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『水』

 暗い部屋の真ん中で、僕はボンヤリと雨の叩きつける窓を見つめていた。雨はしだいに強くなり、窓ガラスに打ち付ける音と共に、伝い流れる雨が滝のようになってゆく。

 ふいに、その空間に恐怖を覚え背筋が震える。呼吸の間隔が短くなり心拍がどんどんと上がっていくのを感じる。ふらふらと足は後ずさり、壁に縋りついた身体は光を求め指を壁に這わせていく。


「……はあっ、……はぁ……」


 固い物が指に触れ、カチリという小さな音たて部屋が光に満たされる。明るくなった部屋の隅で、荒い呼吸と高まった心拍を必死に落ち着かせていく。


「……ふぅ」


 深呼吸を繰り返し、何とか平静を取り戻した僕は、乳白色の明かりに照らされた部屋を見つめた。床に畳がしかれた六畳ほどの小さな部屋には、勉強机に小さな本棚、それとタンスがあるだけ。ごく普通の部屋だ。



 ここは水に満たされてはいない――



 僕は『水』が恐ろしい。

 湯船やプール、海などの波打つほどに満たされた水が、とても恐ろしく感じるのだ。そんな場所には足先を浸けることさえできない。だけど、これでも少しは改善した方だった。幼い頃は雨やシャワーといった、振りかかる水さえ怖かったのだから。


 ……改善はしているように思う。


 そう思いたいけど、高校生になった今でも大きな改善はないのかもしれない。いや、むしろ悪化しているかもしれない……。シャワーなどの降るかかる水は克服できた。けど、さっきみたいに暗い中で水を見ていると、自分の周りが水で満たされていくような感覚に陥り、動悸が激しくなったり息が苦しくなったりする。この精神的な症状は、年を追うごとに酷くなっている。


 水恐怖症は、幼い頃に溺れたりした際の記憶が引き金となり発症することが多いらしい。いわゆるトラウマというやつだ。

 しかし、僕の場合は違う。僕はトラウマでも何でもない。生まれた時から水を恐れていたらしい。原因が何なのかは自分でも分からない。分からないまま僕は水を恐れて毎日を過ごしている。


 ◇ ◇ ◇


 真っ白な部屋に、真っ白なシーツ。清潔感はあるが、どこか無機質な冷たさを感じる部屋。その一角に置かれたベッドに、僕を育ててくれた女性が横になっている。

 養母は病室に現れた僕の姿を見ると、嬉しそうに細い身体を起き上がらせる。そして、自分の苦しさを見せないように、笑顔で色々と話しかけてくる。その中に、時々思い出したように僕の幼い頃の話しをすることがある。


「優くんは、本当に変わった子供だったのよ。普段はたいして泣かない赤ちゃんだったのに、お風呂の時間になると大号泣。大きくなれば落ち着くかなと思っていたけど、結局それは変わらなくてね。夏のプールとかは保育士さんたちを困らせてたわね」


 楽しそうに語るが、その口から漏れる笑みはとてもか弱い。そんな養母の姿を見ていると、僕はいたたまれない気持ちになる。実母が僕を産んですぐに亡くなってしまい、施設に送られることになった僕を救ってくれた養母。そんな養母を僕は苦労させていたんだなと、悲しく情けなくなる。


「……でも、こんなに大きくなったのだから、よかったわ」


 痩せ細った手を伸ばし、僕の手に触れる。水に触れているかのようなヒンヤリとした養母の手。とても弱々しく、年齢のわりに皺の多い手を、僕は優しく撫でることしかできない。


「……かあさん。そろそろ、帰るよ」


「ああ。もう、こんな時間なのね。優くん、気を付けて帰るのよ。あっ、あと、ご飯はしっかり食べるのよ」


「分かってるよ。じゃあ、また来るからね」


 面会時間終了ギリギリまで居座り、僕は椅子から腰をあげる。寂しそうに手を振る養母に、精一杯の笑顔を向けたまま病室を出た。


 養母は今、重い病で入院している。その病は全て苦労をかけてしまった自分のせいなのではと、少し前から感じ始めていた。


「………………」


 病室にいた時には薄かった病院特有の臭いが、廊下に出た途端に強く鼻に届く。僕は『水』も恐ろしいが、この『病院』という空間も苦手だった。この病院という真っ白な世界を歩いていると、時々誰かが耳許で囁いているような幻聴が聞こえてくることがある。僕は足を速め、この場所から逃げようとする。


「――お前のせいでっ」


 その声に、僕は後ろを振り返る。だけど、そこには薄い明かりの灯された廊下が続いているだけだった。面会時間も終了していることもあり、ずっと奥に続く長い廊下には人の姿はない。


「――お前なんて、いなくなればいいっ」


 ……まただ。はっきり聞こえた。感情ままの甲高い女性の声。頭の奥底に響き、ぐらりと身体が崩れそうになる。人間の気配が遠ざかり、広い空間でありながら狭く密閉された空間のように錯覚する。見えない恐怖に震えていると、今度は急に喉に圧迫感を感じ息苦しくなった。


「……あっ、…………うぅ……」


 誰もいない廊下で、一人苦しみもがく。

 絶え間なく声は聞こえ、何かが喉を締め付ける。


 ――嫌だ! 聞きたくないっ!


