14
◇◇◇
「や、やーっと着いたぁ……」
シュルシャと別れ、漸く当初の目的地に辿り着いた俺。
そんな俺の目の前に建っているのは、<黒羽>と言う一軒の酒場。
(なんか偉く時間が掛かったな)
その原因は、主に此処に来るまでに出会ったあの二人のせいだ。
予定ではもっと日の高いうちに来る筈だったのだが、時刻は既に空の色が薄く染まり始めた夕暮れ時。
目の前の店はまだ開店していないが、きっと中は開店前の仕込みで大忙しだろう。
(……出直した方がいいか?)
いや、折角ここまできたんだ。そんな立て込んだ用件でもないし、頼むだけ頼んでみよう。
まだ開店前なので正面からは入らず裏口へと回る。
隣の建物との隙間にある通路を通って建物の裏側に来ると、周囲は二階建て以上の建物で囲まれており、時間帯のせいもあって視界は一気に暗くなる。
何も見えないという程ではないが、注意していないと何か変な物でも踏んでしまいそうな恐怖感が在る……動物のウ○コとか。
人目に付く表通りとは違い、余り人の通らないこんな路地裏なんかは、そういった有象無象の吹き溜まりに成っている事が非常に多い。お陰で何度、履いていた靴が非業の運命を遂げた事か。
まぁ、この辺りはシノブさんがいつも掃除しているから、大丈夫だとは思うのだが……。
(でも、やっぱり明りがないと不安なんだよなぁ……)
過去のトラウマは、そう簡単に払拭できないからこそのトラウマであって……。
ガチャ
「お?」
俺がおっかなビックリ暗い通路を進んでいると、目的である裏口に辿り着く前にその扉が開き、中から木箱を抱えた女性が姿を現した。同時に、店の内側から漏れ出た光が薄暗い路地を明るく照らし出す。
どうやら木箱の中には空の酒瓶でも納まっているらしく、女性が扉の横にソレを置くと、中から空瓶同士のぶつかり合う音が響いた。
「よいショ、っと……アラ?」
木箱を置き、立ち上がって一息吐いた女性は、直ぐに通路に居る俺の存在に気が付いた。
「イセアさん」
「どうも、シノブさん。お疲れさまです」
手を上げながら近付く俺に対し、シノブさんは深々と頭を下げる。
“頭を下げる”とは言っても、俺は別に彼女の“主人”でもなければ“上司”でもない。なので最初の頃は馴れなかったが、どうも彼女の産まれた地方ではコレが一般的な挨拶らしい。
なんでも、相手の姿を完全に視界から外し、更に自身の死角である“後頭部”を晒す事によって、自分が相手に対し敵意がない事を示すのだとか。
その説明を聞いた時は、成る程なと納得したモノだ。
「どうしましたカ? まだカイテンはしていまセンよ」
「あ、いや、別に飯を食いに来た訳じゃないんです」
紹介しておこう。この<メルトス>の町で唯一、俺と同じ黒目黒髪の女性――名前は<シノブ・ミヤザト>
年齢は俺より二つ上の十八。
今言った通り、彼女の目と髪は俺と同じ黒色なのだが、実際には俺なんかよりもずっと綺麗な色をしている。
(なんて言うか、輝きが違うんだよな)
本来なら腰下まで在る長髪は後頭部できれいに纏められており、更に頭を包む様に巻かれている白いバンダナのお陰で今は見る事ができない。
もし普段通りに髪を下ろしてバンダナを外していたら、薄暗い路地にもハッキリと映える綺麗な黒髪を拝む事が出来ただろう。
黒い瞳は切れ長で鋭いんだが、顔の創りが全体的に丸いせいで雰囲気が幼く、柔らかい物腰と落ち着いた性格も在って威圧感なんて微塵も感じない。
ただ、それでいて何処か“威厳”の様なモノを感じさせるのは、ただの俺の贔屓目だろうか?
