『透』
「うわああぁぁぁっ!!」
朝、目が覚め、掛け布団を捲った俺はアパート全体に響き渡るような悲鳴をあげた。
なぜなら、あるはずの俺の身体は消え、パジャマだけが布団の上に浮いていたからだ。
見えない手で見えない身体に触れてみる。一応、触れたであろう部分には、自分の身体の温もりを感じることができる。だが、そこに俺の身体はない。
すごく妙な感じがする。動かしているのに、動かしていないような感覚。触れているのに、触れていないような感覚。見ているのに、見ていないような感覚。色々と思考の処理が追いつかない。
俺は非常にパニクってしまった。だけど、あれやこれやしているうちに、訳の分からないまま身体は元に戻っていた。ベッドの上に横たわったままの身体に色が戻りだしたのを確認すると、そこに身体があることを頭が認識したのかいくらか思考は冷静さを取り戻す。
恐る恐るベッドから出て、自分の足を確認しながら洗面所に向かう。真っ先に見た鏡には、可もなく不可もない俺の顔が映っていた。全身から力が抜け落ちてしまうような、深い深いため息が漏れてしまう。自分の姿を見て、これほどまでに安堵し感動したのは初めてだろう。
「……なんで、身体が透明に……」
落ち着き始めた身体で、ポツリと呟いた瞬間だ。俺の身体は再び姿を消し始めた。鏡に映る俺の姿が瞬く間に消え、鏡には人型に浮かぶパジャマだけが映し出されている。
二度目の衝撃に、一瞬パニックに陥りそうになったが、やはり二度目となると多少は心持ちも変わる。心を平常に保ち、元に戻れたときのことをよく考える。そして、思い付くことを再現してみた。
結果は成功だった。鏡に映る自分の姿に、ホッと安堵の息を吐く。
どうやら、この透明になる能力は、自分が透明になった姿を想像すると消え、本来の自分の姿を想像すれば元に戻れるらしい。
「でも、なんでこんな能力が……?」
俺は、普通の男だ。ヒーローでもなんでもない。思い当たることは、全くない。
――だが、せっかく手に入れた能力を、使わない手はない。
俺は色々と透明な姿で出来ることを探し、試した。そして、色々なことが分かった。
まず、透明になれるのは自分の身体だけ。もちろん、それ以外は身に付けている物は、一切透明になることはない。自分の発する声や音、ニオイも消えない。だけど、血液や排泄物など自分の体内で作られたり、何かしらの変化が与えられた物質は肉体と同様に透明になるみたいだ。
どうやら、身体の表面が光の屈折や反射などで見えない状態になっているわけではなく、細胞一つ一つが透明になっているようだった。
まあ、こうやって何ができるか分かったわけだ。俺はこの能力を使い、様々なイタズラを決行した。
けど、イタズラと言ってもカワイイもんだ。人がたくさんいる所でポルターガイストごっこをしたり、普段は入れないような場所に入って探検したり、女の子の部屋にこっそりと進入して生活を観察したり……。本当にちょっとしたイタズラだ。強姦や強盗みたいな大それた犯罪は、透明になってもする勇気がなかった。と言っても、不法進入も十分な犯罪ではあるけどね。
結局のところ、透明になって多少は気が大きくはなるけど、小心者である根本的な性格は透明になっても消えることはなかった。
そして、今日も女の子の生態観察のため部屋へ上がり込もうと、街を行き交う女の子を物色する。
最初、こっそりと入った時は、自分が見えていないと分かっていても緊張したものだった。でも、意外と慣れるのは早かった。最近ではこれが楽しみになって、日課になっていた。その楽しみに比例して、俺が透明になっている時間も飛躍的に延びていっていた。
(おっ……。今日はあの子にしよう)
学校帰りっぽい女の子を見つけ、その子に目を奪われた。自分の好みの子を思いがけず見つけてしまい、見えないガッツポーズをしてしまう。俺はスキップでもするみたいに軽やかな足取りで、彼女の後をついて行った。
部屋にいるのは自分一人だと思っている女の子は、躊躇いなく服を脱ぎ下着姿になる。鏡の前に立って、お腹を摘まんで独り言の愚痴を洩らしたり、普段は人前ではしないようなことを無防備に晒していく。そんな女の子の表には出ない部分を目の当たりにし、妙な興奮を覚えてしまう。
着替え終わった女の子は、ベッドにゴロゴロと転がりスマホを弄り始める。しかし、しばらくすると挙動不審にな仕草を見せ始めた。スマホに向けられていた視線を、不安げに部屋の周囲に向け、怪訝そうに眉を潜めている。「……なに、これ?」と呟き、怯えているようにもみえる。
(……なんだろう?)
