05|清流に混じる異物
翌朝、僕たちはまだ陽の浅いうちに蒼天の塔へ向かった。
街の通りには白と青の飾り布が揺れ、祈りのための花があちこちへ供えられている。けれど、その穏やかな景色の底には、どこか張りつめたものがあった。人々の笑い声はひそやかで、不安を押し隠している風にもみえる。
蒼天の塔の中は、まだ朝だというのに人の行き来で満ちていた。祝日とはいえ、むしろ今日の方が役人も魔導士も忙しそうに見える。巡礼に赴く者、塔の結界を確認する者、祈りの準備を整える者。それぞれが持ち場へ散っていく中を、僕たちは上層へ進んだ。
案内されたのは、塔の中でもひときわ静かな一室だった。円形の床の中央に、青白い石が据えられている。両腕で抱えても足りないほどの、滑らかな巨石だった。内部には水を閉じ込めたような淡い光が揺れていて、近づくだけで肌の上を冷たい気配が撫でていく。
「これが……転移石?」
思わず小声になる。
ユルが頷いた。
「うん。上級魔導士が扱う即時移動の魔法を、石へ定着させた魔導具。長距離の移動や、有事の際の移動に使われる。普通は誰でも触って動くものじゃないけど、今日みたいな日は神殿への転移路が開かれるんだ」
僕は石を見上げた。
転移石。言葉だけは知っていたけれど、実物を見るのは初めてだった。こんなふうに、魔法そのものを石の中へ封じ込めてしまうなんて、いかにもサンクレアらしい魔法の賜物だ。
石の脇に立つ若い男の魔導士が、僕たちを見て静かに告げる。
「深碧の社への巡礼ですね。三人ずつ順に。石に触れたら、力に逆らわないようにしてください」
「……逆らったら、どうなるんですか?」
思わず後ろにいた女魔導士が聞くと、案内役の魔導士は少しだけ眉を上げた。
「間違いなく酔いますね」
「……あ」
ユルが小さく笑った。
「大丈夫。たぶん、一瞬で終わるよ」
変に緊張してしまったが、僕たちは転移石の前に並んだ。石の表面へ手を置くと、ひやりとした感触が掌から腕へ伝う。冷たいはずなのに、不思議と嫌な冷たさではなかった。
次の瞬間、視界が白くほどけた。
落ちるわけでも、浮くわけでもない。身体が一瞬だけ曖昧になって、足元の感覚がふっと消える。息を呑む暇もなく、光は静かに引いていった。
そして、ユースルフィアの言ったとおり、ほんの一瞬で深碧の社に立っていた。
最初に感じたのは、音だった。
高いところから絶え間なく落ちる水の音。耳を打つほど激しくはないのに、神殿全体を満たすような静かな響きだった。視界が定まるにつれて、その理由がわかる。
四方の壁はただの石ではなく、水の幕で縁取られている。白い石柱のあいだから幾筋もの滝が流れ落ち、その向こうに淡い光が揺れていた。まるで山の奥の聖域を、そのまま建物の中へ移したみたいだった。足元の床には水面の反射が揺れ、天井近くへ刻まれた紋様まで淡く揺らしている。
「……きれい」
僕の口から、ほとんど息みたいに言葉がこぼれた。
ユースルフィアもあたりを見回し、目を細める。
「初めて来たけど……想像していたより神聖な場所なんだね」
本当にその通りだった。
ただ豪華な神殿というのではない。もっと古くて、もっと静かで、人が作ったというより、もともとここにあった清らかさへ、人の祈りがあとから形を与えたような場所だった。
ここ深碧の社は、水の召喚獣セイレーンを祀る神殿だ。旧セプティム領は、もともと水の理と縁の深い土地だとされている。この地の祈りは昔から水と深く結びついていた。
神殿の中には、大勢の巡礼者が白や青の衣をまとった人々が静かに列をなし、祭壇の方へ進んでいく。誰も大きな声は出さない。けれど、その沈黙は窮屈なものではなく、水の音に耳を澄ませるための静けさのようだった。
僕たちもその流れに沿って進む。
途中、滝に挟まれた回廊へ入った時だった。柱の一本に、見覚えのある線が刻まれているのが目に入った。封律文字とも違う、もっと古く、もっと細い線の連なり。
僕の足が、ふっと止まる。
「フィオル?」
ユースルフィアの声がした。
けれど僕は、その柱から目を離せなかった。
古代文字だった。
見た瞬間、意味が頭の中へ落ちてくる。書庫で“道標の書”を開いた時と同じ感覚だ。読もうとする前に、文字の方がこちらへ意味を渡してくる。
僕は、ほとんど無意識のまま、その詩を口にしていた。
「――水の召喚獣セイレーン
この地に眠り 祈りを受け
潮の誓いを守り続ける……」
声にしたあとで、僕ははっとして口を閉じた。
自分でも、あまりに自然に読めてしまったことが怖かった。隣で、ユースルフィアが目を見開いている。
「……フィオル……やっぱり読めるの?」
「うん。読めるみたい……」
ユースルフィアは柱へ視線を移した。そこに刻まれているのは、ただの模様ではない。誰もが読めるはずのない、線の集まりでしかないはずだった。
「フィオル……君は一体……」
その驚きは、昨日の部屋で聞いた時よりもずっと強かった。目の前で実際に起きたせいだろう。僕だって、もし立場が逆なら、すぐには信じられない。
僕は柱から手を離した。
指先には、冷たい感触が残っている。
その時だった。
胸の奥で、何かがほんのわずかに引っかかった。ほんのわずかに、心臓が脈を打ったのだ。
「……え」
痛みではない。苦しさでもない。
ただ、今この神殿を満たしている清らかな空気の中に、ごく小さな異物が混じっているのを感じた。そんな小さな違和感だった。
僕は思わず周囲を見回した。滝は変わらず流れている。巡礼者たちは静かに祈りの列を進んでいる。神殿のどこにも、乱れた様子は見えない。
「どうしたの?」
ユースルフィアの問いに僕はすぐに答えられなかった。
自分でも、何を感じたのかうまく説明できない。ただ、胸の奥がまだ、少しだけざわついている。
「……なんでもない……と思う」
そう言いながらも、自分の声に確信がなかった。
「ただなんか……少しだけ、変な感じがして」
「変な感じ?」
「うん。この神殿の空気の中に、何か違うものが混じってるみたいな」
ユースルフィアの表情がわずかに引き締まる。昨日のこともあって、こういう違和感を軽くは扱えないのだろう。
「気のせいじゃないかもしれないね」
僕は小さく頷いた。
清らかなはずの場所なのに、胸の奥では何かが静かに拒絶している。異物を、拒むみたいに。
ただその感覚は本当に微かだった。見逃そうと思えば見逃せる程度の、ほんの小さな引っかかり。それでも僕は、一度それを感じてしまった以上、もう完全には意識の外へ追いやれなかった。
水の音が、絶え間なく神殿を満たしている。
その清らかな響きの底で、目に見えない何かが、まだ形を持たないままじっと潜んでいるような気がした。