身長はシュルシャの奴より目線一つ分程低いのだが、内から滲み出る“風格”は、あの猫娘なんかよりこの人の方が数段上だ。
「フフ、わかってイますよ。おショクジでしたら、ワザワザウラグチにはこないでしょウ?」
「ええ。すみません、仕込みの忙しい時間帯に」
「イエ、かまいまセンよ」
そう言ってニッコリと笑ってくれたシノブさんの笑顔が、彼女の黒髪以上に映えて見える。
(ああ、癒される……)
普段の俺の生活で、こんな心安らぐ笑顔を見せてくれるのはこの人位なモノだ。
この笑顔だけで、わざわざ此処にまで来た甲斐が在ったというモノである。
なに? フール? アイツの笑顔も悪くはないが、俺が今求めているモノとは少し異なる。
“大人”の“女性”――矢張りココが大きなポイントだ。
「ソレで、ゴヨウケンのアイテはワタシですか? それとも――」
「えっと、じゃあ“マスター”呼んで貰えますか?」
「ハイ、それではスコシまっていてクダさいネ」
裏口の扉を開けたまま、シノブさんは店の中へと戻った。
出来る事ならもう少し話していたかったが、彼女にも仕事が在る。邪魔をしたら悪い。
「マスター、イセアさんがイラッシャイましたヨー!」
シノブさんが呼んでくれた人物が来るまで、俺は大人しく裏口で待機していよう。
(……そう言えば、シノブさんが此処に来てもう一年に成るのか)
俺がシノブさんと出会ったのは、今から一年ほど前。
“隣国”どころか“大陸”の外側。<ヒノモト>とか言う外国出身の彼女は、言葉や文字はおろか、右も左も判らない状態で突然この町へとやって来た。
(いや、“やって来らされた”? それとも“来てしまった”……か?)
まぁ、彼女がこの町に来た経緯は少し複雑なので割愛するが、そのまま放っておけば路頭に迷うのが関の山。
それに容姿も格好も色々な意味で飛び抜けていたので、いつ人売りに連れ去られても可笑しくない状況だった。
だから最初はフールのヤツ同様、俺の家に住んで貰おうかとも思ったのだが……流石に年頃の女性と一つ屋根の下と言うのは気が引ける。
なので、当時人手不足に悩んでいた此処のマスターに彼女を紹介し、住み込みの従業員として雇ってもらったのだ。
以来、彼女は言葉や文字の読み書きをマスターから教わりつつ、日々仕事に励む生活を過ごしている。
容姿端麗で努力家。辛い顔など少しも見せずにいつも笑顔を絶やさない彼女は、今じゃスッカリこの酒場の看板娘だ。
その結果、店には昔よりも格段に客足が増し、人手不足解消の為に雇った彼女のお陰で、更なる人手不足に陥ると言う逆転現象が発生していたりする。
そのため、たまに手伝いに来る俺の負担も同時に増してしまった。
これが自分で自分の首を絞める行為かと、少し後悔したことは秘密だ。
「……ん?」
なんて事を考えていたら、開いたままの裏口から漏れていた光が不意に途切れ、目の前がまた薄暗い状態へと戻った。
裏口の扉が閉まった訳じゃない。そこから出てきた人物の体が、その光を遮って俺を覆うほどの大きな影を作っただけだ。
俺がその影に反応して顔を上げると――
「ヌゥゥ~……」
まるで獣の様に喉の奥を唸らせながら、その巨体を支えるようドア枠に手を掛け、自分よりも小さな裏口に潜り込む様にして一人の男が出てきた。
“潜り込む”と表現したが、別に裏口のサイズが普通より小さいって訳じゃない。裏口はあくまでも平均サイズだ。
ただ、ソコから出て来るこの男の体格が、規格外にデカいと言うだけの話である。
「ハアァーー……」
まるで口から白煙でも上がりそうな熱い息を吐き出しながら、その人物はノッソリと俺の居る狭い裏路地へと完全に姿を現す。
その姿は筋骨隆々。胸板は広くぶ厚く、腹筋は起伏にとんだ鋼鉄そのもので、その重量感ある体を支えている二本の脚は、建物の基礎を支える大黒柱とそう変わりがない。
火を扱っている最中だったのか、体のあちこちに浮かんでいる玉の様な汗の幾つかが、剃り残しなど皆無のスキンヘッドから、これまた髭や眉毛まで完全に剃り落とした彫りの深い顔を伝い、終点である顎の先から地面へと零れ落ちている。
薄暗い路地裏に、裏口から漏れる光源を背にして立つ巨漢。
全方向に光を反射するハゲ頭同様に輝く鋭い眼光が、己よりも遥かに矮小な俺の姿を捉えると、その人物はユックリと体の正面を俺へと向けた。
(相変わらずデケェなおい)
何度見ても気圧されるその姿は、まるで野生のクマ――いや、狭い路地裏にピッチリと収まりそうなその体躯は、筋肉によって形成された巨大な“防壁”同然である。
この男に初めて出会った者は、皆その圧し掛かからんばかりの威圧感に自然と腰が引けるだろう。
頑固そうな厳つい顔に睨まれれば、子供は泣き出し大人なら三日三晩は悪夢にうなされる事になる。
だが、そんな恐々とした雰囲気の空間に、なんともそぐわない代物が存在している……ソレが、男の着けている“エプロン”だ。
この男は仕事柄、作業中は常に特注の大きなエプロンを身に着けている。
