっと好きだったんだって。でもお兄ちゃんだからダメなんだって」


 そういうことか、私に恋人になれというのは、アンドレイを諦めたいということなのね。

私は考え込んでしまった。冷静になって考えてみると、シンシアとアンドレイは血の繋がりが無い兄妹であるから、順調に進んでも法的な問題は無い、はず。でもそういう問題じゃないのよね。アンドレイはシンシアを妹としか見ていなくて、だったら親友でアンドレイの幼馴染みでもある私に恋人になってもらって、自分は諦めようと。私は静かに泣きじゃくるシンシアを前に、なにも掛ける言葉が浮かばなかった。

「ごめん、変な頼みごとしちゃって」しばらくしてシンシアが言った。いや全然。驚いたけど。私は口籠もりながら答えた。

「でも私、本気だからね」そうシンシアは私に言った。

帰り道、別れ際にもシンシアは言った

。「ユカ、考えておいてね、さっきのこと」


「ねえ、ルイーズ?」

シンシアと別れて、自宅に戻り机に頬杖をつきながらユカは、音声AIに声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

「私はアンドレイのことが好きかなあ?」

変な質問だな、ユカは自分で自分にツッコミを入れる。音声AIは、しばらく黙り込んでから、おもむろに答えた。

「友人、先輩としては好意を持っていると感じますが」

よく観察しているな。まさか防犯カメラとか携帯デバイスで盗み見とかしているんじゃないだろうな。

「法律上そのようなことをしてはいけないことになっています」

涼しい顔で(顔は無いけど)音声AIは答えた。まあ法律上はね、いいけどさ。続けて尋ねてみる。

「恋愛対象としてということだと、どう?」

音声AIは、少し間を空けてから答えた。

「ご自分が一番わかっていらっしゃるかと思います」

やれやれ、そういうことだよな。

「じゃあ、アンドレイが『運命の人』だと仮定したら?」

音声AIは、即答した。

「少なくとも現段階では、答えは変わらないかと」

いちいちごもっともだな、とユカは思った。


 このまま、うやむやにはできないしな。どうにかしなくちゃだ。ユカはベッドに寝っ転がって考える。ユキ姉さんだったらどうするだろうな、と独り言をつぶやいた。


 クリスマスコンサート前の最後の練習日だった。ブラスバンドクラブは3曲演奏する予定だった。ああ、私、練習不足だ。ユカは自分のクラリネットの音が浅いことに腹を立てていた。なんて下手なことか。もっと、こう、深い音がどうにか出ないものか。溜め息をつきながら譜面台を畳み、椅子を片付けて練習室を出るときに、入れ替わりで「microcosmos」が入ってきた。あ、今日練習日なんだ。目が合った。

「あ、ユカちゃん」

アンドレイだった。こんばんは。ちょっと先やってて、と慌ててアンドレイは他のメンバーに声をかけると、私を練習室の隅に引っ張っていった。ええと。なんですか。

「あのさ、最近、シンシアが元気ないんだけど、心当たりないかな?」

アンドレイが小声で私に尋ねた。

大有りだよ、お兄さん、あんたのせいだよボケカス、とはさすがに言えず、

「なんでしょうねえ、ちょっと色々」

と私は言葉を濁す。

「そうか、なんか俺にできることあったら教えてほしいんだけど」とアンドレイは言った。

思いついたら連絡します、とだけ私は言った。いやあ、どうもしようもないんだけど。

アンドレイは、ありがとう頼むよ、といってメンバーの方に戻っていった。

私はメンバー達に挨拶をして廊下に出た。



「ちょっとちょっと、旦那、隅に置けませんねえ」

わ、エミリー、顔が近い。

「あのイケメンギタリストと、どういうお知り合いで」

エミリーがニタニタ笑う。参ったな。

「ああ、幼馴染みなのよ、アンドレイは」

私は顔を引きつらせながら答えた。

「親友の兄貴なの」

エミリーは同じブラスバンドクラブでサックスを担当していた。

「それだけ?」

うん、それだけ。でも深刻そうに話してたよ。

「ああ、まあ、あれはちょっとね

」私は急いで誤魔化す。

「それより早く帰ろうよ」

エミリーは納得していない様子だったが、そうねお腹も空いたしね、と言った。やれやれ。


「新年、明けましておめでとうございます

」日本語ではそういう挨拶をするそうである。Happy New Yearとさして感覚は変わらないのだろうな、でもなにが明けるのかな、去年の夜かな?

