表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/38

『歯』

 夏の陽射しが降り注ぐ。まだ午前中だが、突き刺さるような暑さは麦わら帽子越しにも感じる。首にかけたタオルで汗を拭うが、それでも汗は止まることなく流れる。私はしゃがんでいた姿勢から、ゆっくりと立ち上がり、美味しそうに実った夏野菜たちを見て、一人満足そうに頷いた。


「加奈子さん。お茶にしましょうよ」


 涼しい屋内にいる義母が声をかけてくる。


「はーい。今、戻りまーす」


 結婚して8年。新婚時、私たち夫婦は夫両親とは同居せず、中心部に住んでいた。しかし、舅が亡くなったことを切っ掛けに、同居することになった。

 結婚の挨拶で初めて来た時は、結構な田舎っぷりに驚かされた。たまに来るには良いけど、いざ住むとなると生まれも育ちも都会な自分がやっていけるか不安になった。けど、住んでみれば意外とどうにかなるものだった。今では小さい畑で家庭菜園を楽しむほどにまで成長した。そして、子供も生まれ、姑やご近所さんたちとの関係も良好で、毎日が本当に充実している。


「加奈子さん、野菜は順調に育ってる?」


 扇風機の風を浴び身体に溜まった熱を冷ましている私に、義母が冷たい麦茶と甘い菓子を差し出してくれる。


「はい。大豊作ですよ。今晩あたり晩御飯で振る舞えそうです」


「まあ、それは楽しみね」


 義母が柔らかく微笑む。


 そんな風に義母と談笑しつつ一息ついていると、


「あっ、加奈子さん。私、これから早苗さんたちと出掛ける用事があるの。もう、出るから私のお昼は用意しなくてもいいわ」


「わかりました」


 すでに身支度を整えていた義母は、私に伝えるとすぐに出掛けていった。義母を見送り、洗い物も済ませた私は、もう少し畑仕事をしようと思い、泥のついた長靴を履き道を挟んだ向こうにある畑へと向かった。

 畑といっても趣味に毛が生えたくらいの家庭菜園。農薬とか使っていないから、雑草はどんどん生えてくるし、虫も付いてしまう。それを暇な時間にこうやって駆除したりしている。始めた頃は虫が怖くて怯えながら取っていたけど、今ではすっかり慣れて躊躇いなく取れるようになった。


「ママー」


 夢中になり作業していると、どこからか男の子の声が聞こえてきた。生い茂った緑の隙間から顔を上げ辺りを見回すと、畑の側の私道に今年小学校に上がったばかりのの息子の姿があった。


「孝太、おかえり」


「ただいまー。ママ、おなかすいたー!」


 帰るなり孝太はお腹をさすり空腹をアピールしてくる。ふと空を見上げると、いつの間にか太陽は真上まで来ていた。すっかり夢中になっていたようだ。言われてみれば、私のお腹も空腹を訴えている。


「ゴメーン。すぐに、ご飯にしようね」


 そう言い畑から出ると、孝太の小さな手を握り、ほんの少しの距離を息子の歩幅に合わせゆっくりと歩く。孝太は友達と遊んだ話を楽しそうにしてくる。そんな生き生きとした姿を見ると、旦那の実家に来て本当に良かったなと、嬉しくなってしまう。


「あっ、そうだ」


 孝太が急に立ち止まり、ズボンのポケットをゴソゴソとする。


「どうしたの?」


「みてみて」


 嬉しそうに握りしめた拳を突きつけてくる。何だろうと見ていると、ゆっくり小さな指が開らかれていく。広がった掌の上には、小さな白い何かがあった。それが何かはパッと見では分からなかったが、満面の笑みを浮かべた孝太の顔を見て、なんなのか理解した。


「孝太! 歯が抜けたんだね」


「うん!」


 「いーっ」と、して見せ笑う孝太の下の前歯にポッカリと空洞ができている。孝太も初めてのことで、どうしても自慢したくて抜けた歯を持って帰ったらしい。小学生になってもなかなか抜けかわらないことに不安があった分、私の喜びも大きく、抜けた小さな歯をじっくり眺めてしまう。


