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『妻』

『おかえりなさい』


 玄関のドアを開けると聞こえてくる女性の声。俺はその声に心癒され玄関を上がっていく。

 リビングに入るなり目に入る後ろ姿。いつものようにソファに腰を下ろしている彼女の姿だ。俺はだらしなく緩んでいく顔を隠すことなく、彼女に駆け寄る。


「ただいま。今日も仕事疲れたよー」


 ソファに座る彼女に腰に腕を回し、胸元に顔を埋める。すると、つい甘えたい気持ちが出てきて、仕事の愚痴をこぼしてしまう。だけど、彼女は文句ひとつ言わない。柔らかな笑みを浮かべたまま、俺の愚痴を黙って聞いてくれている。彼女の肌は少し冷たいけど、微かに薫る甘い香水の匂いが俺の心を癒してくれる。


 彼女は俺の大切な奥さん。まだ数日前に結婚したばかりだ。

 周囲からは反対され、なかなか結婚に至れなかった。しかし、反対されるほどに俺たちの愛は燃え上がり、躍起にさせた。我慢できなくなった俺は、周囲を振り切って暴走ぎみに彼女と結婚したのだった。

 だから、結婚式なんてあげてない。彼女に純白のウェディングドレスを着せてあげることもできていないし、皆に二人の幸せな姿を見せつけることもできていない。そんな心苦しさはある。だけど、彼女は文句一つ言わない。いつも左手の薬指に光る指輪を、愛おしそうに見つめてくれている。

 そんな姿を見るだけで、俺の心は幸せに満ちていった。


「あぁ、俺って幸せ者だな」


 俺は彼女に微笑みかける。彼女も俺に柔らかく微笑みかけてくれる。


 彼女との生活は何の不自由もなく、満ち足りたものだった。きっと、彼女もそう思ってくれている。そして、この幸せがずっと続くんだと、心を弾ませていた。




 しかし、歳月は人を変えてしまう。


 彼女は変わってしまった。


 出迎えてくれる声は変わらないのに、彼女の姿はあの頃とは大きく変わってしまった。

 あんなに艶のあった長い黒髪がボサボサになり、綺麗に纏めることもできない。ふっくらと化粧映えしていた肌も、化粧がのらないほどにカサカサになり、心なしか黒ずんでいる。


 そして何より、彼女から笑顔が消えた。


 彼女は俺を見ても笑わない。虚ろに何処かを見つめるだけだった。


 リビングに入り、いつものように真っ先に目に入る彼女の姿。昔はあんなに嬉しさで顔がニヤけてしまうほどだったのに、今では苛立ちさえ覚えてしまう。


「何なんだよっ!! 俺と居るのが不満なのかっ!!」


 つい声を荒らげてしまった。だけど、相変わらず彼女は何も言わない。俺の感情は高ぶっていくのに、彼女は変わらず冷ややかな姿勢を崩さない。


「――――っ!!」


 そして、ついには手をあげてしまった。感情のままに振り上げられ降ろされた拳は、彼女の身体に無慈悲に打ち付けられる。彼女は抵抗することなく拳を受け、ソファから崩れ落ちてしまう。

 興奮がさらに高まり、息が荒くなる。床に崩れながらも、頑なに俺を見ようとしない彼女を荒立った眼光で見下ろす。そして、そのまま彼女の腹を蹴りあげた。彼女の軽い体が床を滑り、痛々しい音をたて壁にぶつかる。


 それなのに彼女は悲鳴ひとつあげない。ただ虚ろに何処かを見ているだけだった。


「…………?」


 なおも激昂が治まらない俺の視界に、キラリと光る物が映る。足下に転がり光る物を確かめようと、視線を落とす。それを捉えた視線は、固定されたように動かなくなってしまった。

 俺はわなわなと身体を震わせ膝を折ると、それを手に取った。


「……あ、……ああっ」


 それは彼女の指から抜け落ちた結婚指輪だった。

 以前はピッタリだったのに、今はこんなに簡単に指輪が抜け落ちてしまうほどに指が細くなってしまっていたのか……。

 自分のしたことの残酷さに気づかされた俺は、慌てて彼女に駆け寄り抱き寄せた。そして、彼女の変化に触れてしまい、後悔と罪悪感の波が打ち寄せてくる。彼女の体は恐ろしいほどに軽く、抱き締めれば折れてしまいそうなほどに細くなっていた。


「ごめん。……ごめんよ。こんな、酷いことをして……」


 俺は彼女を抱き寄せ、一晩中泣いていた。



 ◇ ◇ ◇


 そんなある日。職場の休憩所で、タバコ休憩をとっていると、


「センパイ。最近、元気ないですね」


 同じくタバコ休憩に来た後輩が、タバコに火をつけ一服するなり話しかけてきた。


「……ああ。最近、妻が体を壊してな、色々大変なんだ」


「そうなんですかっ。……それは大変ですね。……って、センパイ、結婚してたんですか!?」


 そこを驚くかと、呆れながら左手の指輪を見せてやる。すると、後輩は「おおっ」と、大袈裟に驚きながら食い入るように左手の薬指の指輪を見てきた。


「うーん。そんなセンパイに言うのも心苦しいんですけど。……今夜、オレに付き合ってくださいよぉ」


「……はぁ? どういうことだ」


 詳しく話を聞いてみれば、部長に飲みに誘われたらしい。しかも、女の子のいる店に。そういう店に行くのは楽しみだが、その部長とはあまり世間話などをしたことがなく、どう接して良いのか分からず内心では困っているらしい。そこで部長とはそれなり付き合いのある俺を、仲介役として使いたいらしい。後輩のくせに先輩を使うとは、まったくいい度胸をしている。


