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「あ……?」
それはまるで、部屋前での会話の続きの様だった。
気心知れた相手の筈なのに、まるで別人と思える程、俺にはコイツが何を言いたいのかが解らない。だが、『“枷”にしないでほしい』――その台詞を聞いた次の瞬間、俺は二の句が告げなく成った。
それでも俺は、何とか言葉を紡ごうと、泥の様に肺に溜まった空気を吐き出そうとする。
「…………俺、は……」
「ナ~ンちゃってニャー! 夜の時もそうだけど、柄にもなく説教臭い事を言ってしまったニャ~。いやー我ながら全然似合わない。ニャハハハハ!」
――その、突然の雰囲気の切り換えに、暫し唖然とさせられる。
「……おい」
「ほらレイドも、いつまでもそんな辛気臭い顔は止めるニャ。折角の門出なんだから、早くいつもの些細なボケも見逃さない、“突っ込みハンター”の目付きを取り戻すニャ!」
「誰が“突っ込みハンター”だコラ!」
いつの間にやら、思いっきり不本意な称号を授けられていた模様。
「あ、いや。寧ろレイドはボケ属性……」
「よし分かった。耳か尻尾かはキサマに選ばせてやる」
「へ。何するつもりだニャ?」
「“増やす”」
「増やすの! どうやって?」
「まず先端に縦の切り込みを入れてだな、そこから一気に――」
「ヤメテーーー!! それは流石に恐過ぎるニャーー!!」
(――ンで、結局はこうして、いつもの調子に戻るのか)
「ハァ~~……なんか馬鹿らしく成ってきた」
「ニャハハ。まぁレイドはそんなに深く考えず、好きな事を好きなだけやってくれば良いのニャ」
「好きなこと……」
その台詞を聞いた瞬間、不思議と胸にスッとした感覚が過ぎった。
深夜のシュルシャとの会話の後、胸の底に居座ったまま晴れずにいたモノが、冷水にでも洗われるかの様に解けて行く。
(ああ、そうか。俺は……)
「………そうだな」
「うん?」
「お前の言う通りだよ。ま、せいぜい楽しんで来るわ」
「うん。ソレが良いニャ」
そう言ったシュルシャの顔は、矢張り何故か自慢気だった。
「さてと、じゃあシュルシャはもう行くニャ。兎に角、身体にだけは気を付けてニャ」
――と、そこで俺は、一つの心残りに思い当たる。
「あ、ちょっと待った」
「何ニャ? まだ何かあるのかニャ」
「えっとな……お前、何か俺にして欲しい事とかないか?」
「へ? イキナリどうしたニャ?」
俺のその突飛な質問に、シュルシャの奴が目を丸くする。
「いやな。昨日“全身鎧”の奴に襲われた時、お前に助けられの思い出してよ。出来ればその時の借りを返しておこうと思ってな」
「ああ。そういう事かニャ。別に今じゃなくても良いんじゃないのかニャ?」
「当分帰ってこれねぇからな。出来る事なら、そういう後腐れしそうなモンはなくしておきてぇんだよ」
ま、あくまでも俺の精神衛生上の問題だ。返せる借りは、出来る事なら返しておきたい。
「成る程ニャ」
「あ、因みに今はモノも金も時間もねぇから、その辺は考慮してくれ」
「それで一体どうやって返すつもりニャ!?」
「そこはお前が考えてくれ」
「丸投げ!!」
多少条件がキツイとは思うが、逆に何の制限も設けなければ、コイツの事だ、どこまでも増長するのは目に見えてる。
〈黒羽〉の人気メニュー上位の食い比べだとか、値段の高い酒上から順に注文するだとか平気でやりかねん……あれ、食う事ばっかだな。
「それならレイドが帰ってきてからゆっくり決めるニャ!……と、言いたいとこだけど、もし帰って来なかったら貸し損に成っちゃうからニャ~」
「……止めてくれませんかね。そういう不吉なこと言うの」
縁起でもねぇ。ちゃんと帰って来るぞ俺は。
「う~ん。そうだニャ~~」
腕を組み、暫し思案するネコ娘。時間が経つにつれ、徐々に胸中に不安が募っていく。
「……よし。決めたニャ」
「お、おう」
一体どんな無理難題を吹っかけられのかと危惧し、思わず身構えてしまう――が、シュルシャの口から出た提案は、随分と意外なモノだった。
「じゃあ“ハグ”で良いニャ」
「……は?」
一瞬、俺の聞き間違いかと思ったが――
「だから“ハグ”ニャ“ハグ”。ぎゅ~~って。これなら時間もお金も掛からないニャ」
いや、確かにそれなら時間も金も手間も掛からんだろうが、つまりこのネコ娘は、俺に今この場で“自分を抱き締めろ”と言っているのか?
