52
レイド「ブァックショーーイ!!」
フール「風邪~?」
レイド「いや、誰か噂でもしてんじゃね?」
一瞬何を言われているのかが分からず、リンシャンは切れ長の瞳を数回瞬かせる。
「“くしゃみ”のコト」
「“くしゃみ”? それがどうかしたの」
これが普段の二人の会話であれば、リンシャンはこの辺りで既に会話の流れを察していた事だろう。
だがこの時の彼女は、珍しくシュルシャの深刻そうな顔付きに気圧されてしまい、話の途中に自分の台詞を挟む事が出来なく成っていた。
「リンシャン言ってたでしょ。一度目は良い噂。二度目は悪い噂って」
「え、ええ。言ったけど……」
「じゃあさ、三度目のくしゃみは、“もっと悪い噂”――って可能性はない?」
「えぇ!?」
なんとも唐突な問い掛けである。そして残念な事に、リンシャンにはその問に答えるだけの知識がなかった。
「もしくは“虫の知らせ”的な。その人の湯飲みが、突然真っ二つに割れたりする感じの」
知らないのだから、当然答えようもない。それ故この時の彼女の回答は、彼女本来の真面目な性格が現れたモノとなった。
「さ、さあ……? そんな話は聞いた事ないけど」
結局、リンシャンには「アル」とも「ナイ」とも言う事が出来なかった。
そもそも、元が噂話なのだから、可能性の話をすれば黒であるとも白であるとも言えてしまうのだ。
ソレは、相手に正しく物事を伝えようとする配慮の結果……だが、今回はソレがいけなかった。
ガタッ
「ッ!?」
突然、座っていた椅子を押し退け、シュルシャがその場に立ち上がる。
「……ねぇリンシャン。ちょっとお願いが有るのニャ」
「え、ええ。良いわよ。何?」
いつの間にか、シュルシャの台詞に例の語尾が戻っていた。どうやら、先程よりも少しは冷静さを取り戻したらしい。
「やっぱり、シュルシャは長期の休暇を取る事にするニャ。だからジーチャンとミリーヤに、その事を伝えておいて欲しいのニャ」
「……そう、やっぱり体調が悪かったのね。まったく、そういう事はもっと早目に言いなさいよ」
リンシャンはこの時、シュルシャの口から“休暇”の二文字を聴く事ができた事に、内心でほっと息を吐いていた。
以前ミリーヤがシュルシャに休暇を勧めた際、彼女はその申し出をキッパリと断っている。
しかし、たとえ後になって彼女の方から休暇の申請があったとしても、ミリーヤもゴルドも決してそれを無下にする様な狭量の持ち主ではない。
それに、恐らく今のシュルシャは、精神的な疲労に加え身体的な不調まで患っている。ならば、長期休暇を申請するだけの理由としては十分。
寧ろ、その様な状態で未だ仕事を続けると言い出すのであれば、リンシャンはたとえ無理矢理にでも、彼女の事を休ませようと考えていた。
「それで、何日くらい休むの? 三日? 五日? アンタ滅多に長期休暇なんて取らないんだから、どうせなら一気に一週間くらい取っちゃいなさいよ」
ここ数日、リンシャンは仕事中のシュルシャの様子を、誰よりも近くで見続けてきた。
彼女の上司であるミリーヤに客観的な意見を求められ、シュルシャを休ませるべきかどうかの相談を受けた事もある。
無論、リンシャンにはシュルシャが無理をしている事にも、それが原因で失敗を繰り返している事にも気が付いていた。
なので、もし彼女がミリーヤに「シュルシャを休ませるべき」と進言していれば、恐らくシュルシャは無理矢理にでも休暇を取らされ、こうして受付に居る事はなかっただろう。
休暇を取らされた彼女はきっと今頃、所在無さ気に町中をブラブラと彷徨っていたか、寝床でレイド達の事を考えゴロゴロと眠れぬ時間を過ごしていたに違いない。
しかしリンシャンは、シュルシャが今の状況を乗り越えようと、懸命に努力していた事も知っている。
だからこそ彼女はミリーヤに余計な進言をせず、極力シュルシャのフォローに周り、その仕事をサポートし続けてきたのだ。
フォローに対する“代償”など、所詮は友人を手助けする為の方便でしかなかった。
「うーん。正直いつ戻れるか分らないから、日数は“無期限”でお願いするニャ」
「分ったわ。“無期限”で……ハ???」
「じゃ、そういう事で宜しくニャ」