「大変かもしれないですけど、今夜くらいは息抜きに……。お願いしますっ!」


 しかし、可愛い後輩の頼み。おまけに部長が飲みに誘うということは、こいつをそれなりに評価し気にかけているということ。後輩の今後の為にも、付き合ってやるしかない。


「……はぁ。仕方ないな。まあ、今夜くらいは大丈夫だろう」


 了承の旨を伝えると、後輩は大いに喜んでいた。「助かりますっ」と安堵の声をあげ、珍しく缶コーヒーを奢ってくれるほどにだ。



 そして、その夜。俺は出逢ってしまった。彼女に――



「いらっしゃいませ」


 透き通った上品な声。その声に心臓を掴まれる。そして、柔らかく微笑みかける表情に視線を奪われた。

 派手なドレスに身を包んだ彼女は、その華やかさに反しとても清楚でしなやかな物腰の女性だった。それなのに薄暗くも煌びやかな店内で、彼女は誰よりも美しく輝いていた。彼女の仕草、声、長く艶のある髪。全てが俺を惹き付ける。

 彼女の傍にいると、体を壊してしまった妻のことが頭から消えていく。

 この一夜の出逢いだけで、俺は彼女の虜になってしまった。



 それから俺は、彼女に逢うために店に通いつめた。そして、俺と彼女の関係が“客と嬢”ではなく“男と女”の関係に変わるのに、そう時間はかからなかった。



 かつて愛した妻に罪悪感がないと言えば、嘘になるかもしれない。しかし、彼女の若く健康な身体に触れていると、年月が過ぎ壊れてしまった体の妻の存在など軽く凌駕されてしまう。

 すっかり身体に馴染んだベッドの上で、こちらも馴染んだ彼女の肌に触れながら、ある頼み事をした。


「なあ、これに『おかえり』って吹き込んでくれないか?」


 彼女は意味も分からず、愛くるしい瞳でそれを見ている。

 彼女の前に差し出した物は、小さなボイスレコーダー。


「どうして、そんなことしないといけないの?」


 さすがに怪訝そうにしている。しかし、そう思うのも仕方のないことだ。俺は素直に事情を伝えた。


「俺は君の声が好きなんだ。だから、せめて仕事で疲れて帰った時くらいは、君の声で出迎えられて元気になりたいんだよ」


 一緒になりたいが、一緒になることはできない。それを理解している彼女は、少し寂しそうに微笑む。そして、俺のお願いを納得し、恥ずかしそうにボイスレコーダーに向かい『おかえりなさい』と、囁きかけた。


「ありがとう。これで毎日、頑張れそうだよ」


 彼女は自分との関係が肉体だけのものではないと確信持てたのか、どこか嬉しそうにしている。だが、俺の願望は彼女の想いとは少しばかり異なっているかもしれない。


 そして、一つの望みが叶った俺は貪欲になり、もう一つの願望を伝えた。


「そうだ。今度、家に来ないかい?」


「……えっ? でも、奥さんが……」


「ああ、それは大丈夫だよ。妻はもう、ないから」


 二人の関係がこれ以上進めないと思っていたであろう彼女は、戸惑っていた。だが、どうにか説得させ頷かせた。



 ……さあ、あと少しだ。



 ◇ ◇ ◇


「ようこそ、我が家へ」


 彼女は家を前に、躊躇する姿を見せる。まあ、仕方のないことだよな。ここは不倫相手の家なのだ。言ってみれば、敵陣に一人で乗り込むような心境かもしれない。

 俺は緊張する彼女の手を取り、玄関に引っ張った。


「おじゃまします」


 玄関に入ると後ろめたさが多少は薄れたのか、俺が靴を脱ぐのに従い彼女もヒールを脱いでいく。


「なんだか、すごく良い香りがするわね」


 玄関に佇み、その奥に広がる初めての場所を眺めていた彼女は、ここまで薫る甘い香りに関心を示した。


「良い匂いだろ。好きなんだ、この匂い。さっ、早く上がって」


 まだぎこちなさの残る彼女の手をもう一度取り、俺は彼女をつれ家に上がっていった。


『――おかえりなさい』


 突然の声に彼女が細い身体をビクリとさせ、キョロキョロと周囲を見渡す。この声が居ないはずの妻のものだと思ったのだろう。


「これはこの間、君に吹き込んでもらった声だよ。玄関を上がったらセンサーが反応して聞けるようにしたんだよ」


「……そ、そうなの」


 俺はクスクスと笑いながら説明するが、彼女はどことなく不審そうにしている。一応は説明に納得したようだが、明らかにさっきまでとは違った緊張感に包まれ始めていた。



 ……だけど、もう遅いよ。



 彼女をリビングのソファに座らせ、俺はコーヒーを淹れる。甘い香りと芳ばしい香りが一つの部屋で混ざり満ちていく。


 彼女は警戒の色を見せながらも、俺の出したコーヒーを飲んでいく。一口、二口と飲んでいくと、しだいに彼女の瞼が落ちていく。カチャンとカップが床に落ち、黒い液体が広がる。



 そして、彼女の身体はパタリとソファの上に倒れ込んだ。



 ◇ ◇ ◇


『おかえりなさい』


 いつものように彼女の澄んだ声が俺を出迎える。

 そして、いつものようにリビングのソファに座り、彼女は俺を待っている。俺は彼女に駆け寄り、細い体に抱きつき胸に顔を埋める。彼女から漂う甘い花の香りが鼻腔を擽る。


 彼女の体はあの頃のように温かくはない。だけど柔らかさはまだあの頃のままだ。


「あぁ、大好きだよ……」


 まだ人としての姿を保っている彼女の頬に触れ、優しく撫でる。




「君は俺の大切な××番目の妻だよ……」




【終わり】



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