伺う様にシュルシャを見ると、本人は実に楽しそうな笑みを浮かべながら、両腕を広げこっち出方を待ち構えている。
それはまるで、獲物が自ら飛び込んで来るのを待つ、狩人の罠の様にも見えた……のだが――
「なんだ。そんなモンで良いのか」
「え?」
短く一考した後、俺は躊躇なくその罠の中に踏み込んだ。
腕を広げて立っているシュルシャにそのまま近付き、正面から背中に腕をまわして引き寄せる。
「ちょっ!! ふぇ!? うぇええぇえーー!?!」
耳元で、今迄聞いたコトのない奇声が上がった。
「うるせぇよ。ンな変な声出すな。コッチまで恥かしくなる」
「い、いや! でも! ま、まままさか、こ、こんな躊躇なく来るとはその、そそ想定外、な訳でして、ね?」
「いや……命を助けられた借りが、こんなんで返せるなら得だ――と思ってな」
「と、とと“得”ってぇ!?」
「取り合えず落ち着け。ハグくらいならもう何回もしてるだろーが」
「い、い一体いつの話よそれはぁ!」
シュルシャとは、それこそ子供の頃からの付き合いだ。なのでお互い小さい頃は、よくこんな事をした覚えが在る。
流石にデカく成るにしたがって殆ど――いや、全くと言って良い程しなくなったが、前にこうして抱き合ったのは……もう十年近く前の話だ。
「だいたいお前が言い出したんだろ。嫌なら止めるぞ」
「べ、別に……止めなくても………いぃ……」
「そ、そうか?」
ぼそりと呟かれたその言葉に、逆に俺の方が止め時を失う。
暫くすると、オズオズといった様子で、シュルシャの腕も俺の背中にまわってくる。
まぁ抱き合ってる以上、当然お互いの身体が密着する訳なんだが、そのせいで更に密着度が増す。
(……まずい。これは……想像以上かもしれん)
その時点で、俺は自身の考えの浅はかさを後悔する。
確かに子供の頃は、何も考えずバカみたいにお互い抱き合ったりしていた。なので、それなら今回も同じような感覚でやれば、そう相手を意識する事もないだろうと踏んだんだが……まさか、ここまで難敵だとは思わなかった。
(い、いやいや。落ち着け俺)
今俺の腕の中に居るのは、あの粗野で食い意地の張った、常にヒトの事を小バカにしようと企むネコ娘だ。幾ら見た目が良かろうと、その内面を軽視してはならん。寧ろこんな時だからこそ、外見より中身を重視した視点を持つべきなのである。
(けどコイツ……こんなに小さかったっけか?)
抱き締めたシュルシャの身体は、文字通りスッポリと俺の腕の中に納まっている。俺には、それが随分と意外な事の様に思えた。
コイツは只でさえ、キャラとしての存在感が際立つ奴だ。その為か、こうして抱き締めてみると、印象の大きさと実際の大きさとでかなりのギャップを感じてしまう。
細く、弱々しい――まわした腕に力を込めれば、その身を簡単に折ってしまいかねない程の、儚い印象まで抱いてしまう。
(い、いや、騙されるな俺!)
コイツがそんなか弱い存在じゃないって事は、俺が一番良く解っている。
「……ねぇ、レイド」
「ん、何だ?」
「もうちょっと腕……キツくして」
(なん……だと。コイツ!)
軽く抱き締めて終わる予定が、まさかコイツの側からそんな注文が出て来るとは思わなかった。
(だ、だがしかし、命を救われた借りがこの程度で返せると思えば)
正直、これ以上続けると色々と嫌な汗が出てきそうだが、ここは素直に言う事を聞いておく事にする。
「こ、これ位か?」
「ん。そんな感じ」
俺が注文に答えて腕に力を込めると、それに応じる様にシュルシャの腕にも力が篭もる。そしてコツンと、シュルシャは俺の右肩にその額を乗せてきた。
(こ、コレは……少々危険じゃなかろーか)
ただでさえ密着度が増していたというのに、更にそこに圧力が加わった。そのお陰で、それまでは成るべく意識すまいと考えていたコイツの体温とか柔らかさとかが、直接的にコッチに伝わってくる。
具体的には、ここ最近の本人が仰っていた、成長著しいらしき二つの“アレソレ”が、強烈な自己主張でもって俺にその存在を認識させる。
本人が一人で自慢する分には特に興味も湧かなかったが、こんな状態にまで追い込まれた以上、流石にその凶悪性を意識せざるを得ん……つか、コイツなんか変じゃね?
