『視』
――視線を感じる。
この部屋にいると、誰かに視られているような嫌な視線を感じる……。
最初は気のせいだと思っていた。いや、思おうとしていた。だけど、そんな思いなど打ち消してしまうほど、日に日に“その”感覚は強くなる。
テレビを見ている時に、背後からふっと感じる視線。
着替えている時に、じっとりと見られている感覚。
眠ろうとベッドに入った時に、天井から見下ろされる威圧感。
安らげるはずの我が家が恐ろしく、どうしようもなく息苦しかった。まだこの部屋に引っ越して数ヵ月しか経っておらず、契約の問題や引っ越し資金もなく出ていくこともできない。
俺は苦痛に耐えきれず、数日前から友人の家に転がり込んでいた。そうすることで、いっときの平穏を得ていた。だけど、そんな生活は長くは持たない。
最初は快く受け入れてくれた友人たちも、しだいに嫌な顔をし始め、終いには連絡さえも無視されるようになった。辛うじて、連絡のとれる友人たちに部屋の話をしても、返ってくる返事は決まっていた。
「気のせいだろ」
友人たちは呆れたように笑っていたが、俺にとっては笑えることでもないし、気のせいなんかでもない。だけど、このまま頼っていては、残った数少ない友人さえも失ってしまう。俺にはそれも苦痛だった。
俺は仕方なく数日ぶりに自分の部屋に戻ることにした。
なぜだろう。ドアの前に立っているだけなのに、部屋の奥から視られているような感覚が襲ってくる。ゴクリと息を呑み込みドアノブを握るが、手が重く固まりなかなか動かない。
部屋の中はヒンヤリとした空気が流れていた。一瞬、エアコンをつけっぱなしで出ていたのかと思ってしまうほどだ。だが、季節はまだ寒さと暖かさが混じる時期。暖房は入れても、冷房は入れることはない。
身体が嫌な震えに教われながら、恐る恐る部屋に入る。部屋の中は出ていったあの日のままだった。テーブルに乱雑に置かれたリモコン。ベッドの上の布団も乱れたまま。ずぼらな俺の性格が良く現れた部屋だ。
変わらない。何も、変わっていない。
――あの『視られている』感覚も……。
部屋から離れることで忘れかけていた、不快感、恐怖、息苦しさが、一斉に襲いかかってくる。そして、それが苛立ちとなって現れる。
「くそっ! なんなんだよっ!」
俺は近くにあったリモコンを壁に投げつけた。壁に打ち付けられたリモコンは、壊れて床へと落ちる。壁には小さなへこみが残った。そのへこみを見ながら俺は、さらに苛立ちを募らせていた。
「…………?」
壁に出来たへこみの側で、壁紙が僅かにだが剥がれかかっていた。普段なら気付かないだろう。たとえ、気が付いてたとしても、さして気に留めることもないだろう。だけど俺には、その僅かな物でさえ苛立ちの対象になった。
俺はこの部屋が賃貸だということも気にせずに、剥がれかかった壁紙を掴んだ。そして、そのまま勢い良く剥がした。
「――っ!?」
声が出なかった。白い壁紙の下には、灰色のコンクリートがあると思っていた。
いや、あるはずなんだ。だけど、そこにあるものは違った。
そこには無数の人間の眼があった。壁一面にびっしりと眼が埋まっている。そのどれもが、それぞれ意思を持っているのか、見ている方向も瞬きをする動きもバラバラだった。眼球をギョロギョロ動かし、生きているように瞬きをしている。何を見ているのか理解できず、制止していた俺の思考が再び動き出した。
――ヤバイ、逃げなきゃ。
頭がそう判断し、足が一歩二歩と後ずさる。だが、ここで俺のずぼらな性格が災いした。床に投げっぱなしになっていた雑誌に足をとられ、俺は派手な音をたて尻餅をついてしまった。打ち付けた尻の痛みに気をとられた瞬間、突き刺さるような鋭い感覚に襲われた。
嫌な汗が流れる。俺は静かにゆっくりとそれを見た。
「――うわあぁぁぁっ!」
恐怖が悲鳴となって発せられる。
さっきまで、統率なく動いていた壁の眼たちが、一斉に俺を視ていた。瞬きもせず、大きく見開き見ていた。そして、いつの間にか剥がれていない壁紙の下に、眼のような膨らみが幾つも浮かび上がり、それも同じ様に俺を視ていた。
俺は再び悲鳴をあげると、そのまま気を失ってしまった。
「――さん。――さん」
男性の呼び声と、身体を大きく揺らされる振動で俺は目を覚ました。心配そうに覗き込む大家さんの姿が、視界に入ってくる。
「……あっ。大家さん……」
「大丈夫かい? すごい声がしたって連絡があってね。チャイム押しても返事がないから、上がらしてもらったけど……。大丈夫かい?」
俺はあの恐怖を思いだし、震えながら大家さんに話した。縋りつくように必死に話したが、大家さんから返ってくる返事は友人たちと同じだった。
「夢でも見たんじゃないのかね」
誰にも信じてもらえないという現実に、俺は絶望的になり打ちひしがれた。俺は部屋を出ようとする大家さんの背を見ながら、泣きそうになっていた。
「――――!」
全身に恐怖が襲う。一瞬だが、大家さんの背に有るはずのない物が見えたような気がした。
「……大家さん……」
よせばいいのに、俺は思わず呼び止めてしまう。
「……? どうしたんだい?」
大家さんがゆっくりと振り返る。そして、俺は後悔した。
「うああぁぁっ!」
俺は再び悲鳴をあげ、気を失った。
振り返った大家さんの顔、腕、脚……。至るところに、それはあった。
――俺を見つめる無数の眼が……。
【終わり】