「そうだ! 立派な歯が生えてくるようにおまじないしなくっちゃね」


「おまじない?」


 孝太が不思議そうに首を傾げる。私は孝太の手を引き、家の前まで来た。


「子供の歯が抜けたらね、強くて丈夫な大人の歯が生えてくるように“ねずみさん”にお願いするのよ」


「ねずみさん?」


「そうよ。下の歯だったら屋根に投げて、上の歯だったら縁の下に投げて、お願いするの『ねずみさん、ねずみさん。ねずみの歯と変えてくれ』ってね」


「そうしたら、ママやパパみたいな歯になれるの?」


「そうよ」


 孝太の目が期待と興奮でキラキラと輝く。鼻息荒く、早くやろうとせがんでくる。可愛らしく思いつつ、孝太と合わせて歌を歌う。


「ねずみさん♪ ねずみさん♪ ねずみの歯と変えてくれ♪」


 歌い終わると孝太は屋根に向かって、力一杯歯を投げた。歯は小さな音をたて瓦の上に落ちた。満足そうに微笑む孝太を見て、私は子供が成長していることを実感し喜びを感じていた。


 その日の晩御飯は、宣言通り家庭菜園で育てた野菜がメインのものになった。仕事から帰ってきた夫も、義母も私が育てた野菜を美味しそうに食べてくれる。気分が良くなった私の箸も進む。楽しい食事が終わりかけた頃、孝太がおもむろに声を上げた。


「パパ、ばあば。みてみて」


 と、昼間私にしたように「いー」っと、二人に歯を見せた。


「おっ、孝太。歯が抜けたんだな」


 夫は嬉しそうに孝太の頭を撫でてる。義母も嬉しそうに微笑んでいる。


「まぁ、孝ちゃん。おめでとう。それで、抜けた歯はどうしたの?」


 その問いに孝太は私の方を見た後、誇らしげに昼の出来事を二人に話した。


「ママといっしょに、やねの上になげて“ねずみさん”に、おねがいしたんだ!」


「……えっ!?」


 孝太の話を聞いたとたん、義母の顔から笑顔が消え、みるみるうちに青ざめていく。


「えっ、なげた? ねずみさんにお願いって……」


 義母の声が震えている。喜びから一変してしまった雰囲気に戸惑っていると、


「……か、加奈子さん、なんて事をっ!!」


 突然、声を荒げ席を立ち仏間の方へ行ってしまった。いつもと穏やかな義母の突然の激昂に驚いたのか、孝太は大声で泣き始めてしまう。私も初めて見る義母の姿に茫然とし、何が起こったのか全く理解することができなかった。


 それから泣き疲れた孝太を寝かしつけ、私が後片付けや入浴をしていた数時間、義母は仏間から出てくることはなかった。理由を聞こうと襖の前まで行ったが、微かに聞こえてくる念仏を唱えるような声と、先ほどの豹変した義母の姿のせいで、私は義母に対し恐怖を覚えてしまっていた。結局、その先に進むことはできず、襖に背を向け寝室へと向かった。


「ねぇ、お義母さんは何であんなに怒ったのかしら?」


 一足先に布団に入っていた夫に、恐る恐る尋ねてみる。夫は休んでいた身体を起こし、ばつがわるそうに頭を掻いた。


「う〜ん。多分、言い伝えのせいかな?」


「言い伝え?」


「子供の歯が抜けたらやることって世界中にあって、その国や地域で色々あるだろ。加奈子が孝太とした“ねずみさんにお願い”も、それの一つだろ」


「ええ」


 乳歯が抜けた時にする風習は世界中に色々あることは知っている。枕の下に入れておくと妖精がコインに変えてくれるとか、ねずみさんが鬼だったり様々だ。でも、そのどれもが子供の成長を喜び、願うものだ。だからこそ不思議だった。なぜ、義母があそこまで激昂し、仏間に篭るような奇行に走らせるのか……。


「……実はさ、ここら辺の風習はちょっと違うんだよね」


「違うって?」


「ここら辺の地域では『隠す』んだよ」


「隠すって、抜けた歯を? 何から?」


「“御鼠さま”からだよ」


「……おねずみさま?」


 背筋がゾクリとした。それは必要以上に神妙な雰囲気で話す夫のせいかも知れない。しかし、なぜか嫌な感じがする。


「……何で、隠さなきゃいけないの」


「御鼠さまは子供を守る良い神様なんだけど、子供が大人になることを嫌うらしい。歯の生え変わりって成長の一歩だから、それを阻止しようとするんだ。抜け落ちた子供の歯を見つけると、本人に返しに来て成長を止めようとする。だから、全部の歯が生え揃うまでは御鼠さまに見つからないように隠して、最終的には燃やして川に流すのがここら辺の風習なんだ」


