06|蒼き白光の帳
滝に囲まれた回廊を抜けると、祈りの間が見えてきた。
神殿の最奥にあたるその場所は、回廊までの静けさをさらに研ぎ澄ませたような空間だった。白い石で組まれた広間の中央、数段高くなった先には祭壇がある。祭壇の背後では、水が薄い幕のように流れ落ちていて、その向こうに差し込む光が揺れていた。清らかで、神々しくて、少し息をするのもためらうような場所だった。
巡礼に訪れた人々は、祭壇で祈りを捧げるため、静かに列をなしていた。声を落とし、順番を待ち、自分の番が来れば祭壇の前へ進み、短く祈って下がっていく。
僕とユースルフィアも、その列の後ろへ並んだ。
足元はひんやりとしていた。水音は変わらず、絶え間なく耳へ届いている。けれど、祭壇へ近づくほどに、僕の胸の奥でざわついていた違和感が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
最初は、本当に微かなものだった。気のせいかもしれないと流せる程度の、小さな引っかかり。けれど、列が進むたび、その感覚は確かに強くなる。
胸騒ぎ、と呼ぶのがいちばん近い。ただの不安ではない。何かが近づいてくる予感。それを身体の方が先に知ってしまったような妙な感覚だった。
どくん。
近づいてくる何かを拒絶するように心臓が、ひとつ大きく鳴った。
僕は思わず胸元へ手を当てる。
隣で、ユースルフィアが小さく眉を寄せた。
「フィオル?」
「……っ、やっぱり……変なんだ」
声が掠れる。
「さっきより……はっきりしてきた。何か、嫌なものが……近い……いや。近づいてきている……」
ユースルフィアの表情が静かに引き締まる。けれど、ここで列を乱す理由も、周囲へ警告するだけの確信も、まだ僕たちにはなかった。
巡礼者たちは変わらず祈りを捧げている。祭壇の前には、今ちょうど数人の男女が進み出たところだった。
どくん。
どくん。
どくん。
胸の鼓動が、だんだんと速くなる。
息が浅くなり、呼吸が荒くなり早くなる。
どくん、と最後にひときわ大きな鼓動が胸を打った、その瞬間だった。
――ピキッ
乾いた、硬い音がした。それは、あまりにも場違いな音だった。水音の満ちた神殿の中では、ひどく異質で、耳に鋭く刺さる音だった。
反射的に音の鳴ったほうへ顔を上げると、祭壇の真上の空間に、細いひびが入っていた。
それは、一度目にしただけでは理解の追いつかない光景だった。
「……え」
僕は目を疑った。
けれど、どう考えても見間違いではない。透明なはずの空間に、たしかに亀裂が走っている。石でも、ガラスでもない何かが、内側から無理やり押し割られたみたいに、細いひびがゆっくりと伸びていく。
ぴし、ぴし、と音を立てながら、その亀裂は少しずつ広がっていった。祭壇の前の巡礼者たちがざわめき始める。
「な……何だ……?」
「ひび、割れて……」
その声が最後まで続く前に、亀裂は一段深く裂けた。空間そのものが、完全な割れ目になったのだ。
そして、そこから黒い霧が溢れ出した。
最初は細く、ためらうように。けれど次の瞬間には、神聖な祭壇の間を穢すように、ゆっくりと、確実に広がりはじめる。白い石、水の幕、祈りの場――そのすべてに、不釣り合いな黒が混じっていく。
「……っ!」
息が止まった。昨日、禁書の中で読んだ言葉が、頭の奥で鋭く甦る。
闇。封印。解けゆくだろう。
前列にいた巡礼者たちのうち、数人が、その霧に触れた。
次の瞬間、その人たちの身体がびくりと跳ねる。瞳から色が抜け落ちるみたいに、白目を剥いたまま、その場へ崩れ落ちる。どさり、と倒れ込む音がいくつも重なった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「誰か、誰か来て――!」
周囲の人たちが慌てて駆け寄る。そのうちの一人が倒れた男の脈へ手を伸ばし、次の瞬間、顔色を変えた。
「……うそだ」
「し、死んでる……!」
その言葉が広間を走ると共に、悲鳴が上がり列が崩れる。祈りの静けさは、もうどこにもない。
僕もユースルフィアも動くことができなかった。
足が石床に縫いつけられたみたいに重い。目の前で何が起きているのか、頭ではわかっているのに、身体だけがそれを拒んでいる。
そして――倒れていた死体が、震えた。
びく、びく、と不自然に痙攣し、次の瞬間、関節がありえない向きへ軋みはじめる。口が裂ける。爪が伸びる。肌の色が濁り、目の白だけが異様に浮き上がる。
「……ぁ」
鳥肌が立ち、身体が震えながら硬直した。
人だったものが、別のものへ変わっていく。それは、魔物でもない。幽霊でもない――異形の生物だ。決して祈りを捧げていた巡礼者ではない。
異形は、歪んだ手足を引きずりながら、いちばん近くにいた人へ飛びかかる。
「いやあああっ!!」
悲鳴が裂けた。祭壇の間は、あっという間に黒い霧と悲鳴に覆われていった。
逃げようとして転ぶ者、異形に襲われて血を流す者、霧に触れてそのまま動かなくなる者。神聖だったはずの場所が、ほんの数呼吸のうちに地獄へ変わっていた。
視界の端では異形が人を追い、水音の上から新たな悲鳴が何重にも重なってくる。
「……封印が解けるって、このことなの……? そ、そんな……」
ユースルフィアが震える声で言うその言葉が、僕の中にひどく重く落ちた。答えられなかった。答えなんて、もう目の前にありすぎる。だが、全く理解ができない。
その時、異形のひとつが、こちらを振り向いた。
白く濁った目が、僕たちを捉える。裂けた口から、意味のない呻き声が漏れる。次の瞬間、それは床を蹴って、僕とユースルフィアへ襲いかかってきた。
「ユル危ない――っ!」
身体が強ばったその瞬間だった。頭の中に、言葉が落ちてきた。
考えたんじゃない。思い出したんでもない。
ずっと前から、胸の奥にあったものが、今になってやっと形を持ったみたいに。目覚めたみたいに。知らないはずの詠唱が、喉の奥へするりと整列していく。
絶望に縋るみたいに、僕はその言葉へしがみついた。
僕は生まれて初めて、言葉に力を込めた。
「――蒼き白光よ、我らに護りの帳を与え賜え」
「ルミナ・ヴェルム!」
その瞬間、僕の足元から蒼い光が立ちのぼった。霧みたいにやわらかい、優しい光だった。それは一瞬で僕とユースルフィアを包み込み、さらにそのすぐそばにいた人々まで巻き込むように、蒼い帳となって祭壇の間へ広がっていった。
飛びかかってきた異形の爪が、その光へ触れた瞬間、ばち、と乾いた音がした。
爪は帳に弾かれ、その反動で異形の身体ごと後ろへ吹き飛ぶ。床へ転がったそれは、苦しむように身をよじった。白い目が見開かれ、裂けた口から呻きが漏れる。
蒼い光に触れた部分から、黒ずんだ肌がじりじりと崩れていく。悶絶するように転がり込んだ異形は、やがて大きく痙攣し、そのまま動かなくなった。
「……え」
誰かが呟いた。それが僕の声だったのか、ユースルフィアの声だったのかもわからなかった。
蒼い帳は、なお静かに揺れている。水面みたいにやわらかく、けれど確かな強さで、黒い霧も、異形の爪をも押し返していた。
僕は、自分の両手を見た。光はたしかに、僕から生まれていたのだ。
「……これは……魔法……?」




