ミチルとワタシの寝子日記
実験的書き方の短編です。
切ないお話になります。
猫の幸せ満点ストーリーご希望の方は、そっとウィンドウを閉じてください。
ワタシがワタシに気づいたのは、ある春の日だった。
ポカポカと暖かなひだまりの中で、ワタシは初めて目を開いた。
ふかふかの薄茶の毛並みの間に、甘い香りを放つ乳房が見えた。
ワタシが母に気づいたのは、春の嵐の日だった。
いつも食事をくれるのが、ワタシの母なのだと知った。
いつも温もりをくれるのが、ワタシの母なのだと知った。
ワタシが命に気づいたのは、嵐が終わった夜だった。
隣で寝ていた塊が、ひとつ体を動かさなくなった。
冷たくなるということが、死ということだとワタシは知った。
ワタシが人に気づいたのは、母との別れの朝だった。
人はワタシを猫と呼び、母の元から連れ去った。
たくさんいた塊は、ワタシと同じ猫だった。
ワタシが死期に気づいたのは、夏の始まりの日だった。
たくさんいた猫たちは、貰い手を見つけ旅立った。
ひとつ残ったワタシには、食事も自由もなくなった。
ワタシがミチルと出会ったのは、ある夏の日だった。
鳥かごの中に入れられた、ワタシを見つけミチルは抱いた。
痩せた体でしがみつき、必死に鳴いたワタシのことを、ミチルは一言「飼いたい」と言った。
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私が「ニノ」と出会ったのは、ある夏の日だった。
私は学校を休みがちになり、家で寝ている日が増えた。
暗く閉め切ったカーテンからは、蝉の鳴く声が夏を告げた。
あれはなぜだったのか。きっとニノが呼んだのだ。
私は急にワガママになり、猫を飼いたいと両親にねだった。
私は滅多にワガママを言わない、とても良い子だった。
両親は部屋にこもる私が、熱心に猫をねだるから、絶対に命を粗末にしないと約束させて、私を連れて猫を探した。
仔猫は夏にはもういない。
春に生まれた猫たちは、みんな大きくなっていて、どの店に行ってもいなかった。
諦めた両親と、諦めきれない私は、最後の望みを持って崩れそうな店へと入った。
ボロボロの看板には「鳥・猫・犬」の文字が書かれ、店の前には痩せこけた犬が一匹伏せて眠っていた。
店の中は鳥かごだらけで、その一番奥にニノはいた。
ニノは、私を見つけて鳴いた。
鳥かごの中に押し込められていたニノは、細く小さく瘦せぎすだった。
目には目やにがこびりつき、伸びきった爪で抱いた私を掴んだ。
私はそのままこの子を飼うと宣言し、両親はギョロリとした目の痩せこけた老人に、猫のお代を支払った。
もう大きく育った猫で、病気で痩せこけていたけれど、両親の財布から大きなお金が消えた。
両親の優しさと引き換えに、我が家へやってきたニノは、最初はずっと病院へ通った。
母と私は必死に看病をした。
だんだんと、ニノは元気を取り戻した。
ニノは元気になっても鳴かなかった。
初めて出会った時はあんなに鳴いたのに、その後はずっと鳴かなかった。
私はニノと遊ぶため、暗い部屋から出るようになった。
両親はとても喜んだ。
一緒に住んでたおばあちゃんは「ニノは愛想がない」と言った。
ニノは人の膝には乗らず、洗濯籠の中にばかり入りたがった。
呼んでもこない。じゃらしてもすぐに飽きる。
ニノは愛想がなかったけれど、私はニノが好きだった。
ある日家に鼠が出た。
叫ぶ母の足元を、ニノは一気に駆け抜けた。
ニノは子鼠を転がして、嬲ってなかなか殺さなかった。
業を煮やしたおばあちゃんが、ハエ叩きでトドメを刺した。
ある日弟が金魚を飼った。
祭りで掬った金魚たちは、水槽の中を元気に泳ぐ。
オモチャに興味はなかったニノが、泳ぐ金魚に食いついた。
ニノは水が嫌いなのに、よく水槽に登っては、足を踏み外し中に落ちた。
金魚は一匹も食べられなかったけれど、しょっちゅうニノが落ちたから、弱ってみんな死んでしまった。
私は元気を取り戻し、大学へ行く勉強を始めた。