それだけなら特に問題がない様に思えるのだが、このエプロンはその柄が“白地”に“ピンクの水玉模様”。
男の厳つい顔付きや無骨な体格からして、似合わないなんてモノじゃない。まったくもって違和感丸出しの格好である。
しかも、その水玉模様のうち右下の一角にある一つだけは、“円”ではなく“ハート”の形をしているのだ。
巷の噂によると、そのハートを見付ける事が出来た者は皆一様に幸せに成れると言うのだが……まぁ眉唾だな。
(前に俺も偶然見付けたが、別に幸せになんか成ってねぇし……)
そして更にもう一つ、目に見えるモノではないのだが、この巨漢が抱えている超ド扱の違和感が――
「あンらぁ~! いらっしゃいレイドちゃ~ん!」
“コレ”である。
それまでの厳つい表情は何処へやら。
男は両頬を持ち上げ目尻を下げてニッコリ笑うと、脇をキュッと閉めて内股に成り、その巨大な体を器用にくねらせながら俺の方に近づいてきた。
男のその態度は、ある意味さっきまでの恐々とした雰囲気なんかより余程恐ろしい。
威圧感に腰が引けていた奴はそのまま腰が抜け、睨まれて泣き出した子供は一瞬で口を閉ざすだろう……。
もっとも子供の頃から、それこそ“赤ん坊”の頃からの付き合いが在る俺からすれば、このオッサンの“見た目”も“態度”も“オネェ言葉”も、特に違和感とは感じない。
むしろ当時は、逆に酒場のマスターは皆こんな感じなのかと、そんな途轍もない勘違いをしていた程だ。
成長するにしたがって徐々にこのオッサンが“特別”である事には気が付いたが……俺だって、子供の頃は純粋だったのだ。
「久しぶりマスター」
「本当よ~! いつ戻ってきたの~? 今回は随分と長く潜ってたじゃな~い」
この、デカくてハゲててマッチョでオネェ言葉のオッサンが、この酒場<黒羽>の“主人”――名前は<ソーヤ・キャベロン>
ここに来る途中で会ったあのエロジジィ、ゴルドの爺さん同様に俺の親父と古くからの付き合いで、俺とフールがよく世話に成っている件の酒場の“マスター”である。
因みに、遺跡内部に入って作業をする事を、俗に“潜る”と言う。
「戻ったのは昨日。詳しくは聴かないで、長く潜ってた割に成果が無くてね……少しへこんでんだわ」
「あらナ~ニ? それじゃあまたウチで働く? レイドちゃんとフールちゃんなら、ウチはいつでも大歓迎よ~」
「ああいや、ソレも絶賛検討中なんだけど、今日はまた別の用件できたんだよ」
「あら、そうなの~?」
空気の抜けるような高めの声色で、「残念ね~」なんて呟きながら小指を立てて悩ましげに“シナ”を作るマスター。
(……うむ、いつも通りの光景だ)
「それで、別の用件ってナ~ニ?」
「えっと、実はマスターにお願いがあってさ」
「何かしら? お金のむしん以外なら、聞いてあげなくもないわよ~」
「コレなんだけど――」
そう言って、俺は腰の後ろに差してある、例の“喋る短剣”をマスターに差し出した。
「あら~?……コレって確か、アナタのお父さんの物じゃなかったかしら?」
「あれ、マスター知ってたの?」
「ええ」
差し出された黒い短剣を受け取ると、マスターは確かめる様にまじまじと観察する。
すごいな。この人が持つと俺にとっての“短剣”が、ただの“ナイフ”にしか見えない。
「アナタが二歳――いえ、三歳の頃だったかしら。その時に何処かの遺跡から拾ってきたってアナタのお父さんは言ってたけど」
「俺が三歳の頃かぁ……」
(そら自分、覚えてないわ……って、あれ? もしかして――)
「えっとマスター、この短剣のこと、どれだけ知ってる?」
「え? どれだけって?」
「例えば、どれ位の“価値”が在るのか――とか」
「さぁ、詳しくは判らないけど~……アナタのお父さんは価値が在る、って思ってたみたいよ。随分と大切にしてたもの」
「あ、そうなんだ」
どうやら、マスターは親父からこの短剣の事を詳しくは聞いていないらしい。
(まぁそうだろうな)
説明した処でこんな“喋る短剣”なんて奇天烈な代物、俄かには信じられない。
仮に信じられたとしても、もしその話が周りに広まったりしようモノなら、一体どんな厄介事が自分や周りに降りかかるか解ったモノではないのだ。
話した相手がマスターならまだコッチも信用できるが、万が一って事も在る。
『人の心に情は在っても、人の口に錠はない』ってのは、あのエロジジィことゴルド爺さんの言だ。
「アタシにも持たせてくれなかったんだからソレ。ケチよね~」
「は、はは、そうだね」
思わず渇いた笑いが漏れる。
なんと言ってもコイツの声を聞く為には、直接この短剣の柄に触る必要が在る。
更に言えば、この短剣には莫大な価値が在るかもしれない……いや、確実に在る。
そんな代物をペーパーナイフ宜しく、おいそれと貸し出す訳にもいかないだろう。
だがそう考えると、俺、今からとんでもない事をしでかそうとしているのではないだろうか?