いずれにせよ、みんな Happy New Year!幸せな一年でありますように。

 クリスマスコンサートも無事に終わり、休暇も過ぎてさて新しい学期の始まりだ。月末には、すぐ中間試験だ。ハイスクールはテストが多いな、まったくもう。

 今日は友達と騒ぎながら勉強をする気分ではなく、静かなところに行こうと思い、図書館へユカは向かった。

 いつも座る端っこの席に先客がいた。え、大人の人?ハイスクールの図書館は一般の図書館と一体なので、大人も子供も来るのだが、放課後すぐのこの時間に大人がいるのは珍しい。男の人だ、どこかで見たことがあるとユカは思った。誰だろう。ユカの来た気配を感じたらしく、男は読んでいた本から顔を上げてユカの方を見やる。

 「あ」思わず声を上げてしまい、ユカは謝った。

「ごめんなさい、お邪魔してしまって」

男はニコリと笑って、気にしないでという風に首を小さく振った。

 長机の逆の端っこを陣どって、ユカは勉強に専念する。1時間くらい経過して、ふう、と思わず溜め息をつきながら顔を上げると、それに気が付いたか、先客も顔を上げた。ユカは思い切って話し掛けてみた。

「あのう、「Chase」のKenさんですよね?」

ちょっと意外そうな顔をして

「ああ、僕のこと知ってるの?」

とその男、Kenはユカに言った。

「この前のライブハウスでのライブに行きました」

とユカは言った。

「ああ、そうなんだ」

とKenは答えた。

「はい、友達のお兄さんが出演したので応援に」

と、咄嗟に言ってからユカは気が付いた、わああ、私失礼なこと言っちゃいました、ごめんなさい。

あはは、とKenは笑って、気にしなくていいよと言うように手を振った。そして「で、友達のお兄さんって誰?」とユカに尋ねた。

「microcosmos」のギタリストです、とユカが答えると、Kenは、ああ、という顔をして、アンドレイね、と言った。え、知り合いなんですか、とユカは尋ねた。

「教え子なんだよ、僕はハイスクールで選択科目「ポピュラー音楽」の授業をしてるから」

照れ臭そうにKenは笑った。そして手元の本とノートの方に手をひらひらさせながら、

「今日は授業の準備なんだよ」

と続けた。あれ、南街区でも教えているんですか、とユカは尋ねる。

「ああ、次の学期からね。今から音楽準備室は使わせてもらってるよ」

とKenは言った。そうなんですね、来学期、選択で取ろうかな。是非、とKenは微笑んだ。


 しばらくして

「そろそろ、準備室に戻るよ」

Kenは荷物をまとめて立ち上がろうとして、

「ああ、そうだ、コーヒー淹れるけど、飲む?」

とユカに尋ねた。あ、ちょうど飲みたいと思っていました、とユカは答えた。勉強飽きちゃったし。教師としては聞き逃せないなあ、とKenはしかめっ面をする振りをしてから、笑った。


 並んで音楽準備室に向かうときに、ユカはKenを見上げながら思った。あれ、Kenさんって大きいんだな、ステージ上にいるときにはわからなかった。

「ん?」

Kenは、ユカの視線に気づいて、なにか用?という顔をした。

「いえ、Kenさんって背が高いなって」

そして自分が名乗っていないことに気がついて、慌てて

「ユカって言います、南の第四学年です」

と言った。うわあ私、失礼にもほどがある、とユカは思った。

「ユカさんね、よろしく。背が高いのは、今はなんの役にも立たないけどね」Kenは部屋の鍵を開けながら答えた。さあどうぞ。ちょっと待ってて、今用意するから、そこら辺に腰掛けて、と幾つかある椅子の方にユカを案内した。

