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02|待つことの役割

 寮の廊下を渡る靴音は乾いていた。扉の隙間から流れ込む朝の風には、外で飾り布がはためく気配が混じっている。白と青、国を象徴する二つの色がふくらんでは、また静かに落ちる。


 僕は机の上の小さなランプを消し、寝台の脇に置いていた包帯の束を数え直した。それから、魔導具の確認と杖の整備。もう何度も繰り返してきた仕草だった。


 それは僕が几帳面だからではない。

 何かをしていなければ、待つことに耐えられなかったのだ。


 それから部屋の隅には、もう一組ぶんの寝具を敷けそうな余白が残っている。


 二人で暮らすこの部屋に、三組の布団は必要ではない。

 それでも、どうしても埋められない余白だった。


 そこを見るたび、ずっと僕の隣にいた幼馴染のことを思い出す。誰よりも無鉄砲で、誰よりもドジを踏んでいたけれど、誰よりも真っ先に僕を庇ってくれた、ロイ・ロックヘヴン。


 僕より少し背が高くて、黒髪はいつも少しだけ跳ねていた。片頬の絆創膏が、顔の一部みたいに馴染んでいて、へらへら笑っているくせに、いざとなると誰より先に前へ出る。転んで、笑われて、それでもまた立ち上がるような人だった。


 ロイは、僕の弱さを笑わなかった。

 僕が自分で自分を見失いそうな時でも、勝手に僕の未来を信じていた。

 加護なしの僕に、引け目を感じさせないよう、自分の加護を隠すほど気を遣ってくれていた。あの無茶苦茶な明るさと、優しさに何度息を繋いでもらったかわからない。


 だけどセプティムが壊れた五年前、焼けた景色の向こうで離れ離れになったまま、生きているのか、死んでいるのか、それさえも今はわからない。


「……ユル、準備できた?」


 鏡の前に立つユースルフィアは、ローブの留め具をひとつずつ指で確かめ、最後に杖を手に取った。鏡越しに目が合うと、穏やかに微笑む。


「準備できたよ。いつもありがとう、フィオル」


 その言い方は相変わらずやさしい。けれど、そのやさしさがかえって、これからユースルフィアが向かう先をはっきりさせた。感謝の気持ちもやさしい言葉も、無事に帰ってこれる保証がないからこそ、妙に丁寧になるし怖くもなる。


 僕は、すぐに返事ができなかった。


 時々、僕にはわからなくなる。この静かな横顔のどこまでが本当の落ち着きで、どこからが自分を保つための形なんだろう。


「ねえ、ユル……」


 その一言だけで、ユースルフィアの目が少しやわらいだ。


「ロイは……」


 その名を口にした途端、部屋の空気が少しだけ静まり返る。ユースルフィアの視線が、ほんの一瞬だけ床へ落ちて、すぐに戻った。


「……まだ、見つからない」


 その答えも、もう何度目かわからなかった。けれど、聞かずにいられなかった。今日こそは、どこかで見つかるかもしれない。今日こそは、生きていると断言できる何かが手に入るかもしれない。


 そう思わなければ、待ち続けることそのものが苦しくなる。


 ユースルフィアは、戦場へ赴くたび、僕の代わりみたいにロイを探してくれている。

 敵国であるラグナヴェルト側にいるかもしれない、というわずかな可能性に縋って。

 なにより“ロイにもう一度会いたい”という僕の願いを叶えるために。


「……ごめんね、ユル」


「どうして謝るの?」


「だって、ユルは危ないところへ行くのに……僕は何もできなくて」


 言いながら、僕は拳を握った。同い年の少年少女が、もう何人も戦で命を落としている。その現実を知りながら、ここで生き残っている自分のことを、許せない時がある。


 十五歳になっても、その重さには慣れなかった。むしろ、年を重ねるほど静かに深く食い込んでくる。


 だから僕は、役割を探し続けていた。


 塔の書庫へ通い、知識を集めること。街で回復薬や魔導具を買うこと。ユースルフィアの帰りに備えること。


 せめて、自分がここにいる意味を見失わないために。臆病で陰気な僕でも、自分だけの役割が欲しかった。


「フィオル、謝らないで」


 少しだけ息を吐いてから、ユースルフィアは僕の肩に手を置いた。あたたかい掌だった。


「待ってくれる人がいるって、すごく嬉しいんだよ」


 ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


戦場(いくさば)へ行くとね、生きている実感が、時々すごく遠くなるんだ。人が死ぬ瞬間とか、死んだ人の顔とか……そういうものばかり近くなって。自分ももしかしたら――って……」


「でもね、フィオルが待っていてくれるって思うと……ちゃんと帰らなきゃって思えるんだよ」


 それは僕にとって、これ以上ない励ましの言葉だった。けれど同時に、帰還が保証されていない現実そのものでもあった。僕は視線を落とした。


 救われる。でも、救われたぶんだけ、自分の無力さもまたくっきりと浮かび上がる。


「でも――」


「ううん。でも、じゃない」


 ユースルフィアは眉を垂らして笑った。


「無理に強くならなくていい。今のままでいいんだよ」


 やわらかい声だった。それなのに、不思議と逃げ場のない言葉だった。


「フィオルにしかできないこと、まだ見つかってないだけかもしれないでしょ? もしかしたら、フィオルだからこそ見つけられるものが、これから先にあるのかもしれない」


 そこで少しだけ言葉を切る。


「今は、それを探していていいんだよ」


 僕は、それ以上何も言えなくなった。代わりに、上着の襟をそっと整える。指先で皺を撫でて、留め具の位置を少し直した。そういう細い仕草でしか、不安をごまかせなかった。


「今日も……帰ってきてね」


 声が小さくなる。


「絶対に」


 その言葉に、ユースルフィアの目元がわずかにほどけた。僕の願いを、ちゃんと受け取ったことを示すみたいに。


「もちろん約束するよ。じゃあ、行ってきます」


 その言葉が嘘にならないようにと祈る気持ちが、僕の胸の底へ静かに広がる。目の前の彼がいてくれなければ、ロイと離れたあの日のあと、僕は本当のひとりぼっちになっていたはずだった。


「(今日も、ユルが帰ってきますように)」


 そう願いながら、僕はその背中を見送った。外で、定刻を告げる鐘が鳴りはじめる。それが出陣の合図のように聞こえた。


 祝祭の色の下で、影だけが濃くなる――そんな朝だった。

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