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まぁなんだ、これが俺の冒険譚だ。  作者: TSO
第一章 〈光の花〉と〈闇の宝玉〉
14/75

13

 ◇


「オーイッ」

「うン?」


(今、誰かに呼ばれた様な……)


「おーい。イセアー」

「あ――」


 爺さんと別れ、再び目的地を目指して歩いていると、遠くの方から知り合いに声を掛けられた。


(って、今度はアイツか)


 其処には昨日、〈黄金の瞳〉の受付で会った猫耳が特徴的な赤毛の〈ルラール族〉――シュルシャの奴が居た。


 既に昼休みも終わり、本来なら今頃あの受付に詰めている時間帯の筈なのだが……。

 まぁ、此処にまで来た理由には大体察しが付く。少なくとも、サボりじゃない筈だ。


(ああ見えて、仕事はシッカリとこなす奴だからな)


 大きく手を振りながらコッチに歩いてくるシュルシャに、俺も小さく手を振り返す。


「丁度良かったニャー。コッチの方に――」

「ああ皆まで言うな、爺さんなら向こうの路地に居る。相も変わらずお盛んだったわ」

「あー、ヤッパリそうだったかニャー」


 そう言うと、シュルシャは疲れたような呆れたような表情を浮かべ、カリカリと頬を掻いている。


「あのジーチャン“獲物”の気配を察知して巧みに“釣り場”を変えるからニャー。毎回探し出すのに苦労するニャ」

「ご苦労さん。つか、自分の所の“ボス”の手綱くらいシッカリ握っとけよ」

「その手綱担当のミリーヤが今日はお休みなんだニャ。だから今日は他の娘達と連携して全員で見張ってたんだけど……見事に逃げられたニャ」


(本当にどうしようもねぇ爺さんだな……)


「へぇ、ミリーヤさんが休むなんて珍しいな……で、お前が探しに来たと」

「そうニャ。まったく、シュルシャは忙しいって言うのに。ハァ……」


 流石のコイツもあの爺さんの相手は疲れるらしい……まぁ気持ちは分かる。


「お疲れさん。しかしお前、その格好で出てきたのか?」

「ニャ?」


 今のシュルシャの格好は、昨日〈黄金の瞳〉で見た時と同じ――つまり受付嬢の“制服”を着たままの格好だ。

 普段なら制服を着るのは職場である〈黄金の瞳〉の敷地内だけで、外出する際は着替えるか支給されている専用のローブを羽織るものなのだが……コイツ、横着しやがったな。


「お前って基本そういう処が緩いよな。ローブぐらい羽織って来いよ」


 見ろ。さっきから通り過ぎる男共が、嬉そうな視線を無遠慮にこの猫娘に向けているではないか。

 この辺りの治安はまだ良い方だが、今のコイツの格好は町中を悠々と歩き回るようなモノではない。

 大人にとっては役得でも、子供にとっては目の毒だ。


(でもまぁ、コイツもある意味で有名人だからな)


 褒められた格好ではないが、この町でコイツ相手に直接手を出すようなバカもそうは居ない。

 居るとしても、バカ以上の大バカであるアイツ位なモノだろう。

 だがまぁ、“もしも”と言う場合も在るので、一応忠告はしておく。


「お、お? おお~~!?」


 すると、突然シュルシャの奴が顔にニンマ~なんて嫌らしい笑顔を貼り付けて、俺の方に擦り寄ってきた……なにか、嫌な予感が。


「なんニャなんニャ~? 漸くイセアもシュルシャの魅力に気が付いたのかニャ~?」

「は?」


(何を言い出すんだこの猫娘は?)


 〈黄金の瞳〉の受付嬢が着ている制服は、基本的に白と黒の二色。

 そこに赤色と青色のラインや模様が控えめに画かれており、カラーリングに関しては特に目立った処は無いのだが……問題なのは、その制服のデザインだ。


「まぁそれも仕方ないかニャ~、最近のシュルシャは成長著しいし」


 服は体のラインが出るフィットなワンピース。

 腕や足は長い手袋やソックスで覆われているので、肌そのモノの露出は比較的少ないのだが――


「出る所は出て、引っ込む所は引っ込んできたからニャ~」


 引き締められた胴体部分は必要以上に着用者の胸部を強調しており、胸元は大きくV字にカットされている。

 しかもただのV字カットではなく“逆”V字カット――すなわち、“上側”ではなく“下側”が末広がりで開いている為、胸の谷間が丸見えなのである。


 更にスカートの丈も股下ギリギリのタイトミニ。

 そんな状態でスリットまで入っているもんだから、見ているコッチとしては危なっかしくて仕方がない。色々な意味でハラハラしてしまう。

 ついでに言うなら、スリットが入っているのはスカート右側の片方だけときてる……胸といいスカートといい、一体何なんだこの拘りは?