「前任の先生が凝り性で、サイフォンを置いていってくれてね」

Kenがセッティングをしながらユカに言った。もう少し待ってて。


へええ、色々な楽器が置いてあるな、Kenさん全部演奏できるのかな、私は思った。あれ、クラリネットもあるぞ。

「Kenさんは、クラリネットも吹くんですか?」

ああ、ブラスバンドに入っていたんだよ、とコーヒーカップにコーヒーを注ぎながらKenさんは答えた。

「私もブラスバンドクラブに入っているんです」

私は思わず言ってしまった。いや、下手なんですけど。



 さあ、どうぞ、Kenさんがコーヒーカップを渡してくれる。ありがとうございます。

「どうしたら上手になりますか?」

私はコーヒーを飲みながら尋ねた。あ、コーヒー美味しい。

「ちょっと、吹いてみて」Kenさんはクラリネットを私に渡した。私はクリスマスコンサートで演奏したうちの一曲を数小節吹く。私が吹き終わると、じっと観察していたKenさんは微笑して一言、言った。

「身体に力が入り過ぎ」

「あ、よく言われます。でもどうしたら良いかわからないんです」

私は答えた。

うーん、と唸りながら、Kenさんが私の方に手を差し出してクラリネットを受け取った。私の吹いた曲を吹き始める。上手!柔らかい深い音色だ。演奏が終わったとき、私は思わず拍手をしてしまった。ニコリと笑ってマウスピースを拭きながらKenさんはクラリネットを持って私に近づいてきた。ちょっと持ってみて、と言って渡す。私は構える。ああ、手首と肘と肩、とKenさんは言った。

「えええ、全部じゃないですか」情けない。

 まずね、深呼吸、それで頭のてっぺんから吊り下げられるイメージ。背中を広げる感じで。

手首はね、Kenさんが私の両手首を軽く握る。


あ、温かいな。


 肩から力を抜いて、そう、そんな角度、力が抜けてるでしょ。それで溜め息をつく感じで吹いてみて。そう、その次に普通に吹いてみて。その間くらいで、今度はお腹から吹いてみて。んー、顔の力を抜いて。少し笑って。お、良い音が出た!


「ありがとうございました」

コーヒーをご馳走になって、レッスンまでしてもらって、と私は言った。連絡先を教えてもらう。また是非教えてください!あはは、いつでもどうぞ。ああ、機会があったらアンドレイによろしく言っといて。はい!


 晩御飯を食べた後、自室に戻ってベッドに寝っ転がったユカは、独り言を言った。

「年上の人ってどうかな」

音声AIが反応した。

「船内で婚姻関係になる男女の52%は、男性が年上です」

ユカは音声AIに向かって、ベッドの上にあったぬいぐるみを投げつけた。ルイーズのバカ。


 期末試験が終わった。最優等!やったね、私。やっぱりやればできる子、ユキ姉さんに負けてないわ。さあて、Home Coming Dayのコンサートに向けて練習しなくちゃだ。Ken先生にメッセする。今日放課後、レッスンお願いしても良いですか?

期末試験の前を除いて、毎週水曜日の放課後にクラリネットのレッスンを受けていたのだが、これからはコンサートまで、もう少し頻度を上げよう。あれ?返事が遅いな?


「この2週間、ほとんど徹夜でずっと打ち込みとレコーディングでね」Ken先生は、ボサボサ頭のヨレヨレな格好で言い訳をする。

「先生、最悪です。さっさと体育館でシャワーを浴びて着替えてきてください」

私はKen先生に命令を下した。だらしないのは、ダメです。

 わかったユカちゃんの言うとおりにする、そう言ってKen先生は、着替えが入っているらしきリュックサックを担いで、ほうほうの体で準備室を出て行く。

溜め息をつきながら、私はコーヒーを淹れる準備をする。全くもって男の人はダメである。それとも、特にミュージシャンがダメなのか?


