04|分かち合われた禁忌
書庫から戻った夜、僕は机の上の灯りをつけたまま、椅子に深く腰掛けていた。
指先を見つめて、放心にも近い状態だった。書庫で触れた蒼い背表紙と、頭の中へ落ちてきた言葉が、まだ視界の端にも、耳の奥にも残っていたからだ。
――調律より二百年、封印は解けゆくだろう。
もう考えるのはやめよう。しかし、かえってその言葉の輪郭は濃くなっていく。放っておきたいものほど、妙に几帳面に追いかける癖を煩わしく感じた。
その時、扉の外で靴音がした。
規則正しく、急がず、聞き慣れた音だった。僕が立ち上がる前に、ノックがひとつ鳴る。
「フィオル? 起きてる? 帰ったよ」
その声だけで、部屋の空気が少しだけやわらいだ。僕は急いで扉を開けた。
「おかえり、ユル」
「ただいま」
ユースルフィアはローブの裾についた埃を軽く払ってから、いつものように眉を下げて笑った。
「……今日も、ちゃんと帰ってきてくれてよかった」
思わずこぼれた言葉に、ユースルフィアが少しだけ目を細める。
「うん。約束したからね」
それだけのやり取りなのに、部屋の空気に続いて胸の奥に張っていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。
部屋へ入ったユースルフィアは、書庫の帰り道に買ってきた新しい包帯と回復薬の袋に気づいた。
「ありがとう」
そう言って笑うと、向かいの椅子へ腰掛けた。灯りは最小限のままで、二人の影だけが机の上で静かに重なる。
「今日は、何の本を読んだの?」
その問いかけは、もうほとんど毎晩の決まりになっていた。僕が過ごした時間を、ちゃんと意味のあるものとして受け取ってくれる、ユルなりのやさしさでもあった。
「今日は、光の適性者についての本を読んだよ」
僕が答えると、ユルの眉がわずかに上がった。興味を持った時の、いかにもユルらしい小さな反応だった。
「“調律の英雄”について書かれた本だね」
「うん。その本には、光の適性者の特徴がいくつか載ってた。蒼い光に導かれて、古代文字の解読に長けるとか。蒼光を体外へ放つとか。その光は、闇に特別な抑止を示すとか」
ユースルフィアの指先が、机の上で止まる。
「蒼光……か」
「それでね……もう一つあって」
僕はそこでつい言葉を止めた。言っていいのか、言わない方がいいのか。舌の根元に迷いが溜まる。書庫で起きたことは、口にしてしまった瞬間、たちまち現実味を帯びてしまいそうだった。
下を向いた僕を見て、ユースルフィアは身を乗り出しはしなかった。そういう時に無理に近づかず、次の言葉を待ってくれるのも彼らしかった。ただ、声だけを少し低くする。
「何かあった? 大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。実はね……古代文字が読めたんだ」
「え?」
いつもは冷静なユースルフィアの声が、珍しくはっきり揺れた。
「どういうこと?」
「読めた、というより……文字を読むのとは少し違うんだけど」
僕は、書庫で自分だけが体験した奇妙な出来事を、どうにか言葉へ移そうとした。けれど、説明すればするほど、自分でもますます信じがたくなる。
「文字の持ってる意味が、頭の中に落ちてきたみたいで……意味だけが直接入ってきた感じ。語りかけてくるみたいに。うまく言えないんだけど……」
すぐに理解できるはずのない話の内容に、ユースルフィアはしばらく黙っていたが、すぐに問いを返した。
「……疑うわけではないけど、それは、本当に古代文字だったの? 書庫にある文献で、古代文字が記されている本が、そう簡単に棚へ出ているとは思えないけど……」
「その本、閲覧禁止書物って書いてあった」
「閲覧禁止……それは、つまり禁書ってことかい?」
「うん。書庫の棚に、背表紙が蒼に光る本があったんだ。気になって取ってみたら、中身が全部古代文字で……最初はほとんど読めなかった」
「背表紙が蒼に光る、か……まるで、フィオルに見つけてほしくて、誰かがそこに置いたみたいだね」
冗談めいた響きにも聞こえたが、顔はあまり冗談を言っている顔ではなかった。
「それで……そこには、何て?」
僕は、書庫で感じたあの奇妙な感覚を探るみたいに、慎重に言葉を選んだ。
「うん。書に書かれてたのは――」