 ――因みに、全てあのエロジジィの趣味である。


(あのジジィ、一体自分の職場を何だと思ってるんだ? 娼館にでも変える気か?)


「いやー、シュルシャも罪な女に育ったニャ~」


 〈黄金の瞳〉の受付嬢はシュルシャを含めて五人。

 その全員が同じ制服を着ており、しかもどの娘も“若く”て“綺麗”で“可愛い”の三つが揃っている。

 なので、〈黄金の瞳〉の待合所には暇を持て余した発掘者の野郎どもが、常にたむろしている状態だ……。


(アイツ等、仕事もせず口説く度胸も無いならとっとと帰らんモノか)


 真面目に通っているコッチとしては邪魔で仕方がない。

 前にシュルシャがやった“見せしめ”の為、セクハラ関連の騒ぎを起こすような輩は随分と少なくなったが、それでも完全になくなった訳じゃない。

 要らない火種にしか成らないと思うのだが、あのジイさんは今の方針を変えるつもりは無いらしい。


(本当に何を考えているんだか……)


「ああでも、イセアにはもうフールという相方パートナーが居るニャ。浮気や不倫はいけないことニャ」

「……お前はさっきから何を言っているんだ?」


 一人で勝手に喋り始めたシュルシャは、胸を反らしながら腰を捻ったり、一人で納得してウンウン頷いたり、急に俺から顔を背向けて悩み始めたりと、さっきから良く解らない謎の行動を繰り返している。

 見ている分には退屈しないのだが、何やら発言に不穏なモノが混ざってないか?


「だけど、もし、イセアがどうしてもって言うなら……一回ぐらいなら……良いニャよ」

「……は?」


(何が?)


「そうと決まれば! ささ、遠慮することないニャ。大丈夫、フールには内緒にしておくニャ」


 そう言ってシュルシャは片目を瞑り、自分の胸下で腕を組むと、その成長著しいらしい二つの膨らみを俺の前に差し出すように突き出してきた。


(……え? なに? どういうこと? 何で俺がコイツの胸を揉むみたいな流れに成ってんの?)


 展開が突飛すぎて全く付いて行けないんだが……。


 取り合えず、俺は差し出された二つの膨らみを見下ろしてみる事にする。


 本人の言う通り、確かに最初に出会った五年前の頃と比べれば、ソレは随分と育っているように見える。

 残念ながら――いや、別に残念じゃないんだが、俺には見ただけで相手の胸のサイズが解る特技などない。

 なので詳しくは解らないが……まぁ、中の大って処じゃないのか?


 ただし、コイツとは仕事柄会う機会が割りと多く、仮に仕事で会わなかったとしても、外食はお互い同じ店を行き付けにしているので、この町に居る間はしょっちゅう顔を合わせている。

 なので、そういう微妙な成長の変化なんかは、お互いに気が付かない部分が比較的多い。

 付き合いが長い分、逆にお互い気が付かない部分も多いのだ。


 そうやって改めてシュルシャの成長を確認した後、今度はその上に在る顔に視線を移す。

 軽く俯いた顔からはいつものイタズラっぽさは感じられず、その頬は褐色の肌の上からでも判るほど紅色に染まり、上目遣いの潤んだ瞳は、ただジッとこちらの反応を伺っている。