 自主練をしていると、Ken先生が帰ってきた。これで良いかな?Ken先生が聞く。

「少しマシになりました」と言って、私は笑った。

「じゃあ、コーヒーを飲んでから、レッスンをお願いします」

Ken先生が小さな声で「どっちが先生か分からんな」とぼやくのを私は聞き逃さない。

「Ken先生、なにか言いました?」

「いや、なにも」

そう言ってKen先生は、慌ててコーヒーを飲み始めた。


 自宅に戻り晩御飯を食べているとき、携帯デバイスへVRAI施設から当選の連絡が入った。やった!しかし問題があった。来週火曜日の16時から?これじゃあ、お父さんとお母さんは仕事だからダメね。 友達を誘うか。


 意外なことに人選は難航した。結構期日が近いので、みんな予定が入っている。えええ、せっかく当たったのに。悩んでいた、ちょうどそのときにアンドレイからメッセが来た。Home Coming Dayでの「microcosmos」のミニライブへの誘いである。飛んで火に入る夏の虫、とばかりユカはアンドレイに電話をして説き伏せる。ほら、大学入学資格試験も終わっているでしょ?なかなか当たらないんですよお?!

 いいことを思いついた。

「シンシアと一緒にどうかしら?」

OKだった。あと一人ね。さあどうしよう?

 再びメッセが入る。誰?Ken先生から水曜日の練習時間をずらしてほしいという連絡だった。おお、先生ならヒマそうだ、というか融通が利きそう。折り返し私は電話を掛ける。

「先生、火曜日の16時から空けられますよね?」

どうしたの?

「VRAIが当たったんです。第2惑星の」

おお?

「で、一人空きがあるので先生も興味があるかなと」

友達と行けばいいんじゃない?

「みんなKen先生より忙しいんです」

ユカちゃんはひどいこと言うなあ。

「アンドレイを誘いました」

ああ。

「ということで、ギタリスト繋がりで先生も参加しましょう」

「わかった、空けるよ、久しぶりにアンドレイとも会いたいしね。

 シンシアにとっても、なにかきっかけになるかもしれないし、悪くない進行だわ、私はベッドに入りながら思った。どこにしよう?海岸?草原?森林?みんなと相談しなくちゃだ。


 これが第2惑星の「海」なのね、私は呆然と立ち尽くした。隣のシンシアは砂浜にへたりこんでいる。言葉が出なかった。視界いっぱいに水がある。いやそんな簡単なものではない。写真や映像では見たことがあったが、スケールが違う。自然に涙がこぼれ落ちて来た。どうしてだろう?


 潮の匂いが濃い。目の前で少女が二人、一人は立ち尽くし、一人は座り込んでいる。隣には若い男が目を見張って、ブツブツとなにやら呟いている。Kenは以前、地球のVRAIを体験していた。しかし、この第2惑星の「海」は、なにかが違った。真っ青な空、真っ白な砂浜。そして広大に広がる海原。そこまでは、地球の美しい観光地の光景と変わらない。なにが違う?

 Kenは気がついた。生き物の気配が全くないのである。鳥の囀りも、空を飛ぶ昆虫も、砂浜を歩くヤドカリも、なにもいない。4つの生命体だけが砂浜にいる、そんな世界だった。


 我に返った。シンシアに声を掛ける「大丈夫?」うん大丈夫、と答えが返ってきた。振り返ってみるとKen先生は腕組みをして難しい顔をしており、アンドレイは口をぽかんと開けていた。

 Ken先生に声を掛ける。

「すごいところですね」

そして、私は自分で自分の声に驚いた。少し声音が低い?

「大気の成分が違うから音速が違うんだろうね」

Ken先生が言った。そうか。でも、そんなに差があるの?

 「それよりなにより生き物が全くいない」

とKen先生が続けた。

あ、ホントだ。全然動くものが目に入らない。背後にそびえる巨木が風に揺れるのと、波が寄せ来るだけで、生物らしい動くものは全くいないようだ。なんだか私は嬉しくなってKen先生に言った。

「ここ、天国みたいですね」

「僕は、逆に」そこでKen先生は言葉を切った。逆に?

