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09|お前だけの理

 ――フィオル? だいじょぶか?


 どこか遠くで、声がした。


 ――フィオルー! 夢語りしよーぜ!


 明るくて、まっすぐで、少しだけ騒がしい声。


 ――フィーオルー! 置いてくぞー!


 僕を呼ぶ、その声は。


「……ロイ?」


 呼んだ瞬間、景色が立ち上がる。僕は訓練学校の廊下に立っていた。石造りの長い廊下。冬の朝みたいに冷えた空気。窓から差し込む薄い光。

 これが夢だということを僕はすぐに理解した。


 五年前の僕が小さく肩をすぼめ、深くフードを被って、下ばかり見ている。杖を握りしめている手は震えていた。目の前には、腕を組んだ四角い顔の教官。そのまわりを取り巻くように、同い年の男子が三人立っていた。


 四人は見下ろすような目で、五年前の僕を見ている。


「加護なし」


 その声が、石壁で冷たく跳ね返る。


「おちこぼれ」


 別の声が重なる。


「魔法も使えないくせに」


「なんで学校にいるんだよ」


 罵る声は止まらない。

 ひとつが終わる前に次が飛んできて、僕――いや、五年前の僕の身体は、それに合わせて小さくこわばっていく。


 僕は、その少し離れた場所から、見ていることしかできなかった。やめて。と言いたいのに声が出ない。あの時の僕も、今の僕も、ただそこに立ち尽くしているだけだった。


 けれど、次の瞬間、笑い声がふっと遠ざかった。


 石の廊下がにじむと誰かの声が、別の場所から重なる。


 ざわめき。靴音。木剣のぶつかる乾いた音。気づけば、景色は演習場へ変わっていた。


 高い天井。広い床。奥に並ぶ木人形。忘れもしない魔導士と騎士の合同訓練の日だった。


 五年前の僕が、演習場の中心に立たされている。

 詠唱の言葉なんてひとつも知らない。加護のない僕には、魔法なんて使えない。


 周囲には、冷たい笑いと目線が集まっている。


 震えている五年前の僕の前に、ロイが立っていた。


 黒髪の短い髪。少し生意気そうな尖った目。片頬の絆創膏。木剣を握る手に、迷いはなかった。そして後ろに立つ五年前の僕へ向けて、にかっと笑った。


「お前が魔法を唱えられる日まで、俺が守ってやる。だから前は任せろ!」


 その声で、胸の奥が熱くなる。


 そしてロイは木剣を天井高く突き上げた。


「魔導士は言葉に力を込める」


 その言葉が響いた瞬間、夢の中の僕も、五年前の僕も、同時にはっと息を呑んだ。


「ならばその言葉が絶えぬよう」


 ロイの声は、真っ直ぐだった。

 幼いのに、不思議なくらい揺らがない。


「騎士は剣で守り抜く」


 その宣言が、演習場いっぱいに落ちたとき、五年前の僕の指が、杖を握りしめた。震えていたはずの身体が、ほんの少しだけ前を向く。


 そして、唇が開いた。


「……蒼き白光(びゃっこう)よ――」


 その詠唱に、僕は胸を突かれた。

 忘れたことなんて、一度もなかった。けれど、こうしてもう一度目の前で聞くと、それが本当に僕の声だったのかさえ、わからなくなる。

 だけど確かに、五年前の僕は、ついさっき僕が唱えた詠唱と同じ言葉を放っていた。


 詠唱が紡がれた次の瞬間、杖先から、蒼い光が解き放たれる。


 やわらかい。だけど、鋭い光だった。

 水面に差す朝の光みたいに透きとおっているのに、真っ直ぐに世界を貫き照らす強さがあった。蒼い閃光は演習場を走り、轟音とともに木人形を砕く。


 光が引いたあと、そこにはただ、驚きに息を呑む生徒と、四角い顔をポカンとさせた教官。そして、砕けた木片だけが残っていた。


 そしてロイが、振り向いた。

 へへっと笑って、まるで自分のことみたいに得意そうな顔で。


「へへっ! フィオルは俺がいればなんでも出来るんだ! なっ?」


 その顔が、あまりにも眩しかった。


「よくやったな! フィオル!」


 ロイの声が重なる。


「フィオルー! お前だけの第六の理力ってことだな!」


 その言葉に、演習場の景色が薄れていく。

 床も、木人形も、教官も、生徒たちのざわめきも、夕暮れの色へほどけていく。


 次の景色は、夕方の街並みだった。


 石畳が茜に染まり、家々の窓に灯りがともりはじめている。ロイは手を振るとその街並みへ向かって、何のためらいもなく走っていった。


 僕は思わず手を伸ばしたが、五年前の僕は、その背中へ向かって笑いながら手を振っていた。

 あの頃の僕は、まだ知らなかったのだ。この笑顔の先に、もう手が届かない未来が待っていることを。


「ロイ……!」


 声が、掠れる。


 ロイは振り返らない。

 夕暮れの向こうへ、どんどん遠ざかっていく。


「ロイ……! 行かないで!」


 今度ははっきり声になった。


「僕を置いていかないで!」


 叫んだ瞬間、胸の奥が引き裂かれるみたいに痛んだ。

 ずっと言えなかった言葉だった。五年間、どこかに沈めていたものが、夢の中でようやく口を突いて出た。


 ロイの姿が、夕焼けの向こうへ溶けていく。


 そのあとには、誰もいなかった。


 ただ、ロイが消えた街並みの向こうから、蒼い光の欠片がふわりと現れた。


 ひとつ、またひとつ。

 小さな光の粒は、風に乗るみたいに僕の方へ流れてくる。冷たくも熱くもない、不思議な温度だった。


 僕は動けなかった。


 蒼い光の欠片は、ためらいもなく僕の胸へ、腕へ、指先へと入り込んでくる。痛みはない。怖さもない。ただ、失われていた何かが、本来あるべき場所へ戻ってくるみたいな感覚だけがあった。


「あ……」


 息が漏れる。


 蒼い光は、僕の一部になっていく。

 蒼い光に、目覚めていく。


 胸の奥で、静かに脈を打つ。

 呼吸と一緒に巡る。

 骨の内側へ沁み込むみたいに、ゆっくりと身体へ馴染んでいく。


 その感覚は、ひどく懐かしい気がした。


 ロイがいなくなっても、消えてしまったわけじゃない。

 あの言葉も、あの光も、ちゃんと僕の中に残っていたのだと、夢の中で僕はようやく知った。


 夕暮れの空が、少しずつ白んでいく。


 街並みも、石畳も、遠ざかっていくロイの背中も、みんな光の中へ溶けていく。


 最後に残ったのは、胸の奥で静かに息づく蒼だけだった。

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