そう言うと、シュルシャは指の揃った掌をシュタっと挙げ、そそくさとその場を去ろうとする。
一方、シュルシャの発言の意図が直ぐには掴めず、遠ざかるその背中を唖然としたまま見送ろうとしたリンシャンは――
「――って! ちょっと待てーー-!!」
「ウニャア!?」
直後に我を取り戻し、慌ててシュルシャの腰へとしがみ付いたのだった。
「ちょっ、リンシャン!? イキナリ何するニャ!?」
「何するじゃないわよ! アンタ! 無期限の休暇なんて許される筈ないでしょう!」
「なら半年、いや三ヶ月で良いから! だから放すのニャー!」
しがみ付いてきたリンシャンを引き剥がそうとするシュルシャ。
だが、幾ら自分より身体が小さかろうと、相手は腕力に定評の有る鬼人である。シュルシャがどんなに押し退けた処で、リンシャンを振り解くだけの力はない。
「どちらにせよ長すぎるわよ! アンタその休暇中に一体何する積り!? だいたい予想はつくけど!」
「そんなの、レイド達の所に行くに決まっているのニャー!」
「予想通り過ぎて逆に驚くわよ!」
やがてそんな二人のやり取りに、何事かと周囲の視線が集まり始める。
「そもそも、アイツについて行かないって決めたのはアンタ自身でしょうが!」
「ソレはもう過去の話だニャ。シュルシャは未来に生きる事に決めたのニャー!」
「わっけ分からないわよ!?」
台詞に例の語尾が戻り、少しは冷静さを取り戻したと思ったのだが、どうやら一周回って寧ろ悪化していたらしい。
「放すニャー! レイドの身に危険が迫ってる。シュルシャの勘がそう言っているのニャー!」
「“くしゃみ”の件か!? アレはただの冗談だって言ったでしょうが!」
獣人であるシュルシャより腕力の有るリンシャンだが、身長と体重はシュルシャの方が上回っている。
そのため引き剥がされる事はなくとも、ウエイトの差に因って体ごとズルズルと引き摺られてしまい、シュルシャの進行を完全には阻止できない。
「くっ、この、止まりなさいってば!」
「後生だから行かせてニャー!」
正直、ここ数日のシュルシャを見続けてきたリンシャンとしては、彼女の気持ちが痛いほど解った。
だが、もしここで彼女を行かせてしまっては、レイド達と一緒に行かないと決めた彼女の決意も、ここ数日頑張ってきた彼女の努力も、その全てが無意味なモノと成ってしまう。
それに数日ならまだしも、それだけ長期間仕事を抜けられては、間違いなく仕事の方にも支障をきたす。
なのでここで彼女を行かせるのは、誰にとっても良い結果には成らないだろう。
もし、万が一にもシュルシャの言分に許可がおりるとしても、ちゃんと彼女の方から直接、上司であるミリーヤやゴルドに話を通すべきである。
「ぅわっ!?」
「キャッ!?」
ドタタッ
すると二人はもみ合う内に突然バランスを崩し、折重なる様にしてその場に倒れ込んでしまう。
「アイッタ~……もうっ、いい加減に観念しなさい!」
リンシャンは倒れた拍子にシュルシャに馬乗りになると、動けない様に彼女を押さえ付けに掛かる。
――しかし、相手の執念もまた凄まじかった。
「ふぬ~~!」
「し、しぶとい!?」
シュルシャは唯一動く左手の爪を床板に突き立てると、体をリンシャンに組み付かれたまま、一本の腕だけでジリジリと前進をし続けている。
「どのみち今から行ったって追い付ける筈ないでしょうが! 少しは冷静になりなさい!」
「シュ、シュルシャは冷静だニャ! 具体的には山火事の中に全裸で突っ込んで、それでも無傷で戻ってこれる位に冷静だニャー!」
「そんな例えが出てくる時点で冷静じゃないわよこのバカ猫娘ー!」
そうして、その様なやり取りを繰り広げる彼女達には、もはや客や職員に留まらず多くの衆目が寄せられ、やがては二人に対し野次までもが飛ぶ様に成っていた。
「いいぞー! やれやれー!」
「負けるなシュルシャちゃーん!」
「おいどっちに賭ける!?」
「お前そりゃリンちゃんだろ!」
「俺はシュルの奴に賭けるぜ!」
「お前らバカばっかだな! 今は賭けより、この光景を眼に焼き付ける事の方が先決だろうが!」
「「「た、確かに!!」」」
〈黄金の瞳〉の女性専用制服は、その独特の構造からそれを着る女性の肌の露出が非常に高い。