 ……なんて事が、この猫娘に限って在る筈も無く。


「ホレホレー、こんな美人さんのオッパイに触れるチャンスなんて滅多にないニャよ~」


 寧ろ、その顔に浮かんでいるイタズラっぽさはいつもの三割増し。

 何かを期待しているように開かれた金色の瞳は、潤んでいると言うよりはランランと輝いている。

 どこをどう切って見ても、しおらしさや恥じらいなんてモノは一切見受けられない。

 俺には解る、ありゃただ純粋に楽しんでいるだけだ。


「右が良いかニャ? 左が良いかニャ? あんまり迷ってないで男ならバシッと! ビシッと決めるのニャ!」

「……」

「……ハッ! それともまさか両方同時にかニャ!? ニャる程、レイドって意外とムッツリさんだからニャ~」


(あ、イラッとした)


 勝手に盛り上がるシュルシャ尻目に、俺は下げていた両手をユックリと持ち上げる。


「や、やっぱり両方かニャ!? まさか、イキナリ両方の初めてを奪われるコトに成るとは……」


 そのまま両手を頭上まで持って行き、手の平のシワとシワを合わせて合掌すると――


「で、でも、良い女に二言はないんだニャ! シュルシャも腹を括ったニャ! さあ! どっからでも掛かって――」

「ていッ」


 デシンッ


「ニ゛ャウッ!?」


 それを目の前に生えている三角耳の中間、シュルシャの脳天目掛けて垂直に振り下ろした。


「あうぅ~~……」


 伏せた耳ごと頭を押さえて、シュルシャはヘナヘナとその場にしゃがみ込んでしまう。


「ってコラコラ! そんな格好でしゃがむんじゃない!」

「ぐえっ」


 俺は慌てて後ろ襟をひっ掴むと、無理矢理シュルシャを引き立たせる。

 まったく。そんな格好でそんな姿勢をしたら、遠くから色々と見えてしまうではないか。


「うぅ……レイド酷いのニャ。イキナリ何するんだニャ~?」

「お前がさっきからアホな事ばっかり言ってるからだ」

「アホなことなんて言ってないニャ。ただシュルシャは、シュルシャの魅力に気付いたレイドに、白昼堂々オッパイを触らせてあげようかなと――」

「そ・れ・が、アホなことだと言っとるんだ!」


(何なんだコイツは? 俺と会うと必ず俺をからかわないといけない病でも患ってるのか? それにしたって体張りすぎだろ)


 これでもし俺が悪ノリして、本当にコイツの胸を揉んでいたらどうする気だったのか。

 どうせ俺ならやらないと踏んでいるのだろうが、俺も男だ、“気の迷い”っていうモノが無いとも限らない。


「ハァ……ほれ、いい加減バカやってないで、とっとと爺さん迎えに行け。このままだと第二第三の被害者が出るかもしれんぞ」


(ま、一応“予防線”は張っておいたつもりだが……)