さっきとは打って変わって大人しいし、ポカポカしてて温ったけーし、口調も今迄聞いた事がないくらい優しげだし、何か良い匂いするし――いや、そもそもコイツ、さっきから語尾はどうした。どうして何時もみたいに“ニャーニャー”言わんのだ。
部屋前での会話の時もそうだったが、今は真逆の方向性で様子がおかしい。こんな様子のネコ娘を、俺は今迄一度も見た事が――
(……いや、在るな)
丁度、今みたいな様子のシュルシャを、俺は前に見た事が在った……アレは確か――
「あー……これはダメだなぁー」
「な、何だ。どうした?」
このままシュルシャに意識を向けていては危険と判断し、幸いにも湧いてきた疑問に思考を逃がそうと企んだが、どうやらこのネコ娘はそれすら許すつもりはないらしい。
「想像以上に居心地いい。癖になりそう……レイド、いつの間にかこんなに大っきく成ってたんだね……驚いた」
「そ、そりゃお前。お互いもう子供じゃねぇし……当然だろ」
耳の直ぐ傍で囁かれる台詞が、俺の頭に警鐘を鳴らす。
何か、シュルシャの様子が本格的におかしい。それに、俺の方もいい加減限界が近い。
(こ、これ以上はヤバイ気が……)
「な、なぁシュルシャ、そろそろ――」
止めよう。そう話しを切り出そうとして、背中にまわした腕から力を抜こうとしたのだが――
「…………帰ってきてね」
その小さな呟きが、引こうとする俺の両腕を押し止めた。
同時に、シュルシャがまわした腕の力が、また少しだけ増した気がする。
(コイツ……)
そこで少しだけ、子供の頃を思い出した。
今じゃ想像し辛いが、あの頃のコイツには今みたいな行動力なんてモンはなく、いつもオドオドビクビクしていたのを覚えている。出会って直ぐの頃は、この俺にすら警戒心剥き出し――と言うより、警戒心がそのまま人の形をして歩いている様な奴だった。
なんたって、まともに近付くのに一年近く掛かったからな。今じゃ笑い話で済ませられるが、当時はかなりの根気と忍耐を要求された。
それでもやがては徐々に馴れ、お互いに仲良く成る事が出来た訳なんだが、その頃の俺は、もう親父と一緒に近くの遺跡に潜る様に成っていた。
そして、俺達が町から出発する当日。見送りに来たシュルシャに、よく今の様に“帰ってきてくれ”と懇願された事を思い出す。
最近はそんな懇願はおろか、見送りすらされる事はなくなったが、その時の声色が余りに切実に聞こえた為、“必ず帰る”といった決意の様なモノを、子供ながらに持つ事が出来た。
「……当たり前だ」
「うん」
当然ながら、今迄その約束を破った事は一度もない。
俺が之から何処に行こうとも、どんなに危ない橋を渡ろうとも、最終的には此処に帰ってくる。その約束は今も昔も変わらないし、之から先も破るつもりはない。
“殻”だの“枷”だのは関係ない。俺が帰ってくる場所は、間違いなくコイツ等の暮らすこの〈メルトス〉だ。それだけは、どうやったって変えるつもりはない。
(お……?)
――ふと、肩に掛かる重みが消えた。
シュルシャが俺の肩に置いた額を持ち上げ、顔をこっちに向けるのが分かる。ソレにつられるようにして俺も顔を向けると、直ぐ目の前にあの金色の双眸が有った。
「あ――」
「……」
こうも距離が近くては、視線を逃がす事もまま成らない。
相手の瞳に映る自分を見る程に、俺達は互いの視線をぶつけ合う。
“黄金”には昔から、“魔性が宿る”と伝えられている。
等価値の量の銀や銅、他の宝石の類でもなく、何故かこの黄金は人の欲望を最も刺激する輝きを放つ。
黄金を巡って多くの人間が殺し合い、時には国すら滅ぼしかねない魅惑の輝き。一部の宗教じゃ、神さますら奪い合いの争いを起こしたらしい。
そんな“黄金の輝き”には、きっと人の心を惑わす悪魔が取り憑いているのだと、昔の人間はそう考えたんだろう。
かくいう俺も、その説を否定するつもりはない。
俺たち発掘者の間でも、お宝を発見した際その分け前で最も揉める確率の高いのが、この“黄金”って代物だからだ。
なので、もしかしたら今俺の目の前に在るこの金の輝きにも、人を惹きつける“魔性”が宿っているのかもしれない。
事実今の俺は、目の前に有るこの金の輝きから、まるで目を反らす事が出来ずにいる。
「……」
「……」
言葉はない。少し口を開けば、それだけで相手に自分の吐息が伝わる程の距離。
間を取ろうにも、互いの背中にまわした両腕と、目を通して俺の意識すら絡め取ろうとする金色の視線が、この場から離れる事を許さない。
身体の触れ合う箇所からは、相手の熱と鼓動が如実に感じられ、ほんの少しの身じろぎから湧き立つ髪の香りが、俺の思考を強力に削り取っていく。
やがて、黄金の輝きに潜む“魔性”に誘われる様に、只でさえ近い互いの距離が、更にその幅を縮め始める。
その先に一体何が待っているかなんて、考える思考はもう、俺には残されていなかった。
ゆっくりと、蝸牛にすら追い越される程の速度で、互いの顔が近付いていく。
距離が近付くにつれ、互いに伝わる熱が徐々に増し、早まる心臓の鼓動がどちらのモノか判らなく成る。
そして、潤みを増しながら徐々に細まるシュルシャの瞳が、俺の目前で完全に閉じられた時――
その奇麗な輝きを見れなく成った事が、ほんの少しだけ残念に思えた。
ルラール族は狩猟民族だ・・・あとは、わかるな?