『本』
西野由香里はいつも一人でいた。
少し地味な方ではあるが、人から話し掛けられたりしたときの対応は普通に明るく可愛らしい。そんな様子から、別に根暗とかいう訳でもなさそうだった。
しかし、なぜか彼女は頑なに人を避けようとしている。
講義中も、昼食中も、彼女は一人でいる。
この広いキャンパスの中で、彼女はいつも一人。
だけど、孤独を求めている訳ではないようにも思えた。ただ、彼女は人一倍、周囲の様子を気にしていた。気にするというよりも、警戒しているという方が正しいかもしれない。
俺は、そんな彼女に興味があった。もちろん、恋愛感情とかではない。単純な好奇心だ。
◇ ◇ ◇
今日も西野由香里は一人でいる。
大学の側にあるバス停のベンチで本を読み、一人でバスが来るのを待っている。俺は徒歩通いでバス停に用事はないが、そこにいる西野由香里には興味があった。
俺は自然な動きで近付き、西野由香里の横に腰を下ろそうとした。が、俺の身体がベンチに触れるよりも早く、西野由香里は避けるように立ち上がった。しかも、あまりに早い動きに唖然としている俺の姿を一瞥するや否や、さらに避けるようにベンチから一歩離れた。流石に、この態度はムカついた。
「西野さん。なんで避けんの?」
西野由香里は俺の顔を見ようともせずに言う。
「貴方には関係ないことです」
その声には嫌悪は感じられない。だが、僅かに怯えのようなものは感じられた。
「西野さん。もしかして、男がニガテとか?」
ぶしつけな言い方だったかもしれない。だけど、彼女の態度を見て、つい口走ってしまった。
「違いますよ」
そう切り捨てるように言うと、西野由香里はバスも待たずに俺の前から立ち去っていった。
「なんだよ、あいつ……」
実を言うと、西野由香里と言葉を交わしたのは、これが初めてだった。しかし、二、三言葉を交わしただけで、俺の中の西野由香里に対する印象は大きく変わってしまった。それも悪い方に。
「あんな性格なら、誰も近づかねーよな」
西野由香里に対する関心は急激に薄れ、この数分を無駄に使ったことを後悔しながら、帰ろうとベンチから腰をあげようとした。
「……ん? なんだ?」
ついさっきまで西野由香里が座っていた場所に、何かが置いてある。
それは本みたいだった。それなりの厚さがあり、百科事典のような装丁だ。赤い重そうな見た目で、ぱっと見は高そうな本だ。
でも、この本は本として機能していない。なぜなら、中身を見ることができないからだ。本はガムテープでぐるぐる巻きにされ、開くことさえできない。本だと認識できたのも、ガムテープの隙間から覗く僅かな紙や表紙の質感を見て判断しただけだ。
「西野の忘れ物かな?」
俺はそれを手に取り、どうするか悩んだ。あんな態度をとられた後だけあって、西野由香里の為に何かをするという気分にはならなかった。それに、これが本当に西野由香里の物かどうかも分からない。
しばらく用もないバス停で悩んだが、結局その本を鞄に仕舞い、俺は家路についた。
◇ ◇ ◇
翌朝、大学のバス停で西野由香里の姿を見かけた。
西野由香里はバス停のベンチの下を覗いたり、近くの植え込みを掻き分け覗いたりしていた。
その形相は凄まじかった。必死に何かを探しているのが、端から見ても分かるほどに。その凄まじさゆえに、側を行く人は若干引きぎみに西野のことを見ていた。
周りの人間は、彼女が何を探しているか分からないだろう。だけど、俺にはすぐに分かった。そして、西野が求めている物もすぐ手元にある。
だけど、俺はそれを差し出さなかった。あんなにも本をぞんざいに扱っておきながら、こんなにも必死に探しているのだ。
――あの本には、何か秘密がある。
そう感じたからだ。ガムテープでぐるぐる巻きにされた中身が何なのか、異常に気になり始めたのだ。
なおも探し続けている西野を横目に、俺は教室に向かっていった。
帰宅するなり、俺はハサミやカッターを手に、例の本と対峙していた。
自分の物ではないという負い目があるのか、珍しく慎重になっていた。本自体を傷つけないように丁寧にガムテープを切り、開くことができるようにしていく。
「おしっ。これで良いか」
さすがに表紙についた物までは取れなかったが、本としての機能は取り戻すことができた。
見てはいけないものを垣間見るような緊張と興奮を胸に、おそるおそる表紙を開いていった。
「…………なんだ……これ?」
表紙を捲り、すぐに目に入ったのは真っ白なページの真ん中に書かれた西野由香里の名前だった。
本のタイトルもなく、ただ『西野由香里』と小さく書かれているだけだ。自分の持ち物に名前を書いただけかと、次のページを捲るが、そこにもタイトルや目次などもない。
