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一方そのころ――
◆◆◆
「ハップシュ!」
「……何? 風邪でも引いた? うつさないでよ」
横合いから上がった突然のくしゃみに、額に備えた銀の一角飾りが特徴的な“リンシャン・スー”は、その形の良い眉根を僅かに顰める。
「ンウ~……いや、コレはきっと、誰かがシュルシャの噂をしているのニャ」
しかし、くしゃみをした張本人である“ル・シュルシャ”は、自分の鼻下を軽く擦ると、何ら悪びれる様子なく言い切った。
金目朱毛の“獣人”であるシュルシャと、銀瞳銀髪の“鬼人”であるリンシャンの二人は、今日も今日とて〈黄金の瞳〉メルトス支部の受付に勤しんでいた。
「この感じは多分レイドだニャ。きっとシュルシャに会えなくて寂しがっているんだニャ。間違いないニャ」
「……アンタ、それ自分の事でしょ?」
時には一日に二百人近い客の対応に追われる彼女等だが、この時は珍しく客の波が途切れ、一時的にだが手持ち無沙汰と成っていた。
鉄格子の向こうに広がるホールを見渡せば、未だ多くの発掘者が行き交っている。
だが、そういった者達は今は仲間内での相談や、他のクランとの情報交換などに忙しいらしく、彼女等に話しかけて来る者はいない。
中には用事の在る振りをしてホールに留まり、彼女等の容姿と独特の格好に好色の視線を向けてくる輩も存在するのだが、そういった者達は話し掛けて来る事の方が稀である。
お陰で二人は仕事中にしては珍しく、こうして互いに私語を交わすだけの余裕が出来ていた。
「止めてよね、こっちはもうアンタのフォローなんてしたくないんだから」
「う……」
レイドとフールがここ〈メルトス〉を発った日より、シュルシャは自身が予想していた通り仕事の最中に様々な失態を犯していた。
いかに覚悟していた事とは言へ、どうしても二人の事が気に掛かり、注意が散漫と成ってしまうのだ。
レイド達が〈メルトス〉周辺の遺跡に潜る程度ならば、彼女もこれ程彼等を気に掛ける事はない。
どれ程長い期間この町に帰ってこなくとも、周囲にある遺跡の管理は彼女の所属する組織の役割であり、その内部で何かが起これば、その報告は必ず彼女達の下へと送られてくる。
だが、今のような状況下では、仮に彼等の身に何かが起こったとしても、シュルシャにそれを知る術はない。
最悪の場合、彼女の目も耳も届かぬ遠くの土地で、何らかの不幸に巻き込まれた彼等が、突然消息を絶ってしまう可能性すら有り得るのだ。
その様な考えに取りつかれたシュルシャは、彼等が町を出てからの数日間、事ある度に上の空と成るを繰り返し、日々の作業に明らかな支障をきたしていた。
「そ、その件ついては、ちゃんと御礼にご飯を奢ってあげたのニャ。もう言わない約束ニャ」
「そうね。〈おあがり亭〉の一番安い定食だけど……」
組織内において古参である彼女にしては有り得ない失態の数々を見かね、上司であるミリーヤが直接彼女に長期の休暇を勧める場面もあった。
しかしシュルシャはその申し出を断り、最近になって漸くいつもの調子を取り戻し始めたのである。
そしてその間、彼女の犯した失態の大部分をフォローし続けてきた人物こそ、他ならぬこのリンシャンなのであった。
「本当なら、オカズとデザートにもう一品くらい付け加えて貰いたかったわ」
「さ、流石にそれだと、シュルシャのお給金が大変なコトにぃ……」
「分かってるわよ。私だってそこまで鬼じゃないわ」
「……鬼の人にそう言われてもニャ~」
彼女もまた〈黄金の瞳〉において優秀な職員の一人。
シュルシャが彼女らしからぬ失敗を連続で犯したにも関わらず、受付やその他の作業内容が停滞する事なく進んだのは、間違いなく彼女のお陰と言って良い。
……無論、其れなりの“代償”を支払う羽目には成ったのだが。
「ま、こっちは合計で十日分は昼食代が浮いた事だし、お陰で今月はだいぶ余裕が出来たわ」
「逆にシュルシャのオカズは日に日に数が減って行くのニャ……」
「それが嫌なら、もうあんな立て続けの失敗なんてしない事ね」
「うう……反省してます……」
シュルシャにとって、彼女のフォローが大きな助けと成った事に間違はない。