 アレなら余程の物好きでもない限り、あの爺さんに進んで関わる奴なんて居ないだろう……恨むなよ爺さん。


「そうするニャ。流石に少し遊びすぎたニャ」


 シュルシャは表情と態度をコロッ改めると、何事も無かったかの様にいつもの調子を取り戻した。

 伏せられていた二つの耳も、普段通りピンと上を向いている。


「じゃ、シュルシャはもう行くニャ」

「おう。気を付けてな」

「そういえば、レイドはこれから何処に行くんだニャ?」

「ん、ああ。〈黒羽〉に行こうと思ってな」

「まだ開店してないニャよ?」

「良いんだよ、別に飲み食いする訳じゃねぇし」


 あの店は最近のインフレに真っ向から立ち向かっている為、他の店よりは財布が痛まずに済む。

 だが何度も言うように、現在の我が家の家計は深刻な経済難を迎えている。

 今は外食等は避け、家でひっそりとした節約生活を送るべき時期である。

 仮にツケが利いたとしても、それを返すあてがない内は極力お世話には成りたくない。


 もしも払えなかった場合、あの苛烈な強制労働が待っている。それは勘弁願いたい。


「あんまりシノブを困らせたら駄目ニャよ」

「何で俺がシノブさんを困らせないといけねぇんだよ」


 それに、今回用事が在るのは店に居るもう一人の方だ。


「それなら良いニャ。じゃ、シュルシャは本当にもう行くニャ」

「ああ、じゃあな」

「ばいばいニャ~」


 そう言って手を振りながら去って行くシュルシャ。だがその途中――


「あ、レイド」

「ん? どうした?」


 ふと立ち止まったシュルシャが、その横顔だけを俺に向けると。


「“本当に触っても良かったんだよ”」

「ッ!?」


 一瞬息が詰まった。


 小さく歪められた口角と、薄く開かれた瞼の下から覗く金色の光が、何故だがいつもよりずっと妖しく感じられた。

 その横顔しか見る事の出来ない表情が、いつもの明るく能天気なモノと余りにも掛け離れていたモノだから、一瞬、コイツが誰かと疑った。


「なーんてニャ! 冗談だニャ冗談。だいたいシュルシャのオッパイは、そんなに安くはないのニャ」

「ッ! てめっ……! 本当にそのヒゲ引っこ抜くぞ!!」

「ニャハハ! ばいニャー!」


 そしてシュルシャは特に焦る様子も見せず、腰から生えた長くて赤いシッポと、同じ色の三つに編んだ長髪を揺らしながら、爺さんが居るであろう路地の方へと歩いて行った。


「ハァ……ったく、あのバカ猫め」


(柄にもなく変なこと言いやがって。少し焦ったじゃねぇか)


 そう、突然いつもと違う態度を取られたモノだから、ただ単純に驚いてしまっただけだ。それ以外の何者でもない。

 だから俺の心臓よ。いい加減騒ぐのは止めて、少し落ち着いては貰えんだろうか?


(やれやれ。なんで俺の周りに居る連中はドイツもコイツも……。これから“あの人”にも会わなきゃならんって言うのに)


 猛烈に家に帰りたくなってきたが、目的の場所はもう直ぐそこだ。流石に此処まで来て引き返しては、これまでの苦労が報われない。

 当初の予定ではこの短剣を目的の場所まで持って行くのに、ここまで面倒な事にも精神的な疲労を負う筈でもなかったのだが……。


(なんだか最近の俺、運が異常に悪くないか?)


 気のせいだ……と、今は取り合えず自分にそう言い聞かせておく。




 ◆◆◆


 レイドと別れた後、シュルシャはレイドから教わった路地の一角で、目的の人物であるゴルドの姿を発見した。

 彼は路地に置かれている木箱に腰を乗せ、特に何をする様子もなくその場に留まってる。


「お、ホントに居た。おーい! ジーチャーン!」

「……」


 シュルシャが声を掛けるも、しかし老人からの返事は無い。


「ニャ……?」


 感じる違和感に首を傾けるシュルシャ。


 ゴルドはその見た目や年齢の割りに、目や耳に未だ衰えを感じさせない老傑である。

 シュルシャとゴルドとの間には多少距離が在るものの、その程度の距離で彼女の呼び声が聞こえていない筈がない。

 仕事場を抜け出したこの数時間で一気に耄碌もうろくした、と言う可能性も否定は出来ない。

 だが寧ろこの老人に限って言えば、黙って仕事を抜け出した気まずさから、聞こえないフリを決め込んでいると考えるのが妥当であろう。


 しかしそうすると、未だ逃げる事なくその場に留まっている状況に違和感を覚える。


(観念した?)


 この老人にしては随分と珍しい話だが、それならばそれで問題は無い。


 何時ものように何やかんやと駄々をこねられては、折角見付けても連れて帰るまでに無駄な時間が掛かる。

 そう成れば、その分彼女もこの老人も、職場を抜け出している間の仕事が滞ってしまうのだ。

 シュルシャ自身はこの老人の“趣味”を咎めようとも戒めようとも思わないが、それが原因で仕事に支障を来たすのは頂けない。


「ジーチャン?」

「ん……おお、シュルか。どうしたんじゃこんな所まで」


 シュルシャが直ぐ傍まで近付いて声を掛けると、ゴルドは漸くその顔を彼女へと向けた。

 どうやら何かを熟考していたらしく、先程のゴルドの反応は聞こえないフリを装っていた訳ではなく、本当に聞こえていなかったのだとシュルシャは悟る。


(……おかしい)