首を傾げながら次のページを捲ると、そこには西野由香里の誕生日や時刻、産まれた時の体重、身長、病院名などか事細かに記載されていた。
「なんだ、これ?」
つい今しがた言った言葉が口を衝いて出る。開いているページを読むと、何ヵ月検診だとか、病気にかかった状況などが、本当に細かく書かれている。
「……親が残した成長日記?」
そう思いながら次々とページを捲り読み進めていたが、しだいにそうではないと気づき始めた。
そこに書かれている内容は、驚くほどに詳細だ。なかには親が知り得ない情報なんかもある。病気になった日や、生理が始まった日とかは、母親が知っていてもおかしくはないが、さすがにファーストキスや初体験なんかの日や詳細を知っているのは異常だ。
異常な親が書いた本だと認識しつつも、俺はその本を読むことを止めなかった。
俺は本を読みながら興奮していた。この本を読めば西野由香里の全てを知ることができる。彼女の癖や習慣。人と距離をとっているように見えて、意外とやることはやっている事実。他人に隠している秘密やなんかも、全てこの本に書かれている。
他人の秘密を知るということは、なんとも言えない甘美を生む。俺はすっかりそれに囚われていた。
のめり込むあまり夕食もとらず、風呂も入らないまま、気がつけば朝を迎えていた。読みながら吸っていたタバコの吸殻が、灰皿にたっぷりと積もっている。
未だ読み続けていた本から僅かに視線を逸らし、窓から射し込む朝日を眺める。若干疲れを感じる目には眩し過ぎる光を見ながら、大学に行くのダルいな〜、なんて考えていた時だ。ふと、おかしなことに気がついた。
俺はこの本を成長日記の類いだと思い読んでいた。現に、この本には昨日のことまで詳しく書かれている。
……だから、おかしい。この本は一昨日の夕方から、俺の手元にあった。それ以前に、ガムテープでぐるぐる巻きにされ、開くことさえできなかったのだ。そして、本の中にはガムテープで封印された日も書かれていた。しかも、かなり早い時期だったはずだ。
「どういうことなんだ?」
不思議に思いながら、開かれたページを眺めていると突然異変が現れた。
昨日の出来事まで書かれ、以降が白紙だった部分に何かが浮かび上がってきたのだ。炙り出しみたいにジワジワと黒い筋が現れ、文字として形作られていく。
「――えっ!? これは……」
文字は文章になり、白紙だったページに新たな記録として残った。
日付は今日。記されたことは、西野由香里が今日一日に体験するであろう出来事。
非現実的なことが目の前で起こったのに、俺はそんなことを気にするわけでもなく、新に記された西野由香里の秘密に目を通した。特に目新しい出来事はなかったが、今日一日の西野由香里の行動は把握することができた。
徹夜で思考が麻痺していたのか、疑問を抱くこともせずこの不可思議な出来事を受け入れていた。俺はここに書かれていることが事実なのか確かめたくなり、西野由香里の様子を一日観察してみることにした。
結果として、今朝、本に現れたものは全て西野由香里の行動と重なった。
この本が、ただの本ではないことは明白だった。俺は数日、本の内容と西野由香里の行動を観察し続けた。
その数日間。毎日、本にはその日一日の出来事が浮かび上がっていた。現れる時間はまちまちだった。日付が変わると同時に現れる日もあるが、日がのぼる頃に現れることもあった。時間はばらつきがあっても、現れる内容と行動は寸分の狂いもなく同じだった。
「おおっ! なにこれっ。過去の秘密だけじゃなくて、未来も知ることができる本じゃないかっ!」
変にテンションが上がってしまった。
こういう風に日記に未来が書かれていく漫画があったな、なんて考えていると、ふっと今度は別の漫画が思い浮かんだ。
「……これって、別の人間が書き込んだりしたらどうなるんだろうな」
思い浮かべたのは、人の死を操作できる黒いノートの漫画。
ちょっとした切っ掛けで湧き起こった好奇心は、すぐさま行動として現れた。机の上に転がっていたペンを手にし、すでに現れていた西野由香里の今日の出来事の下に少しだけ書き足した。
「……『腕の骨を折る』っと……」
大きな出来事かつ、他人の目からも容易に確認することができる内容。書いた場所から、恐らく結果が出るのは夕方以降。俺が確認とれるのは明日の朝以降になる。
大きな期待はないが、どんな結果が出るかは楽しみだった。
「――――まじか……」
翌日、大学に現れた西野由香里は腕にギプスをつけていた。女が何人か心配そうに近づき尋ねている。西野由香里は「昨日、転けて折ったの」と、沈んだ声で応えていた。
