エピローグ
南仏の岬に立つ、かつての小さな石造りの家。そこは今、世界中から注目を集めるオーガニック・コスメブランド『キャサリン・ヴォーン』の本拠地となっていた。
庭には、かつてよりも何倍もの広さでハーブが咲き乱れ、その香りは潮風に乗って村中に漂っている。キャサリンは、自社製品のラベルを確認しながら、ふと窓の外を見た。庭の向こう、海を望むテラスで、一人の男が電話で流暢なフランス語を操り、ロンドンやニューヨークとの商談を片付けている。
トリスタン・ヴォーン。かつての「ヴォーン・コンツェルン」の地位も、莫大な遺産も、彼はあの日すべてを捨てた。セリーナとの婚約破棄に伴う莫大な違約金と、親族による資産の凍結。彼の手元に残ったのは、キャサリンへの愛と、その鋭い知性だけだった。
「お疲れ様。少しは休んだら?」
キャサリンが冷たいハーブティーを持ってテラスへ出ると、トリスタンは電話を切り、一瞬で「冷徹な実業家」から「恋する男」の顔に戻って彼女を抱き寄せた。
「休んでいる暇はないよ。君の作るこの素晴らしいハーブオイルを、世界中の女性に届けなければならないからね。……かつての僕なら、数字のために動いていた。だが今は、君の笑顔を曇らせないために、この世界を支配したいと思っているんだ」
彼は三年前、文字通り「裸一貫」でこの村に戻ってきた。しかし、本物の才能は隠し通せるものではなかった。彼はキャサリンのハーブの知識に、独自のマーケティングと類まれな投資感覚を掛け合わせ、わずか三年で、かつてのコンツェルンさえも一目を置くほどの企業を、この南仏の片田舎から築き上げたのだ。
「セリーナが、提携を申し込んできたわよ。以前のあなたなら、冷たくあしらったでしょうね」
キャサリンが揶揄するように言うと、トリスタンは彼女の指先に、甘く、切ないほど深い口づけを落とした。
「今の僕にとって、彼女はただの『取引相手の一人』にすぎない。僕の心を動かせるのは、あの日、記憶を失った僕を抱きしめてくれた、世界でたった一人の看護師だけだ」
太陽が地中海に沈み、空に銀色の月が昇り始める。かつて、この月明かりは「終わりゆく夜」を惜しむ切なさに満ちていた。けれど今は、永遠に続く幸福を照らす光へと変わっている。
「愛しているよ、キャサリン。君が僕に、本当の成功の意味を教えてくれた」
トリスタンは彼女を強く抱きしめ、二人の影は月光の下で一つに溶け合った。かつての億万長者は、一度すべてを失うことで、二度と奪われることのない「真の帝国」を――愛という名の城を、手に入れたのだ。
最後までありがとうございました。