「……そんな。で、でも単なる言い伝えで風習だし……」


 急に不安になった。私が知る風習とは全く逆の特性の風習。“ねずみさん”と“御鼠さま”。同じねずみの筈なのに全く違う。子供の成長を止めようとする御鼠さま。そんな言い伝えがあれば、義母が私のしたことを怒るのも納得できる。でも、所詮はただの言い伝えに過ぎない。そう自分に言い聞かせるが、私は言い様のない不安に襲われていた。


「まぁ、気にするなよ。母さんはこの村で生まれ育って外に出ることが少なかったから、考えが少し古くて妄信的になってるだけだから」


「……うん。そうだよね」


 不安そうにしている私の頭を優しく撫でると、夫は仕事の疲れもあり大きな欠伸をした。


「さあ、もう寝ようか」


 そう言うと、もう一度欠伸をし、身体を横にした。私は部屋の電気を切り、同じように布団に入った。


 夫は「気にするな」と、言ってくれた。私もそう思いたい。けど、私はこの暗くなった部屋に飲み込まれるように、底のない不安を感じていた。なぜなら義母が豹変した時、その横にいた夫も何かを恐れるような青ざめた表情をしていたからだ……。


「……御鼠さま」


 私は不安を拭い去るために、必死に「大丈夫」と、念じながら強く目を閉じた。



 ◇ ◇ ◇


 朝日がカーテンの隙間から射し込んでくる。ぐっすりと眠ることができず、頭が重い。まだ横になり休んでいたかったが、朝食を作らなくてはならない。私は重い身体を起こし、まだ寝ている夫を起こさないように部屋を出た。


 台所に向かう前に、新聞と宅配の牛乳を取りに玄関へ向かう。その時、玄関横の和室の奥にある仏間の襖が開いていることに気が付いた。その足で仏間まで行くが、そこに義母の姿はない。流石に一晩中念仏を唱えるようなことはしなかったらしい。少しばかり安堵し、私は台所へ向かった。


 手早く朝ご飯を作り、食卓へ料理を並べようとした時だ。机の上に置かれた一枚の紙が目に入った。昨夜はこんな紙なかったはずと思いながら手に取って見ると、それは義母の書いた手紙だった。


『出掛けてきます。夜までには帰ります』


 急いでいたのか、走り書きのように書かれ名前もなかった。それでも、この字が義母のものだと分かる。

 義母の部屋の襖を開け、中を確認する。綺麗に整頓された部屋に義母の姿はなくシンとしている。それどころか、敷かれた布団が綺麗なままの状態で部屋の中央にあった。昨夜、義母は寝ることもせずに仏間に籠り、そのまま出掛けたようだ。


 昨日の今日だ……。私の中で不安が恐怖に変わり始める。夫に話さなくてはと考えていると、


「おはよう」


「――――!」


 驚きすぎて、息が止まりそうになる。振り返った目の前には、寝惚けた顔をした夫が立っていた。いや、別に驚くことではない。義母の部屋と居間は隣り合っていて、襖で仕切られているだけ。ご飯を食べに起きてきた夫が、ここにいても何の問題もない。私の中の不安が過剰に反応しているだけなのだ。


「……あ、おはよう」


「おはよう。母さんの部屋で何してんの?」


「あ、お義母さん、こんな朝早くから出掛けられたみたいで……」


 私は手に握ったままの手紙を見せる。夫はその手紙に目を通すが、特にこれといった反応はみせない。


「ああ、そうなんだ。どおりでテレビも点いてなくて静かだと思ったよ」


 夫は何の問題もなく気にしてない風だ。やっぱり、私の考え過ぎなのだろうか。


「あれ? 孝太はまだ寝てるの?」


「ええ。昨日、あんなに泣いてたから……。もう少し、ゆっくり寝かせて上げようかと思って」


「そうだな。夏休みだし、多少の寝坊は多目にみるか」


 そう笑う姿は、いつもと変わらない夫の姿だった。なぜか、その変わらない普通が私の気持ちを重くしていく。



 夫が仕事に出掛け、一人になった私は後片付けを済ませて洗濯に取りかかっていた。


「ママ。おはよう」


 孝太が目を擦りながら起きてきた。まだ瞼が少し腫れていて、痛々しく感じる。


「孝太、おはよう」


 挨拶もそこそこに、私は孝太の口を確認する。口の中に並ぶ小さな子供の歯は、昨日と同じように一ヶ所だけポッカリと隙間ができている。抜けた跡をよく見れば、ピンク色の歯茎にこれから生えてこようとしている大人の歯が少しだけ頭を覗かせていた。