俺の興奮は最高潮だった。この本は自動的に未来が現れるが、外部からの書き込みも有効だと確証が得られた。
「この本があったら、西野由香里を思い通りに動かせるんじゃね?」
妙な興奮と感覚に囚われていっているのが分かる。
他人の人生を操ることができる。その快感は、とても強く気持ち良かった。あの漫画の主人公が「神になる」とか言って溺れていったのも、よく分かる。たった一人の人生を操れると知っただけで、こんなにも気持ち良いんだから。
俺はその日から、本に現れた出来事の最後に必ず何かを書き足すようになった。
書き足すものは、ほんの些細な事柄。バイトをクビなるとか、財布を落とすとか……ちょっとした不幸。
俺は西野由香里を好きでも嫌いでもなかった。だからか、書く内容に良い内容はなかった。他人の不幸は蜜の味とはよく言ったものだ。
とは言うものの、連日の災難で日に日に憔悴していく西野由香里の姿を見ていると、僅かに残っていた良心が痛んだ。元々、細身だった身体がさらにやつれ、病的な様相になっていた。
このままじゃ、ヤバイことになるかなと思い始めた、ある日……それは現実となった。
その日も、いつものようにタバコを咥え、西野由香里の本に目を通していた。数日前から俺は書き足す行為は止めていたが、本は手元に残したままだった。
フーッと煙を吐き出し、まだ書かれていないページを眺めていると、ジワジワとしだいに文字が浮かび上がってきた。
「――えっ、……これは」
浮かび上がってきた文字にドキリとし、意識が集中していく。
『人生に悲観し死を選択する。朝が来る前に手首を切り自殺を図る』
そこに現れていた文字の羅列に、集中していた意識が一気に動転していく。その一文の後にも文字は続いている。だから、死にはしないのだろう。だけど、『自殺』という二文字の衝撃は大きかった。動揺で緩んだ口許から、咥えていたタバコが離れ落ちてしまうほどに。
火のついたタバコはまっすぐ本の上に落ちる。そして、落ちた場所をジワリと焦がしていく。
「うわっ! やべっ」
動揺していたせいで反応が遅れたが、それほどの被害を与える前にタバコを拾い上げた。……はずだった。
「………なんだよ……おいっ!」
火種は遠ざけたのに、本は着火点を中心に黒い焦げ跡が広がっていく。火も上がらない、焦げ臭い匂いもない。それなのに、開いているページが焦げていく。
――『死』という一文字を残したまま……。
――ピンポーン。
突然、部屋のチャイムが鳴り響く。今は深夜の二時。誰かが尋ねてくるには遅すぎる時間。
――ピンポーン。
再度、鳴るチャイム。そして、なぜか部屋に満ちていく焦げた臭い。
――ピンポーン。
嫌な汗が滲み、訳も分からず震えてくる。肉が焦げたような臭いが、さらに濃くなっていく。
「……返して……ください……本を……」
ドアの向こうから、しゃがれた女の声が聞こえてくる。全く面影は残っていないのに、その声が誰のものかはっきりと分かってしまった。
――カチャリ。
鍵を閉めていたはずの玄関のドアノブが回され、軋んだ音をたてながら開いていく。
俺は手元にあった本を玄関の方に投げつけ、布団に潜り込んだ。身体全体を布団で覆い、身を隠し震える。
どんどん濃くなっていく肉の焦げた臭い。湧き上がってくる吐き気を押さえ、必死に息を殺し全てが過ぎ去るのを待った。
ガサリ、ガサリと乾いた足音が近づく。その音が部屋の入り口で止まる。
「……やっと……みつけた……」
抑揚のない西野由香里の声が聞こえたかと思うと、あれほど満ちていた焦げた臭いが消えていった。そして、瞬間的に与えられた極度の緊張と恐怖がさった俺の意識も消えていった。
◇ ◇ ◇
翌朝、目が覚めた部屋には何の変化もなく、普段と変わらない様子が広がっていた。放り投げていたあの本はといえば、まるで最初から無かったみたいに、部屋から消え失せていた。
昨日のあれが現実で、本当に西野由香里だったかは分からない。できることなら夢だったと思いたい。
俺は自分を落ち着かせるために一服し、大学に行く準備を始めた。
「ん? これ……」
背筋がゾクリとした。
机の上に本がある。見たことはないのに、よく知る本。百科事典のような装丁の青い表紙の本。おそるおそる開き、中を見る。
――パタン。表紙を開き、即座に閉じた。
俺は知ることになる。西野由香里があの本に固執し、人を避けていた理由を……。
他人の人生を操る楽しさを知ってしまった俺は、他人に全てを知られ操られるかもしれないという恐怖を誰よりも知ることとなった。
【終わり】