当の本人達は未だ気が付いていない様子だが、その様な服装でもみ合いながら床に倒れればどう成るかなど、火を見るより明らかであろう。
事実、床に倒れてなお小競り合いを続ける彼女達の格好は、先程から一部見えてはいけない部分が見え隠れしてしまっている。
しかもシュルシャとリンシャンの両名は、受付嬢の中でも上位の人気を二分する二人組である。
その二人組が床に倒れた状態で組み合っているとなれば、大部分の健全な男共にとっては目の毒でありながら、まごうかたなき垂涎の光景でもあった。
「アワワワ……セ、セルティちゃん、アルティちゃん。あの二人、止めなくて大丈夫かなぁ?」
「放っておきなさいリーム。貴女まで巻き込まれるわよ」
「そうそう、セルティの言う通り。アルティ厄介事はゴメンだよ~」
そんな騒動の最中、彼女等を見詰める衆人環視の中には、二人の様子を見かね諌め様とする者も確かに居た。
しかしそういった者達は皆、床でもみ合う彼女等の剣幕に押されてしまい、声を掛けられずにウロウロと周りを彷徨うばかりであった。
普段からでは考えられない一大イベント会場と化してしまった〈黄金の瞳〉受付。だが、この場はあくまでも発掘者支援の為に存在する場であり、決して酒場の様な騒ぎを楽しむ場ではない。
必然、この様な騒ぎが何時までも続く筈もなく――
「静まれええええええええい!!!」
「「「――ッ!?」」」
突然上がった一喝により、周囲の野次を含めた喧騒が一気に消し飛ぶ。
その場に居る全員の視線が、一斉に声のした方角へと向けられる。
すると次の瞬間には、シュルシャとリンシャンを囲んでいた人垣の一角が奇麗に裂け、二人にその向こう側に立っている女性の姿を露わにした。
「……ア゛」
「ミ、ミリーヤ……」
その女性の姿を目撃した瞬間、シュルシャとリンシャンの顔から物凄い勢いで血の気が引いて行くのが、傍から見ても良く解った。
“ミリーヤ・ターリス”は人垣の中央に二人の姿を見据えると、両者に向けた視線を全く揺らす事なく、それでいて自身の肩を大きく揺らしながら、二人の下へと近付いて行く。
二人が床に倒れている事もあるが、ミリーヤが一歩一歩彼女達に近付く度、まるで巨人に迫られるが如く二人の首が反り返る。
やがて二人が見上げ、そしてミリーヤが二人を完全に見下ろす形と成ると、ミリーヤは固めた右拳をユックリと振り上げ――
ゴインッ
「アグッ!!」
ゴインッ
「イギッ!!」
ソレを、二人の頭上目掛け平等に振り下ろしたのであった。
「……二人とも、服の乱れを直したら、私の執務室まで来なさい……直ぐに」
「「~~~~ッッ!!」」
余りの痛みに返事すらままならない二人にそう告げると、次にミリーヤは周りを取り囲む集団を一瞥する。
「……今はまだ仕事中ですよ。早く自分達の作業にお戻りなさい」
言葉そのモノは静かなのだが、そこに込められた凄味と彼女の纏う憤怒の気配を感じ取り、周囲に居る職員は疎か、鉄格子の向こう側に張り付いていた客達すら、まるで蜘蛛の子を散らすように元居た場所へと去って行く。
もしこの場で文句を言う様な輩が居れば、それは命知らずの愚か者か、又は死にたがりの愚か者のどちらかだろう。
一通り周りの様子が元に戻った事を確認すると、ミリーヤは未だ痛みに悶える二人をその場に残し、自分の執務室へと戻って行った。
「な……なんで、私まで……」
「うう、レイドォ……がく……」
◆
その後、騒動の中心人物である二人は、ミリーヤから厳重注意と数日間の謹慎処分を言い渡される事と成った。
少々処分が重い様にも思われたが、ここ数日無理を通し続けていたシュルシャと、そのシュルシャを支えてきたリンシャンを休ませるには良い口実と、ミリーヤはここぞとばかりに謹慎と言う名の休暇を言い渡したのである。
そして、今回の騒動を後に知り、その現場を目撃する事のなかった“ゴルド・マーベリック”は、自室で一人、無念の涙を流したと言う。
「ワシも……見たかったなぁ……」
御歳七十二歳。未だ涸れぬ漢の涙であった……。
なに? 猫と鬼の絡み画が欲しいだと?
良いことを教えてやる。それを一番欲しがっているのは、他ならぬ作者であることをなぁ!(切実