 それが確認できると、私は今まで感じていた不安が馬鹿馬鹿しく思えてきた。“ねずみさん”も“御鼠さま”も、単なる言い伝え。そんな神様や妖精みたいなものなんて存在しない。私は何だか可笑しくなってしまった。


「ママ、どうしたの? たのしいことでもあったの?」


 孝太が不思議そうに顔を覗き込む。


「孝太が大きくなっているのが嬉しくて楽しいのよ」


 抱き締めると孝太は、はにかみながらも嬉しそうに同じように抱きついてきた。


「……あら。孝太、これどうしたの?」


 私の視界に異物が入り込む。孝太の細い腕に、こぶし大の湿疹ができ赤く腫れていた。孝太は今まで気付いていなかったのか、分からないと首を傾げている。気付かなかったということは、痛みは無いようだ。でも、子供の病気は急な悪化とかが怖いので、すぐに病院へ向かうことにした。


 込み始める前に病院へ着き、診察は早々にすんだ。昨日遊んだ時に、かぶれを引き起こす植物か虫に触れたのだろうと診断された。幸い、本人も痒がったりしていないので、症状事態は軽いみたいだ。塗り薬も出してもらったし、大きな心配はなさそうだ。

 色々な不安が全て払拭し安心した私は、帰宅途中に寄ったスーパーで、普段は一つしか買わないお菓子を三つも買いあたえてしまった。お菓子にご満悦な孝太を車に乗せ、私たちは家路に着いた。


 今日は友達と遊ぶ約束をしていなかったのか、孝太は居間の扇風機の前に陣取りゲームで遊んでいる。私は朝できなかった掃除をしながら、ちょくちょく孝太の様子を窺っていた。軽いとはいえ、やはり気になるのか、孝太の手は無意識に湿疹ができた場所を触っていた。


「孝太。お薬、塗ろうか」


 私は出された薬を孝太の湿疹に塗ろうと、細い腕を掴んだ。


「……あら?」


 なんか、今朝見たときよりも腫れが増している気が……。斑模様に赤みががっていた今朝と違い、今は面積はさほど変わらないが何ヵ所も虫に刺されたみたいにブツブツと腫れ膨れている。触ってみると、皮膚の下にしこりのような物があるような感触がある。


「孝太。腕、痒い?」


 尋ねると、孝太は首を横に振る。少し気にかかったが、すでに病院へ行き診断してもらった安心感から、私はたいしたことないだろうと楽観視していた。


 何事もなく静かに時間が過ぎていく。孝太は少し前に宿題をする為に自室へ戻っていた。私は夏の陽射しであっという間に乾いた洗濯物を居間で畳んでいた。今日は病院へ行ったり、普段は義母と分担している家事を一人でしなくてはならなかった。いつも以上に忙しくしていると、時計の針はすでに四時を指していた。


「お義母さん、まだ帰ってこないのかしら……」


 未だ帰らない義母を気にしながら、衣類を各々のタンスに仕舞っていく。最後に、残った孝太の衣類を持ち部屋へ向かう。


「孝太。入るね」


「…………」


 扉の向こうから返事がない。が、私は気にしなかった。集中していて気づかないんだろうと思ったからだ。一応、もう一度だけ声をかけ部屋に入った。

 思った通り、孝太は集中して机に向かっていた。私が入ったことにも気付いていないようだ。私は邪魔にならないように、静かに衣類をタンスに納めた。


「…………」


 そっと部屋を出ようとした時、私の耳に僅かだが苦しそうな呼吸音が届いた。


「孝太?」


 振り返り孝太の姿を見る。


「――孝太っ!」


 視界に入った孝太の姿は、私を大きく動揺させた。駆け寄り、座っている椅子を引くと、引いた振動で孝太が力なく私に倒れかかってくる。

 孝太の身体は熱を帯び、尋常ではない熱さだった。それ以前に身体に広がる湿疹が、すでに異常な状態だった。少し前まではこぶし大だった湿疹は全身に広がり、個々がブツブツと大きく腫れ上がっている。これは水疱瘡でも麻疹でもない。勿論、かぶれによる湿疹でもない。


「……ママ……。いたいよ……」


 孝太が絞り出したような声で、必死に訴えてくる。

 私はパニックになり、動けなくなっていた。誰かに助けを求めなければと、頭では分かっているのに、その行動に移せない。私は孝太をただ抱き締めるしかできなくなっていた。


 孝太を抱きしめる私の手に、異質な何かが触れる。

 嫌な予感がした。それが恐ろしかったが、私の指先はそれを確認しようと孝太の肌に擦るように触れていく。腫れてブヨブヨになった部分があり、指で撫でていくと硬い何かが引っ掛かる。それが何ヵ所もある。……そして、見つけてしまった。


