第7話
「面妖だな」
ふむ、と三日月が考え込むのを見ながら、彼らの視線から腕を隠すように、そっと袖の中へと戻す。
ゆっくりと身を起こそうとしたが、身体が言うことをきかなかった。
「瘴気を大量にその身に浴びたからだろう」
そう告げるのは山姥切だ。
彼の向こうで陸奥守と青江がなにやら話しているが、少し遠くてあまり聞こえない。
彼らはようやく一仕事が終わったのだと感じているようだ。
ちらりと泉を見やる。
禊を始める前と同じく、静寂が包み込んでいた。
その水面にはただ月だけが写りこんでいた。
「さあ、主よ。戻るぞ」
そう言って三日月が自分に向かって手を伸ばした。
立ち上がらせてくれるのかと思い、その手を取った。
「え?」
実際はそうではなかった。
勿論、立ち上がらせてくれたが、そこから肩に担がれてしまう。
いわゆる、俵と同じような扱いだ。
恥ずかしいからやめてほしいと訴えるも、三日月は笑い声を立てながらこう宣った。
「ならばお姫様抱っことやらでもいいのか?」
その言葉に反論は言えず、静かに運ばれてゆく。
俵担ぎ状態のままで部屋へと戻ってくると、すぐに寝間着へと着替えさせられ、寝台へと寝かされた。
「大丈夫ですから…」
「主の大丈夫は聞き飽きた。おとなしく眠っておいた方がいいぞ」
普段はじじいだからなと言いながらホケホケ笑っているだけだというのに、今日ばかりは正反対だ。
まあ、それだけ心配させたということもあるだろうが。
「もうじき和泉守が粥を持ってくるだろう」
「粥、ですか」
この本丸で初めて食べた食事のことを思い出す。
最初は味のしない、ただ米を煮ただけの粥かと思ったが、あとから甘い……砂糖の味がした。
塩と砂糖を間違えていたことを知らされた直後の和泉守の姿が思い出される。
「どうした?」
「……いえ。なんでもありませんよ」
ようやく笑いの波が引き、ふう、と吐息をつく。
「あとのことは俺たちに任せて、主はゆっくりと休むといい」
寝台脇に置かれていた紙片を取り上げ、それに視線を落とした。
そこには本日の予定が書きこまれているのだ。
予定がそう多くはないと判断したのか、三日月はそれを懐に入れる。
「主よ」
おとなしく寝台へと横になる自分へと声がかけられる。
「はい?」
「今日一日は決して部屋から出ぬようにな。禊について知っているのは主の他には7振りだけだからな」
念を押されたような形だ。
しかし、いつになく真剣な表情の三日月に、否とは言えなかった。
了解の意を示すように首を縦に振る。
それに気をよくしたのか、三日月は他に何も言わず部屋を出ていった。
その後しばらくして和泉守が粥を持ってきた。
「久々に作った粥だが、今回は長谷部の助言で野菜を多く入れてみたぜ」
「そうですか」
笑みを浮かべ、一人用鍋から椀へと移し替えられた粥を匙で掬って口へと運ぶ。
まあ、これは粥ではなく既に雑炊なのだが、それは言わないでおこう。
「どうだ?」
「凄く美味しいです。よくこれだけの美味しい出汁が出ましたね」
畑には本丸で消費する様々な野菜などが植えられており、刀剣男士たちが日頃世話をしている。
その野菜からの出汁ではなく、恐らくこれは鰹節?なのだろう。
「まあ、あいつがな。陸奥守が余計な世話を…」
と、このような粥になった成り行きを話してくれた。
未だにこの二人は犬猿の仲のようだが、時間がこの二人の溝を埋めてくれることを願う。
ゆっくりと時間をかけて食べる。
食べ終えると再び寝かされた。
これも三日月に言われたとか。
苦笑しつつ横になって目を閉じる。
ここまで体が軽いと思えるのはいつ以来だろうか。
「………あれを切り離して…よか、た……」
すう、と意識が霧散する。
「…………」
しばらくして執務室に通じる扉が静かに開いた。
入ってきたのは三日月だ。
主の身体を心配し、様子をうかがいにきたのだろう。
「やはり俺の気のせいではなかったか」
ぽつりと呟きながら主の寝顔を見つめ、息を吸って一呼吸置き、口を開く。
「…………寝入ったと見せかけて様子を窺うのはよせ。起きているのだろう」
それは誰でもない、主へと発した言葉だった。
「いつすり替わったのかわからぬが、俺の目が節穴と思ったか?」
「……まさか。あなたほどの人の目が節穴だとは思っていませんよ」
主がゆっくりと身を起こす。
「本当にあなたは聡い。本当に聡すぎますよ、三日月宗近さん」
「主の姿で俺の名を口にするな」
太刀の鯉口を切って抜き払うと、切っ先をその首筋へと当てる。
「物騒なものを出さないでもらえますか。それに、この姿は私本来の姿。他に変えようもありません」
にっこりと笑みを浮かべるのも口調もすべてが主そのものだ。
だが、どこか異質に思える。
そう。
この異質さ……些細な違和感が最初からあった。
「なるほど。では本物の主はどこへやった?」
「………そんなにあれが気になりますか」
あれ、とは恐らく主なのだろう。
そう三日月は推測した。
「まず問おう。お前は何者だ?」
なぜ主の姿をしている。
問うておきながら、何か嫌な予感がした。
「それよりも先にこの太刀を収めてくれませんか。私を本気で斬るつもりですか?」
「俺が納得すれば収めてやってもよい」
「…………なるほど。そういうことですか」
一人納得したのか、主の姿をした何者かは三日月へと向き直る。
「私はこれまであなた達とともにいた審神者の、影とでも言っておきましょうか」
「影?」
「そう。私もどうしてこうなったのかはわかりませんが」
にっこりと笑みを浮かべてみせるのも主とそっくりである。
ただその瞳の色が、黒くくすんで見えるのは彼が主ではないということなのだろう。
「さしずめ黒審神者というところか」
「黒……かどうかはさておき、納得していただけたのであればそろそろ太刀を収めてもらえませんか」
ひたりと首筋に当てられた切っ先の感触に、黒審神者は困ったような笑みを浮かべた。
「もう一つ聞きたい」
次が肝心な問いかけだ。
「俺たちが知る主は今、どこにいる?」
「…………なぜそれを聞きたいのですか?」
「俺たちには主…審神者が必要だ。唯一無二の主を取り戻すのになぜ理由が要る?」
そう。
審神者あっての刀剣男士である。
そう言いながらも、まるで自分に言い聞かせているようだとさえ思った。
「なるほど……。しかし、それならば私がいれば問題ないのでは?」
「…………どうしてそうなる」
目を細め、じっと相手を見つめる。
僅かな動作も見逃さないように。
それは昔からの癖だ。
「審神者としてであれば私で事足ります。反対にあれでは審神者として力を発揮することはできないでしょう」
これは自分を試しているのではないだろうか。
そう感じる。
「審神者としての力はお前がすべて持っている、ということか?」
「そうですね」
「もし主が戻らなければ―――」
「戻らなくてもいいのでは?」
にい、と黒審神者が笑みを浮かべた。
それは普段の主であれば絶対に見せない、暗い笑みだった。
背筋に冷たいものが落ちる……。
「審神者ではない今の状態のあれがここに戻ることは決してあり得ないのですから」
「…………どういう…」
「あれは審神者という重責から逃げたのですよ」