「いや、生き物がいないことが怖くてね」

そして私に微笑みながら言った。

「ユカちゃんは強いな」

 アンドレイが笑って言った。

「僕たちはこの星の王様になるんだね」

釣られて笑ったシンシアは小さな声で私に言った。

「私たちは女王様かな?」

「この世界に人類が到着したらアダムとイブみたいになるな」

とKen先生が言葉を繋いだ。

アダムとイブ?

「古い物語に書かれている、この世で最初に作られた人間の名前だよ」

植物や動物が作られ最後に神様は人間を作った、そういう物語。旧約聖書の「創世記」という話だ。僕たちはみんなアダムとイブの子孫だそうだ。

 そしてKen先生は続けた。

「我々の子孫は遠くない将来、この天国に来るんだな」


 シンシアが、「あっ」と小さく叫んだ。どうしたの?

 シンシアは私に囁いた。

「ここと同じで、私もゼロから始めれば良いのよ」ゼロから?

シンシアは立ち上がって、アンドレイのところに駆け寄って、にっこりと笑って言った。

「お兄ちゃんと来れてよかったわ、いろいろなことがわかっちゃった」

「え、どんなこと」アンドレイは不思議そうにシンシアに尋ねた。

シンシアは「秘密」と言って笑った。


 ああそうか、私もわかっちゃった。そうか、そういうことか。

私はKen先生に言った。

「いつか先生と一緒に、ホントにここに来たいです」

Ken先生は、驚いたように私の目を見てから、少し考えた後に微笑んで言った「きっと来れるよ」

 その後、私達は海岸線を、少しはしゃぎながら散策した。

楽しいな、と私は思った。どこまでもこの海岸線が続けばいいのに。いつまでもこの時間が続けばいいのに。


 Home Coming Dayは、ブラスバンドクラブの出番が多い。特に今年は南街区の番なので、オープニングセレモニーや、初等部のサポートもすることになっていて、クラブのコンサート以外にも盛りだくさんであった。

「疲れた」エミリーが模擬店のパフェをつつきながら愚痴る「しかも、振られた」

「エミリー、また振られたの?懲りないわね」

ソフィアが突っ込む。

「何回目よ?」

「数えてない」エミリーは溜め息をつく。

「いい加減、レオンは諦めなよ」ユカが諭す「他にも良い男はいっぱいいるでしょ」

「ヤだ」エミリーは頑固である。

「もう少しで落とせる」そう言って、紅茶を飲み干す。

「なんでレオンなのよ?」ソフィアがエミリーに尋ねる。

「しょうがないじゃない、好きなんだから」エミリーの答えは明快であった。「気が済むまで闘うわ」

闘いなのかい?!

 さあ、もうすぐ演奏の時間だわ、講堂に行きましょ、ユカがエミリーを促して立ち上がった。

後で見にいくからねー、とソフィアが手を振った。


 ステージ裏に到着すると、なにやらザワザワしていた。どうかしたの?

照明の調子が悪いみたいよ、いち早く情報を取得したエミリーが教えてくれた。

え、それってまずいじゃん。AIによれば、配電盤が故障したみたいよ。スポットライトは別系統なので大丈夫みたいだけど。スポットライトだけじゃ演奏できないよ。北街区の講堂にある部材に交換する手配をするって。え、どのくらい時間かかるの?あと1時間くらいかな。お客さん満員だし困ったわね。

「なにかあったの?」

あ、Ken先生。照明が故障したみたいで。

私の説明を黙って聞いていたKen先生は、講堂の催し物の進行係と話をちょっとしてから部屋を出て行き、5分もしないうちに戻ってきた。手にはアコースティックギターのケースを抱えていた。

「ステージ中央にスポット当てて」

それだけ言ってステージに出て行った。

会場がざわつく。Ken先生はマイクを手に持って言った。

「ChaseのKenです。照明の具合が悪いようです。部材の交換まで少しかかりますので、ブラスバンドクラブの演奏ができるようになるまで、僕の歌を聴いて下さい」

そしてギターのチューニングを手早くした後に、マイクのセッティングをした。そしてマイクに向かって短く「じゃあ始めます」と言ってギターを弾き始めた。



 最初は「Trick」のアコースティック版だった。ゆっくりとしたテンポ、印象が違う。恋の駆け引きじゃない、相手に上手く自分の気持ちを伝えられない不器用な男女の物語だった。