 皮膚を突き破り覗く、白い物体を――


 背筋に冷たいものが流れる。私はこれに似たものを、今朝見ていた。そして、消えていたはずの不安が甦ってくる。


「まさか、御鼠さま……」


 それは腕だけではない。足や腹、顔にも白い何かが顔を覗かせ始めている。


「……い……たいよぉ……」


 孝太の目から涙が流れる。私が困惑し動けない間にも、それは皮膚を突き破り伸びてくる。


 小さな子供の歯が……。


「あ、あぁ……。孝太ぁ、しっかりしてっ!」


 御鼠さまだ……。御鼠さまが、孝太に抜けた歯を返しに来た。

 私があんなことをしなければ、孝太がこんなに苦しむことはなかったんだ……。私は恐怖と自責の念で身体が震えた。両目から流れる涙が、赤く腫れた孝太の肌に落ちる。


 どうにかしないと……。


 今から抜けた歯を探す? それとも義母のように仏壇に手を合わせ祈る?


 どうすればいいの……。


 何の解決策も産み出さない思考に、突如ある考えが浮かんだ。静かに孝太をベッドに寝かせると私は部屋を出て、真っ直ぐ納屋に行き工具入れを取り出した。

 工具入れを持ち、私は足早に孝太の元へ戻る。離れていたほんの数分間に、孝太の身体には先程の倍以上の歯が生えてきていた。私は工具入れからペンチを取り出し、握りしめた。


「孝太。今、助けてあげるから」


 孝太の細い腕を持ち上げ、そこに生える歯をペンチで挟む。


 ――抜けばいいんだ。


 私は力強く歯を引き抜いた。


「――ああぁぁぁああぁっ!!」


 孝太が大きく目を見開き、叫ぶ。痛みで暴れる孝太の身体を押さえつけ、私は一つ一つ歯を抜いていく。その度に響く叫び声に耳を塞ぎたくなる。けど、私は一心不乱に続けていく。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 抜かないと。抜かないと。抜かないと。

 早く。早く。早く。


 隠さないと。



 ――――御鼠さまから……。



 ◇ ◇ ◇


「あ、母さん」


 孝一郎は仕事からの帰り道、朝から出掛けていた母親と鉢合わせた。バス停から足早に家に帰る母を車に乗せ、家に向かい車を走らせる。


「孝ちゃん、大丈夫かしら……」


 心配そうに母親は家の方を見つめる。


「うかつだったよ。あの事、母さんが話してるとばかり思ってたから……」


「ごめんなさい。私も孝一郎が話してると思ってて」


 二人ともが暗い顔をし、車中に重い空気が満ちる。


「……でも、お札も書いてもらったし……。大丈夫よね」


 母親は持っていた鞄を抱き寄せ、僅かな期待に縋る表情をみせる。


「……ああ」


 孝一郎は拭いきれない不安からか、短い返事を返すだけで、それ以上喋ることはなかった。


「ただいま」


 孝一郎は玄関の戸を開け、中にいるだろう妻と息子に声をかける。しかし、中から返事はかえってこない。いつもなら息子が満面の笑みで、お出迎えしてくれるのだが、今日はそれがない。玄関の二人に言い様のない不安が襲う。


「――あああああああああ」


 突如、家中に女性の悲鳴が響きわたる。孝一郎らは、その声の主が妻の加奈子だとすぐに分かった。途切れるなく叫び続ける声の異常さから、何かが起こったのは明白。二人は声のする部屋へ走った。


「…………」


 二人は部屋の中で起こっている出来事に愕然とした。そして、絶望した。

 ベッドに横たわる息子は血まみれでピクリともしない。その傍らでは手にペンチを握り、息子の血で赤く染まる妻が叫び続けている。そして、床に散らばる白い粒。


 孝一郎が声をかけようと近付づくと、加奈子は突然叫ぶのを止めた。手にしていたペンチを床に置くなり、散らばる白い何かを必死に拾い集め始める。それを全て集めると、今度はゆらりと立ち上がり部屋を出ようと歩きだした。

 虚ろな表情で、入口にいる二人のことは視界に入っていない。何かを呟き横を通り過ぎる加奈子に、二人は声をかけることができなかった。



「……早く。早く、隠さないと。早く。隠さないと。隠さないと。……隠さないと……。早く。早く……」



 ――御鼠さまが返しに来てしまう――




【終わり】



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