 ここから逃げ出したい。その一心で、僕は這いつくばりながら病院から抜け出た。


 病院から外に出ると、不思議と息苦しさはなくなった。そして、あの女性の声も……。空を見上げ、外の空気を思いっきり肺に送り込む。少し湿り気のある空気が身体に満ちる。

 外はすっかり夜だった。空には厚い雲がかかっているのか、星の姿は見ることができない。肺に満ちた空気と肌に触れる湿り気を感じ、今夜は雨になると天気予報が言っていたことを思い出した。


『――お前のせいでっ』


『――お前なんか、いなくなればいいっ』


 頭の中であの女性の声がこだまする。今まで、こんなにはっきりと聞こえることはなかった。そして、あんなに息苦しさを覚えることも……。

 だけど、その声はどこかで聞き覚えのあるもののような気がした。どこで聞いたのか分からないが、あの女性の声は確実に記憶にある声だった。

 懐かしくも嫌な感じのする声の記憶と共に襲ってくるあの感覚。雨も降っていないのに、僕の周囲には水が満ちてゆく。


 激しい動悸に、息苦しさ。僕は走って家路に向かった。


 だが、無情にも天は厚い雲から滴を落とし始める。ポツリ、ポツリと落ちる滴はしだいに粒を大きくし、しまいには地面に叩き付けるほどの強さを持つ。人は濡れる不愉快さから逃れるために、走って家路に急いだり、傘を求めコンビニに向かったりしている。僕は濡れる不愉快さなど感じず、ただ自分に振りかかる恐怖から逃れるために走っていた。しだいに強くなる雨に、全身にまとわりつく水の感触。息苦しさを堪え走る。


「――はあ、はあ」


 この橋を越えれば、あと少しで家につく。あと一踏ん張りだと、橋の上を走る。


 だが、僕の足はなぜか橋の真ん中で走ることを止めてしまった。橋の下に流れる川は、暗闇でも分かるほと水かさが増し濁っている。川の上流ではここ以上に降っているのかもしれない。


「………………」


 水を恐れるはずなのに、僕の視線は眼下に広がる濁流から目が離せなかった。ゴウゴウとうねり流れる川から、女性の声が聞こえる気がする。


『――お前なんか、いなくなればいい』


 再び、あの言葉が頭を巡る。


「…………そうだよな……、僕なんか……」


 ぽつりと、そう呟いた時だった――

 突如、一定方向に流れていた川の水が渦を巻き迫り上がってきた。重力に反し上へ上へ伸びる淀んだ水は、僕の目の高さまで来るとピタリと動きを止めた。


「…………えっ!?」


 僕の目の前の水は人の姿を形どっていた。髪の長い女性の姿をしたそれは、憎しみのこもった表情で目の前にいる僕を睨んでいる。そして、ズルリと腕を伸ばし僕の首にまとわりついた。


 不可解な出来事の恐怖に、水から感じる恐怖。僕は身動きをとることもできず、なすがままになっていた。人の形をした水は、僕の身体を自分の方へと引き寄せる。手の形をした水が、さらに幾つも身体にまとわりつく。


 そして、僕は引き寄せられるまま濁流の中に落ちていった。


 身体を叩き付ける水の勢い。息ができずもがくが、天地も分からず水面に顔を出すこともできない。意識も薄れ、抵抗する気力もなくなり、水の流れに身をゆだねた時だった。


「お前のせいでっ」


「お前なんか、いなくなればいいっ」


 再び聞こえてきた声。


 ――ああ、これは。


 僕は思い出していた。この声の主を。僕が水を恐れる理由を――


 これは僕を産んでくれた母の声。そして、胎児の記憶が水を恐れさせていた。


 僕は毎日、聞いていた。僕に囁き続ける、母の憎み呪う言葉を……。


 僕は恐れていた。母の胎内の温かく暗い水の中を……。



 そして、僕は――



 ◇ ◇ ◇


 喪服姿の人たちが、祭壇を前に涙を流す。祭壇には優しい笑顔を向ける女性の遺影が、立て掛けてある。



「……ねぇ。優って、まだ見つかってないんでしょ」


「ああ、そうらしい」


「あの豪雨の日に川に落ちたらしいけど……」


「正直なところ、このまま見つからなければ良いんだがな」


「そうよね……あんな不気味な子」


「全く、姉さんもバカだよ。あんな子ども引き取るなんてな」


「ほんとよ。あの子、小さい頃からおかしな子だったわよね。よく物が壊れたり、周りが病気になったり……」


「……まさか、姉さんの病気もあいつのせいなんじゃ……」


「分からないわよ。あの子は疫病神みたいな子どもだったから……」




 喪服姿の人たちは、誰もが亡くなった女性の死を哀しむ。しかし、いなくなってしまった少年のことは誰も悲しもうとしない。


 空には厚い雲が覆い、シトシトと雨を降らし地面を水で包んでいった。




【終わり】



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