俺の疑問をよそに、女の子は持っていたスマホで何かを調べ始めた。気になった俺は、背後からスマホの画面を覗いてみた。
(……部屋、匂い、オカルト……?)
どうやら女の子は、僅かに匂う俺の体臭を感じ怯えていたようだ。無防備な女の子の姿に性的興奮を覚え、いたしてしまったことが不味かった。たしかに、この臭いは女の子の部屋にはない臭いだ。
でも、どうして検察項目に『オカルト』があるのか不思議だった。そんな些細な疑問も、導きだされた検索結果を見て納得した。ずらりと並んだ検索結果。『オカルト』が入っているだけあって、「人が亡くなる知らせ」だの、「生き霊がいる」だの、オカルトちっくなものばかりだった。
結果の多さにも驚いたが、そこに出された内容に内心がっかりとした気分にもなった。
結果の多さは、同じような体験をし、疑問を感じた人がそれなりに多い証拠。それだけ身近な現象。つまり、霊の存在ではなくても、俺のような透明になれる能力を持った人間が他にもいるかもしれないということだ。
思い返してみると、俺自身も似たような疑問を抱いたことがあった。一人暮らしの閉めきったアパートの部屋で、使ったことのない整髪料の匂いがしたり、自分のものじゃないオナラの臭いだったり。なぜか線香の香りが漂ってきたりと、思い当たることは幾つかあった。
(なんだ……、俺だけの能力じゃないんだな)
すっかり萎えてしまった俺は、早々に女の子観察を切り上げ家路についた。
と、いってもイタズラを止めることはなかった。このイタズラは小心者な俺を、少しだけ強気にさせる、いいストレス発散になっていたから。
◇ ◇ ◇
そんな、ある日。数少ない友人の一人が、怪訝そうに俺の顔を見ながら呟いた。
「なぁ、お前……顔つき変わった?」
「は? どういうこと?」
「いやさ、最近、お前の顔が前と違う感じがする気がして。なんていうか、お前なんだけど、お前じゃない感じ」
友人の言いたいことが分からず、眉間にシワをよせ、首を捻る。
「それって、俺が明るくなったか暗くなったってこと?」
俺の問い返しに対し、友人は俺の顔をマジマジと覗き込み唸る。
「うーん。なんか違うんだよな。違和感っていうか、なんていうか……」
「違和感……?」
曖昧な答えだが、彼の言った『違和感』という言葉にドキリした。
友人が感じる違和感に、俺自身も思い当たることがあったからだ。数日前から鏡に映る自分の姿に違和感を覚えていた。そこに映る姿は、たしかに自分の姿なのだが、ふいに他人の姿を見ているような感覚に落ちる時があるのだ。写真などで確認し、いっときは納得するが、すぐにその姿に違和感を覚えてしまう。
この異変を感じるようになったのは、透明になる能力を手に入れて、しばらく経った頃だ。
最初の異変は、ちょっとした物忘れの感覚だった。透明の時間を堪能し元の姿に戻ろうとしたとき、一瞬自分の顔が頭に浮かんでこなかったのだ。まあ、そのときはすぐに思い出せたし気にはしていなかった。
元々、自分の顔なんて、客観的に見て記憶しているようなものじゃない。
だから、気にしなかった……。
しかし、この感覚は日に日に強くなっているようでもあった。そして、違和感に比例して透明になっている時間は日に日に長くなっている。
透明な時間を楽しみながらも、このままでは危険だという感覚もあった。このまま続ければ、取り返しがつかなくなる。そんな気持ちが強くなっていた。いつものイタズラを堪能しながら、もう止めようという気持ちが湧くこともあった。……けど、俺は透明になることを止めなかった。
俺は、この愉しく有意義な時間を手放したくなかったんだ。
――そして、とうとう俺は自分が分からなくなった。
元に戻ろうと、自分の姿を想像するが、頭には誰の姿も浮かばない。
写真を見ても、自分がどこに写っているのか認識できない。
自分の学生証に貼られた写真が、誰の顔なのか分からない。
この透明になる能力は、自分の姿を想像することで元の姿に戻ることができていた。
俺は長い時間を透明な姿で過ごし、“透明な自分”を見ていた。その時間は、しだいに俺のなかで“透明な自分”を本来の自分の姿として認識させていった。
俺は、自分の姿が見えなくなってしまった。
だけど、なにも感じない。だって、俺の姿は“これ”だから……。
誰にも見られない、自分でも見えない。
これが、本当の自分の姿だから――
【終わり】