 え、こういう歌だったの?ユカは思った。 観客も同じように感じたのだろう、曲が終わってから、少しの間を置いてから大きな拍手が送られた。

 じゃあ、次はちょっと明るい歌で、とKenが言った。古い地球の歌、ユカも知っている暑い夏の歌だった。観客から手拍子が起こる。アップテンポのサビの部分では合唱する人もいた。その曲が終わり拍手が鳴り止む前に、部材が届いたとの知らせがステージ裏にもたらされた。

 舞台の進行係が、そでから出て行ってKenにその知らせを伝える。Kenは軽くて頷いた後に、ギターのチューニングをして、マイクを握って言った。

「照明の修理がもうすぐ終わります。僕の最後の歌になります、新曲です、聴いて下さい」

Kenは演奏を始めた。


 その曲は、波が寄せては返すような繰り返しのメロディーから始まった。歌が始まる。ユカにはすぐにわかった、あの「海」の歌だ。私たちが目指しているケンタウリの海、なにも生物がいない空の下を歩く私たちの歌だった。いつかその場所を本当の天国にするために私たちは旅を続ける。その場所で必ず君を幸せにするために僕は歌い続ける。


 曲が終わり大きな拍手と歓声が会場中を覆った。照明がついた。Ken先生は、照れ臭そうに片手を上げてからステージから降りた。

なんか夢の中にいたみたい、ユカは思った。

でも今度は私たちブラスバンドクラブの出番だ。気合いを入れ直さなくっちゃ。さあ行くわよ!ムードメーカーのエミリーがみんなに声を掛ける。


 水曜日のレッスンが終わって、Ken先生にお礼を言った後に、私は続けて言った。

「あと、もう一つ良いですか?」

「え、なに?」

私は大きく深呼吸をしてから言った。

「私はKen先生のことが好きです。先生にも私のことを、もっと好きになってもらいます」

えっ、Ken先生は、不意打ちを食らったらしく身体をびくっとさせた。

「先生のあの海の歌は、私への告白と理解しました」

私は続けた。

「私は間違っていますか?」


 Kenは、自分の方を真っ直ぐ見つめる少女をまぶしく思った。こんなにも純粋なんだ、俺みたいなのでいいのか。


「僕はユカちゃんより随分年上だ」

経験豊富で頼もしいです。

「ユカちゃんは、若すぎる」

先生には私がハイスクールを卒業するまで、待っていてもらいます。

「僕は音楽馬鹿だ」

知ってます。

「2週間、徹夜で仕事したりするぞ」

シャワーは浴びてもらいます。


そして目の前の少女はニコッと笑って言った。

他にご質問はありますでしょうか?

私はしつこいので、今回断られてもまた挑戦しに来ます。いかがでしょう?


わかった、降参だ。Kenは少女に言った。

僕も君が好きだ。できれば一緒に人生を歩んでほしい。


「ねえ、ルイーズ?」

自室で勉強をしながらユカは、音声AIに声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

「『運命の人』って本当にいるのね」

少し間を空けてから、音声AIは答えた。

「この広い宇宙で、互いに愛しあえる人に出会うのは、奇跡的な運命です」

ユカはスピーカーの方を振り向いて睨むフリをする。

「ルイーズ、あなた、絶対盗み聞きしてたでしょ?」

音声AIは答えた。

「法律上そのようなことをしてはいけないことになっています」

最後まで読んでいただき、ありがとうございまいた。


クローン2代目のユカの物語でした。

クローンは転生ではなく、一卵性双生児なわけですが、

時代を超えて遺伝形質が同じ人が現れた時に、どのような行動をするのか興味があります。

特に、クローン元の情報を得ている時にはどうなるんだろう?

でも、たぶん我々と同じようなことに、悩んだり、苦しんだり、

逆に楽しんだり、喜んだりするのでしょうね。

そんな少女達の物語を書きたいと思って作った作品です。


楽しんでもらえたら嬉しく思います。


ではまた!



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