自己嫌悪
ベッドから起き上がり、自室の窓から身を乗り出す。
柔らかい風が入り込み、金木犀の香りが鼻腔に篭った。
大学に入って三度目の夏休みが終わろうとしていた。
タバコを咥え吸い込みながら火を付けると、心地よい金木犀の香りは煙にかき消された。
物思いにふける時は、窓枠に腰掛け吸いなれた煙草をふかすのが常だった。
時間はもう昼時だった。外は太陽が燦々と輝きどこからか遊ぶ子供たちの声が響いてくる。
だと言うのに、私『御堂 調』の目と耳は真冬の真夜中のような暗闇と沈黙に支配されていた。そして、またいつもの自己嫌悪の波に自ら体を預けていた。
いつからだろうか。自分を偽らなければ落ち着かなくなったのは。
物心がついた時には日常的に嘘をついていた。自分のためにつく誤魔化しの嘘。誰かのためにつく優しい嘘。そんな嘘も少なからずついてきたがそれらは人生でついた全部の嘘の1割にも満たなかった。大半の嘘は、誤魔化す訳でも誰かの為でもないたわいもない嘘だった。例えば、晩御飯の食卓や学校の昼休み。誰かと世間話をする時、私は自分の過去の経験を捏造し誇張し話した。自分のしたことのないゲームの話。居もしない友達の笑い話。話の上では親の年収が10倍になったこともあった。
そういう話をすると家族や友達との世間話は盛り上がった。小さい頃の私はそれがたまらなく嬉しかった。しかし年を重ねるうちにその嬉しさは薄まり、そうであるのが当たり前でないと心が落ち着かなくなった。そうなるともう歯止めは効かなかった。
いつからだろうか。"本当の"自分が薄まっていったのは。
高校生になる頃には親の前での設定Aの私、友達1の前での設定Bの私、友達2の前での設定Cの私、祖父の前での設定Dの私、もういくつあるかわからない程の私がいた。そのどれもが本当の自分ではなかった。
過去になんども本当の自分を探した。例えば、数々の設定の中に断片的に存在している本当の自分をつぎはぎにすれば本当の自分が見えるかもしれないと考えたこともあった。しかし、悲しいほどに、恐ろしいほどに、そのどの設定にも本当の自分の断片を見出せなかった。そして、そのことに絶望し強大な自己嫌悪を感じた時、皮肉なことにやっと本当の自分を見つけることができた。自分を否定し嫌っている自分に嘘はなかったのだ。自分に問いかけるように過去を振り返り、そのどうしようもない半生を再認識した時、本当の自分が『自分のことが大嫌いな自分』がひょこっと顔をだした。
ブー…ブー…
携帯が自己嫌悪の波を遮るかのようにバイブを鳴らした。着信の画面を見ると、『新井 優』の文字。大学の軽音サークルの後輩だった。1日の中の大切な時間を邪魔された嫌悪感を感じながらも電話をとると、元気でハツラツとした、だけど今日はどこか不機嫌な声が聞こえた。
「しらべ先輩!!!なにしてるんですか!!!」
「おはよう。何って…何もしてないよ。どうかした?」
「おはようじゃないですよ!!何もしてないって…いまどこにいるんですか!今日がなんの日か忘れたんですか!」
彼女の不機嫌の原因はどうやら、自分にあるらしい。そして、自分は今日の予定を何か忘れてしまっていたようだ。スケジュール帳を手に取りながら電話に答える。
「いま家だよ。あー…えっと…何だっけ…。確認するね。……あっ、サークル棟清掃か…。」
「はぁああ…本当に忘れてたんですね。まあいいです。先輩はそういう人ですもんね。でも、もう気づいたんですから早く来てください。家近いんですからすぐこれますよね。」
大きなため息とともに棘のある言い方をしているが、彼女は冷たいわけではないし、行かなかったとしても後日少し怒って終わりにしてくれるだろう。そういう彼女だからこそ、協力してあげたいと思うし、行かないわけにはいかないと思わされるのは彼女の利点のように思えた。
「ああ、着替えたらすぐ行くよ。後ほどね。」
「はい。お願いしますよ。1年生、2年生はみんな来てますよ。先輩のこと悪い人だと思わせたくないです。まってます。では。」
最後は優しく諭し、彼女は電話を切った。
電話から聞こえるツーツーという音とともに、心が温まっていくような感覚がした。彼女には感謝しなければならない。
また、自分を一つ嫌いになれたんだから。
今日がサークル棟清掃だなんてことは知っていた。しかし、彼女の前では「ものぐさで信用ならない先輩」を無意識のうちに全うしていた。嘘をつこうなどという意識は一つもなく、ただただ、体が頭が勝手にスケジュール帳を手に取り予定を忘れるものぐさな先輩を演じさせた。もう体に染み付いているのだ偽りの自分が。
身だしなみを整え、外に出るといつもより外の世界が明るく暗く見えた。