 いつもなら、例え書類の確認中だろうと会談の最中だろうと、見えていない様な所を見て、聞こえていない様な音を聞くのがこの老傑である。

 それは、普通の人間以上の感覚を持ち合わせると言われる獣人のシュルシャですら、舌を巻く事がある程だ。

 そんな人物が、自分の名前を呼ばれた事にすら気が付かない。その事実にシュルシャは一瞬、ここへ来た自身の目的すら見失いかけた。


「……“どうした”じゃないのニャ。まーた勝手に抜け出して“女釣り”かニャ? 少しはシュルシャ達の苦労も考えてほしいニャ」

「そうじゃな、スマンかった。さて、そろそろ戻るとするかのぅ」

「わ、分かればいいけど……」


 特に言い訳をするでもなく、ゴルドは素直に木箱から腰を持ち上げると、呆気に取られるシュルシャの横を平然と通り過ぎて行く。


「ム。お主、まーたその格好で出てきたのか? 横着しおって」

「ニャ、ニャハハ~……」

「いつも言っとるじゃろ、女なら自分の値は何処までも吊り上げておけと。わざわざ自身の値を下げる様な真似をするでない」

「わ、分かってるニャよ~」


(……やっぱりオカシイ)


 老人がいつも見せる、イタズラが見付かった子供のする様な見苦しさは何処へやら。

 ここまで来るとシュルシャの内心では、老人が何かを企んでいるのではという“疑惑”より、体の調子でも悪いのかという“心配”が先に立ってしまう。

 自身より背の高い杖を突いて歩く老人の隣に並びながら、そんな不安に駆られたシュルシャが老人へと声を掛ける。


「さっきレイドと会ったけど……何かあった?」


 先程レイドから聞いた話によると、老人の様子はいつも通りであったらしい。

 ならば、この老人が今の様に成った原因は、レイドとゴルドが別れてからと言う事に成るのだが……。


「まぁ、の……在ったと言えば在ったんじゃが……」


 ――と、なんとも曖昧な答えが返ってきた。


 この老人が此処まで返事を濁す事もまた珍しい。

 いつもならば、仮にソレが嘘を誤魔化すための方便だろうと、説明の難しい内容であろうと、この老人なりに出した答えが返ってくる筈である。

 今の様に答えの出ないまま――未だ答えに迷ったままの返事をする事など、この老人には滅多にない事態であった。


「ジーチャン?」

「まぁしかし、幾らワシが気を揉んだ処で、結局はあの親子の問題じゃからのぅ……シュルよ」

「は、はいニャ!?」


 やがて自らの内で答えを導いたのか、遠くを見詰めながら歩いていたゴルドがシュルシャに声を掛ける。

 いつもとは様子の違う老人からの不意の呼び掛けに、シュルシャの背筋と耳がピンッと伸びる。


「戻ったら一つ頼まれてはくれんかの?」

「それは良いけど……なんニャ? そんなに改まって」


 シュルシャの目の前に居るこの老人は彼女の“恩人”であり、同時に彼女は老人の“部下”である。

 規則や規律うんぬんを抜きにしても、この老人に頼まれればまず彼女がその頼みを断る事はない。

 無論、それはゴルドも十分に承知している。それでも尚そう改まっての“頼みごと”と成れば、自然とその内容の重要度の高さが伺える。


「“手紙”をな、出して貰いたいんじゃよ」

「……それだけかニャ?」

「ああ」

「これから書くのかニャ?」

「いや、もう用意は出来ておる」

「“お気に入り”を使っても良いかニャ?」

「うむ」


 “たかが手紙”――などという発言はしない。


「了解したニャ。戻ったら直ぐに取り掛かるニャ」

「頼む」


 これまでの流れから、それがただの手紙でない事など明白。故に内容も宛先の追求もしない。

 後はただ粛々と、彼女は自らに課せられた責務を全うするのみ。そこに疑問の余地もなければ、己の意見を挟み込む猶予すらもない。


「まぁソレは別に良いんだけど……ねぇジーチャン」

「何じゃ?」


 だが、今この場で一つだけ、シュルシャがゴルドに想う処が在るとするのならば、ソレは――


「……少し臭うニャ」

「……」


 すると、それを聞いたゴルドの足がピタリと止まる。そして思い至る――今迄、自分が一体何処に居たのかを……。

 そして、ソコに何が捨てられていたのかを……。


「…………戻ったら、先ずは風呂にでも入るかのぉ」

「だニャ」


 こうして、二人は互いの間に微妙な距離を設けつつも、自分達の仕事場である〈黄金の瞳〉へと戻るのであった。


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