一度、息を吐く。それから、ゆっくりと口にする。ユースルフィアはそれを聞いて、机の上の灯りへ目を落とした。揺れる火の色が、横顔へ細く影を落としている。
僕は続けた。
「そして最後に……」
喉が少しだけ詰まる。
「――調律より二百年、封印は解けゆくだろう」
その言葉が部屋へ落ちた瞬間、窓の外の風の音が遠のいたような気がした。もちろん、本当に遠のいたわけではない。ただ、僕とユースルフィアの耳が一瞬、それ以外をうまく拾えなくなっただけだろう。
「もし……フィオルが読んだ内容が本当なら……何かが起きても不思議じゃない」
部屋の静けさが、少しだけ重くなる。
「なんせ明日が、調律からちょうど二百年目だ」
「……調和の日、だね」
「そう」
ユルは頷いた。
「この大陸の人たちが、それぞれ縁ある召喚獣へ祈りを捧げる祝日だ。そんな日に、“封印は解けゆくだろう”なんて言葉が重なるのは、偶然にしては出来すぎてる気がする」
僕は、机の端へ置いた指先をそっと握った。
「……イリシア様に話した方がいいのかな」
言葉にした途端、その重さがはっきりした。
こんなものを僕たち二人だけで抱えていていいはずがない――そう思う反面、正直何をどう話せばいいのかもわからなかった。きっと信じてもくれないだろう。
ユースルフィアはすぐには答えなかった。灯りの下で指を組んだまま、少し考えてから口を開く。
「本当なら、そうするべきだと思うけど……」
その答えに、胸の奥がわずかに沈む。やっぱり、黙っていていい話ではないのだとわかってしまったからだ。
「……陛下に謁見を願うのは、そんなに簡単なことじゃない」
「……そう、だよね」
僕は小さく呟いた。
ユースルフィアは静かに続ける。
「今のサンクレアは、ラグナヴェルトとの戦でずっと張りつめている。祝日を前にして、陛下の周りもきっと慌ただしい。よほどの理由がなければ、僕たちみたいな子どもがすぐ会える相手じゃないよ」
それは、冷たい言い方ではなかった。慌ててどこかへ駆け出したくなる僕の気持ちを、一度地面へ下ろしてくれるような声だった。
「それに……今わかっているのは、“不吉な文があったかもしれない”ってことだけだ。封印が何を指すのかも、どこで何が起きるのかも、まだ何ひとつはっきりしていない。古代文字を読める人なんて今の時代に誰もいないんだから……」
僕は膝の上で、指を握り込んだ。その通りだった。正直言って怖い。だから誰かに預けてしまいたい。けれど、預けるには僕たちの手の中のものは、まだ曖昧すぎる。
「……じゃあ、どうしよう」
「とにかく、明日の巡礼が終わってから考えよう」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「何も起きなければ、それでいい。その時は、その後で話せばいいと思う」
ユースルフィアは、そこで少しだけ声を落とした。
「でも、もし本当に何か起きるなら……僕たちが最初に、それを見ることになるかもしれないけどね」
その言葉が、胸の奥へ静かに沈んだ。
ばらばらだったものが、僕の中でひとつの不吉な輪郭を結びはじめる。
「……うん」
それしか言えなかった。
ユースルフィアは僕の返事を聞いて、少しだけ表情をやわらげて香茶をひとくち飲んだ。
「もし何かあったら、その時はすぐに報せよう。今は、それしかできない」
「……うん」
同じ返事なのに、さっきより少しだけ形があった。怖さは消えない。けれど、ユースルフィアと同じものを見ていると思えるだけで、ひとりで抱えていた時よりは息がしやすかった。
ユースルフィアは椅子から立ち上がると、灯りに手を当てて明るさを弱めた。
「今日は、もう休もう。明日は早いしね」
僕は机の上に視線を落としたまま、小さく頷いた。
封印は解けゆくだろう。
その言葉だけが、灯りの色の向こうで、いつまでも醒めずに残っていた。
寝台へ入って目を閉じても、すぐには眠れなかった。
書庫で読んだ蒼い文字列が、瞼の裏で何度も浮かび上がる。目を逸らせば消えてくれるものではなくて、むしろ暗闇の方が、あの文はくっきりした。
隣の寝台からは、ユースルフィアが寝返りを打つ小さな気配だけが聞こえる。
明日の巡礼が、何事もなく終わればいい。
そう思うのに、胸の底では別の感覚が静かに波打っていた。
何かが起きる。まだ形を持たない不安だけが、夜の奥でじっと目を開いている。
そして僕は、その不安を抱いたまま、浅い眠りへ沈んでいった。