だがしかし、“大きな失敗”の代償と“小さな失敗”の代償が“まったく同じ”と言う条件は、シュルシャにとって幸であったのか不幸であったのか……。
「もっとも、すぐ訂正のできる簡単な失敗程度なら、私は別に構わないけどね」
「そ、そんな簡単な失敗はもうしないのニャ! これ以上、財布の中身を毟られたら堪らないニャ!」
最初の頃は有難さに涙が頬を伝う想いであったシュルシャだが、ここ最近失敗の減ってきた身としては、逆の意味で涙が頬を伝う想いであったりする。
もしレイドとフールが町を出る際、彼等から自宅に有る食料を譲渡されていなければ、今頃彼女の腹の虫は悲痛な叫びを上げていたに違いない。
「ハップシュ!」
そこで、シュルシャの口から二度目のくしゃみが飛び出した。
「ちょっと、本当に風邪じゃないでしょうね?」
「んん~~?? 何か、さっきからヒゲの辺りが妙にムズムズするんだニャ~」
そう言ってヒゲの生え際をネコの様に擦ると、「やっぱりレイドが噂しているのニャ~」などと呟きながら、シュルシャは一人ウンウンと納得し始める。
すると、その様子を横から眺めていたリンシャンの脳裏に、とある話題が思い浮かんだ。
「……そう言えば、確かこんな話があったわね」
「ニャ?」
「ほら、良く言うじゃない。一度目のくしゃみは良い噂。二度目のくしゃみは悪い噂、って」
特に深い意味や考えが有った訳ではない。ただ、珍しく仕事の最中に空いてしまった時間を潰す為。そして――
「? どういうコトだニャ?」
「アンタ、今二度目のくしゃみをしたでしょう? もし本当に誰かがアンタの噂をしてるとしたら、ソレはつまり“悪い噂”って事よ」
ここ最近、仕事中に随分と手を焼かせてくれた友人に対する、ちょっとした意趣返しに成ればと思い振っただけの、そんな他愛のない話題であった。
「悪い噂……」
「アンタの言う通り噂のお相手がレイドなら、きっと今頃――「幼馴染のネコ娘の相手をしないで済むなら、旅に出るのも悪くない」とでも言ってたんじゃない」
無論、彼女のその言い分に根拠などない。そもそも“噂をされればくしゃみが出る”などといった話自体、噂の域を出ないのだ。所詮はからかい半分、暇潰し半分で発した言葉である。
なので、もしシュルシャがこの話題に噛み付いてきたとしても、リンシャンはいつもの如く軽くあしらう心算でいた。
しかし――
ゴンッ
「えッ!?」
突然、今までリンシャンの台詞を聞いていたシュルシャが、目の前の机に自らの額を叩き付けた。
「え? え??」
全く予想していなかった展開に驚き、リンシャンは言葉と思考を失いかける。
だが、いつまでも額を机に貼り付けたまま動かないシュルシャの様子が気になり、隣の席から慌てて彼女の傍へと駆け寄った。
「ちょ、ちょっとアンタ。イキナリどうしたのよ?」
リンシャンがシュルシャの肩を軽く揺する。すると、未だ机に突っ伏したままのシュルシャの口から、小さく呻く様な声が聞こえてきた。
「……あ」
「え、何? “あ”?」
「……有り得る」
リンシャンは今度こそ本気で言葉を失った。
「リンシャンの言う通り、レイドならそんなコト言っててもおかしくない……ニャ」
「はぁ~……アンタねぇ――」
呆れつつも、リンシャンは眉間に寄ったシワを揉み解しながら言う。
「そんなのただの冗談に決まってるでしょ。ここに居もしない奴の台詞なんて、私に判る訳ないじゃない」
「で、でも、シュルシャってば日頃から結構レイドに絡んでるし、実は煩いとか鬱陶しいとか想われてて、今頃せいせいしたって想われてるかも……」
「別にアンタが煩くて鬱陶しいのはいつのも事じゃない」
「ひどっ!? リンシャンのオニー!」
「そりゃあ私“鬼人”だしね」
「そうだった! うわ~~ん!」
傍目から見れば、まるで漫才にも見える二人のやり取り。
だが、そんなやり取りを続けるシュルシャの意気は見る間に消沈し、彼女の周囲には陰々鬱々とした雰囲気が漂い始める。
そこで漸くリンシャンは、自分が持ち出した話題の選択が誤りであった事に気が付いた。
「あっちゃ~……」
この友人は、自分が暇潰しとして提供しただけの話題のネタに、半ば本気で落ち込んでいるのだ。
少なくとも、いつも好んで使っている語尾を付け忘れる位には……。