(な、なんか、今更ながらスゲー不安に成ってきた……いや、深くは考えまい……)
「あの人、戻ってきてないわよね? どうしたのコレ」
「え、あー……」
親父が家を出て行って以来、実はずっと俺が持ち歩いていたのだが、あの“偽の鞘”が剥がれたせいで大分見た目が変わってしまった。マスターが気付かないのも無理はない。
詳しく説明するとややこしい事に成るのは目に見えてるので、適当に話をでっち上げる。
「えっと、今回の発掘、時間を掛けた割りに結果が散々でさ……そう、本当に……散々だったんだよ……」
「そ、そうなの」
自分で言っておいてなんだが、その事実を再認識して改めて落ち込む……。
「――そ、そんで今日の朝! 気分転換に部屋の掃除してたらさ、親父の私物の中から“偶然”見付けたんだよ」
“偶然”の部分を強調してみる。実際そうだし。
長々と話して突っ込まれるとボロが出るかもしれないので、早々に本題を切り出してしまおう。
「んでマスター。コレ、暫く預かって貰えないかな?」
「え、コレを? アタシが?」
「うんそう。なんだったら芋の皮むきとかに使って貰っても良いから……いや、是非使って頂きたい!」
「う~ん、それは良いんだけどぉ……」
“良いけど”何だろうか? まぁ本当に唐突な頼みだから、当然詳しい説明を要求――
「お父さんのなんでしょう?」
されるのかと思ったが、どうやらマスターはこちらの考えとは別の事を気に掛けているらしい。
「ああ良いの良いの。親父の奴、出て行く際に“家に残した物は好きに使え”って言ってたし」
「そうじゃなくて~、もしかしたらあの人の“形見”に――」
「……」
「……」
そこまで言って、俺とマスターとの間に暫しの沈黙が横たわる……そして――
「成らないな」
「成らないわね」
互いに同じ結論に辿り着く。
流石はマスター。伊達に俺以上に俺の親父と付き合っている訳ではない。
つか、親父との音信不通が続いてもう五年以上に成るが、俺を含め親父の事を知っている連中は、誰一人としてアイツが野たれ死んでいるとは欠片も思っていない。
だがそれは、“アイツは生きている”と信じられているのではなく、寧ろ“アイツが死ぬのか”と疑われていると言った方が正しい。
「ま、まぁ良いわ。そう言うことなら、遠慮なく使わせて貰うわね~」
「うん、お願い。あ、それからソレ、異様に切れ味が良いから気を付けてね」
「分かったわ~。で、何時まで預かってれば良いのかしらん?」
(あ、期間考えてなかった)
「そうだな~……五日間くらい?」
短いだろうか……まぁいい、足らなければ延長すれば良いだけの話だ。
「あ、そうそう。その柄に巻いてある布、それ“絶対”に解かないでね」
「これ?」
「そうソレ。“絶対”だからね」
「絶対に?」
「“絶対”に」
「どうして?」
「えぇっとぉ……」
まぁ、ここまで念を押せばそりゃあ気にも成る。だが、コレだけはちゃんと伝えておかなければ成らない。
(でないとコイツが喋るって事がばれるからな)
「――聞かないで貰えるとありがたい」
「ふーん……ま、レイドちゃんが持ってきた物だし、そう妖しい物でもないでしょ」
気を利かせてくれたのか、マスターは俺の曖昧な台詞に無理に言及してくる事はなかった。
(御免なさい! モノ自体は滅茶苦茶妖しい代物です!!)
――とは口に出さないでおく。
どうしても自分の中で騙している感が拭えないので、一応心の中では詫びを入れつつ土下座もセットでしておく事にする。
まぁ、物は妖しくても危険は無い筈だ。大丈夫だろう……たぶん。
「了解したわ。別に皮むき以外に使ってもいいのよね?」
「そりゃ構わないけど……折らないでよ」
「レイドちゃ~ん? アタシを何だと思ってるの~?」
「う、うそうそ! 信用してますって!」
(だからその暑苦しい顔を近づけるのは止めて頂きたい!)