高卒の資格を取るのは難しかったけれど、ニノはいつも黙ってそばにいてくれた。
部屋の片隅に洗濯籠を置けば、ニノはいつでも来てくれた。
私は無事に資格を取り、大学へ入学が決まった。
家族はみんな喜んで泣いた。
私はとても嬉しかったけれど、ニノと離れることが寂しかった。
最後まで責任を持つと言ったのに、私が入れた大学は、家から遠い場所だった。
私はニノを母に頼み、見知らぬ土地へと旅立った。
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ワタシが寂しさに気づいたのは、ミチルが消えてからだった。
家のどこにもミチルがいない。
心にぽっかり穴が開き、ワタシはご飯が食べれなくなった。
ワタシが声を取り戻したのは、ミチルが消えてからだった。
ミチルを探して声をあげた。
鳴いても鳴いてもミチルはいない。
ワタシが人の温もりを知ったのは、ミチルが消えてからだった。
ワタシは膝に呼ばれれば乗った。
ミチルの膝には乗らなかったから、ミチルは消えたのかもしれない。
ワタシが異変に気づいたのは、ミチルが消えてからだった。
ワタシの体にはしこりが出来て、それがとても痛かった。
日に日に大きくなるそれは、ワタシの体を蝕んだ。
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私が実家に帰れたのは、ニノと会った日のような暑い夏の日だった。
大学が夏休みに入り、ようやく家へ帰った私は、玄関扉を開けた先で、ニノが待ってたことに驚いた。
ニノは数ヶ月ですっかり変わった。
私の姿が少しでも消えると、声をあげて私を呼んだ。
私が膝にニノを呼ぶと、ニノはすぐにとんで来た。
ある日私がニノを撫でると、お腹にしこりがあるのに気づいた。
慌てて病院へ連れて行くと、それが悪性腫瘍だと分かった。
すでに腫瘍は大きくて、小さな猫の体では、ニノは手術も耐えられない。
私は泣いた。家族も泣いた。
せっかくニノが鳴いたのに、せっかくニノが膝に乗ったのに、小さな小さな温もりは、もうすぐ終わりを迎えてしまう。
私は夏休みの間、ずっとニノと一緒にいた。
家から一歩も出ない私を、昔と違って両親は、叱らず優しく見守ってくれた。
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ワタシが安らぎに気づいたのは、ミチルが戻ってからだった。
ミチルのそばにいるだけで、ひだまりよりも温かだった。
ワタシが涙に気づいたのは、ミチルが戻ってからだった。
ミチルの目から落ちる水が、涙というものだと知った。
ミチルの涙は塩っぱかった。
ワタシが感謝に気づいたのは、夏の終わりの日だった。
意識がだんだん遠くなり、ミチルの声が聞こえなくなった。
ミチルの姿が最期に見えた。
涙をこぼすミチルに向かい、ワタシはありがとうと、声をかけた。
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夏休みはあっという間に過ぎた。
ニノの体は日に日に衰弱し、命が短いことを告げた。
私は大学に戻りたくなかった。ニノのそばにいたかった。
ニノはそんな私の気持ちに気づいたのか、大学が始まる前に息を引き取った。
最期に鳴いたニノの声は、私にがんばれと言った気がした。
私はニノを思い出す。
部屋に閉じこもり寝てばかりだった私を、暗闇から救ったニノを。
日向で寝てばかりだったニノが、私に元気をくれたことを。
虹の橋の向こう側で、いつかニノに会える日まで、私は生きていこうと誓った。
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ワタシが終わりを知ったのは、命を失ってからだった。
ワタシの心はぽっかりと光の中へ浮いていた。
ワタシの命は終わったけれど、ミチルと過ごした日々は楽しかった。
ワタシはミチルの温もりを、胸に抱いて空へとけた。
ーーおわりーー