リンシャンはここ数日のシュルシャの失態の原因が、彼女の幼馴染であり自分の知り合いでもある、レイドにある事を理解している。
その為、これまでは彼等に関する話題を極力避けてきたのだが、最近に成って漸くシュルシャがいつもの調子を取り戻し始めた事と、シュルシャ自身が彼の名前を話に出した事で、話題にしても大丈夫だろうと判断したのである。
――しかし、結果はご覧の通り。
どうやら、シュルシャがレイドに対し抱えている様々な感情は、彼女自身が考えている以上に根深いモノらしい。
「そ、そんなに心配しなくても大丈夫よ。仮にも十年以上付き合ってきた仲でしょ? それならアイツのコトも少しは信用してやりなさいよ」
「……寧ろ長く付き合ているからこそ、レイドがそういう事を考えていると予想が付いてしまうと言うか……」
「なんでそう悪い方に信用が厚いのよアンタ達は!?」
さて、ここ最近シュルシャのフォローをしてきたリンシャンだが、今回はいつもとは違った意味で厄介な事と成った。
仕事の失敗をする様に成ったからと言って、シュルシャが仕事に対する意欲を失ってしまった訳ではない。
なのでこれまでは、上の空と成る度に彼女に声を掛け、その意識を仕事に引き戻すだけで、大半の問題を回避する事が出来た。
だが、こうまで意気消沈してしまっていては、その意識を仕事に向けさせた処で、まともな作業が出来るかは怪しいモノである。
なにより、彼女等の仕事は受付という“接客業”。特にシュルシャの接客は、その明るい性格と親しみ易さが売りである。
今の彼女の様に陰鬱とした雰囲気を纏ったままでは、とてもいつも通りの接客など期待はできない。
そして、今のシュルシャがそう成ってしまった原因を提供したのは、他ならぬリンシャン自身なのだ。
彼女のフォローをする筈の自分が、逆に彼女の仕事の邪魔をしてしまうというのは、どう考えても褒められた話しではない。
「兎に角。一人で勝手に考えて一人で勝手に落ち込むのは止めなさい。それこそレイドの奴に馬鹿にされるわよ」
「うぅ~……」
本来であれば彼女の友人として、シッカリと時間を掛けやる気を取り戻させる事も吝かではない。
だが、今の時間帯はあくまで仕事中であり、こうしている間にも受付に客がやって来るかもしれないのだ。
客が二~三人程度ならば、自分や他の受付嬢で対処する事も可能だろう。しかし彼女の経験上、“波”と言うモノは押し寄せれば、その大半が一気に来るモノと相場が決まっている。
なのでリンシャンは、ココはたとえ気休めでもシュルシャを元気づけ、せめて昼の休憩時間までは持ち堪えさせるべきと判断した。
「ほら、顔上げなさい。話なら私が後で幾らでも聞いてあげるから。とにかく今は自分の仕事に集ちゅ――」
「ハッップシュ!」
だが、そうしてリンシャンがシュルシャを元気付けようとしていると、彼女の口から都合三度目のくしゃみが飛び出した。
「……アンタ、本当に大丈夫なの?」
「……」
シュルシャは一度「スン」と鼻を鳴らすと、今度は特に何を言い出す事もなく、何故かそのままじっと動かなく成ってしまった。
しかも、横から見たその顔付きはどこか深刻そうで、見ているリンシャンにもただならぬ雰囲気が伝わってくる様であった。
「なんなら今日はもう仕事休む? それなら私からミリーヤとゴルドに伝えておくけど……」
一度や二度ならまだからかう事の出来る範疇だが、三度目のくしゃみと成ると流石に体調の面が気に掛かる。
それによくよく考えてみると、先程からのシュルシャの様子は情緒不安定である様にも思えた。
日頃からコロコロと表情や態度を変える彼女だが、その大半は主に正の側である。
しかし今日の彼女は、明らかに負の側に感情が傾いてしまっている。
ひょっとしたら女性特有のモノとも思ったリンシャンだが、“鬼人”である彼女と“獣人”であるシュルシャとでは、その辺りの事情が大分異なっている。
なので詳しい事の判らないリンシャンは、シュルシャの体調を気に掛け取り合えずの早退を勧めたのである。
しかし――
「……ねぇ、リンシャン」
「なに?」
その時シュルシャから返って来た答えは、またしても彼女の予想しないモノであった。
「“三度目”は、何?」
「は? “三度目”?」
閑話だけどまだ続きます。