しかし、今の発言とこの人の太い腕を見ていると、“或いは”とも思えてしまう。
まぁこんな太い腕をしていても、仕事は豪快かつ繊細にこなす人だ。大丈夫だろう……たぶん。
「用件はそれだけ? まだ仕込みの途中なのよねぇ~」
「ああゴメンゴメン。用事はそれだけ」
「そう。もう直ぐお店開くけど、ご飯食べていく?」
「いンや、今日は帰るよ。今頃フールの奴が夕飯の支度してるだろうし、此処で食ったらアイツにヘソ曲げられる」
そもそも食ってくだけの金が無い。此処なら幾らかのツケは利くが、返す当てがないうちはギリギリまで世話には成りたくない。
「あら、相変わらずフールちゃんには優しいのね~。少し妬けるわぁ~」
「いや別に妬かなくて良いから」
(この人も一体何を言っているのか?)
フールに嫉妬するのもオカシイが、そもそもそんな事に嫉妬を募らせるこの人自身もオカシイ。
大体、それだと俺がフールに“だけ”優しいみたいな言い草ではないか……失敬な、俺は基本誰にでも優しい。
だた、俺の周りにはアホな事ばかりぬかす連中が多いので、厳しくなる事が多いだけだ……俺は基本優しい。
「それじゃあアタシ、もう戻るわね」
「ありがとうマスター、こんな忙しい時間に」
「いいのよ~、レイドちゃんの頼みですもの~。その代わり、またお店手伝ってちょうだいねぇ~」
「了~解。また食うに困ったらバイトに来るよ」
(ま、そう遠くない未来だとは思うが……)
「お願いネ~ン」
するとマスターは俺に手を振って、出てきた時同様に潜り込む様にして裏口から建物の中へと戻って行った。
その際、子供の腕程の長さの在る“ある物”が二つ、タンクトップを来た彼の背中から生えているのが見えた。
「じゃあねレイドちゃん。ムッチュ!」
パタン
最後の最後。扉の隙間から放たれた暑苦しい投げキッスを首を傾けて回避すると、裏口の扉は完全に閉じられ周囲は再びの薄闇に包まれる。
「……ふむ」
(マスターはアレだよな、決して悪い人じゃないんだが……)
見た目に反し、マスターは気が利くし話の分かる人だ。
怒ったり仕事の最中でなければ優しく気の良いオッサンなのだが、残念な事にその存在自体がとにかく“濃い”。
しかも、マスターは“常人”でなければ“巨人”でもない。〈ラルファ〉族と言う背中に翼の生えた“翼人”だ。
実際に、先程マスターが店の中に戻る際にも、その背中に子供の腕程の長さをした“翼”が生えているのが見えた。
身体の大きさに比べて随分と小さい翼なので偽物の様に見えるが、アレは間違いなくマスターの背中から直に生えている。
(ガキの頃は、アレに掴まってよく遊んだりしてたなぁ)
御伽噺に出てくる様な“天使”とは違い、空を飛ぶ事は出来ないらしいが、シュルシャの様な〈ルラール〉族同様、他の種族にはない特殊な能力を持っている。
ただ、どうやらその能力の強さは翼の大きさに比例するらしく、マスターくらいの翼の大きさでは、殆どその能力を発揮する事が出来ないのだという。
因みに、〈ラルファ〉族は皆が皆マスターの様な筋肉質だったりはしない。
寧ろ全体的には細っこい連中が大半で、あそこまでゴツく巨大な肉体を持っているのは少数――と言うか、他の種族でもマスターみたいなマッチョ、俺は見た事がない。
彼のあの体型は、あくまでも本人の努力の賜物だ。そこいらの発掘者や傭兵なんかより余程逞しい……なんで酒場のマスターなんかやってんだあの人?
(“オネェ言葉”を喋る“巨大”で“厳つい”“マッチョ”の“ハゲ天使”……おまけに酒場の“マスター”に“水玉エプロン”ときたモンだ……)
改めて考えると、何だかそれだけで胃がもたれそうに成る。
キャラが“濃い”なんてモノじゃない。最早“濃厚”を飛び越えた“特濃”である。
(いやホント、途中で会ったあの二人が霞んで見えるわ)
「……よし、帰ろ」
踵を返し、来た道を戻る俺の頭上では、既に幾つかの星が瞬き始めていた。




