第七章
南仏の岬に、再び夕暮れが訪れていた。キャサリンは、すべての荷物をまとめ終え、最後に一度だけ庭のハーブたちに水をやった。ここでの三年間は、彼女にとって「止まった時間」だった。だが、彼との嵐の夜を経て、その時間は再び残酷に、そして激しく動き出してしまった。
「さようなら、私の隠れ家」
鍵をかけ、彼女が門扉へ向かおうとしたその時、遠くから一台の車が砂埃を上げて猛スピードで近づいてくるのが見えた。
黒塗りの高級セダンではない。それは村のレンタカーショップで見かけるような、ありふれた小型車だった。車はキャサリンの家の前で急ブレーキをかけて止まり、運転席から一人の男が飛び出してきた。
仕立ての良いスーツは脱ぎ捨てられ、白いシャツの襟元を崩した姿。キャサリンの心臓が、痛いほど跳ね上がった。
「トリスタン……?」
彼は荒い息をつきながら、彼女の前に立った。その瞳には、かつての冷徹な億万長者の影も、記憶喪失に怯える迷子の面影もない。ただ、一人の女を狂おしいほどに愛し、守り抜こうとする男の、強い光が宿っていた。
「……キャサリン」
彼は彼女の足元にあるスーツケースに目を落とし、悲痛な声を絞り出した。
「また、僕が君を追い詰めてしまったんだな。あの時と同じように」
「なぜ、ここへ?あなたには守るべき帝国があるはずよ。セリーナだっているわ」
「そんなものは、君の指先一つの温もりにも値しない」
トリスタンは一歩、彼女に歩み寄った。
「三年前、僕は臆病だった。君をヴォーン一族の汚れた争いに巻き込むのが怖くて、突き放すことが唯一の守り方だと思い込んでいた。だが、それは間違いだった。君のいない三年間は、僕にとって死んでいるのと同じだったんだ」
キャサリンの瞳から、熱い涙が溢れ出した。
「記憶が……戻ったのね?」
「ああ。あの嵐の夜、君が僕を抱きしめてくれた瞬間に、魂はすべてを思い出していたんだ。言葉にならなかっただけで……。キャサリン、君が僕の正体を知りながら隠していたと責めた、あの愚かな僕を許してくれ。僕は、君が僕を忘れて幸せになっているのが怖かっただけなんだ」
キャサリンは震える手で、ポケットに入れていたあの古い写真を取り出した。泥に汚れ、端が焼けた、三年前の自分の姿。
それを見たトリスタンは、愛おしそうに目を細め、彼女の手ごと写真を優しく包み込んだ。
「……それを持っていてくれたんだね。あの日、事故に遭う直前まで、僕はその写真の裏に書いた座標だけを信じて、この村を目指していた。記憶を失う暗闇の中でさえ、それが僕にとって唯一の道標だったんだ」
夕陽が水平線に沈み、空が深い群青色に染まっていく。月が顔を出し、銀色の光が二人を優しく包み込んだ。トリスタンはキャサリンの両手を包み込み、跪くようにして彼女を見上げた。
「帝国は捨ててきた。セリーナとの契約も、一族のしがらみもすべて。今の僕には、この体と、君への愛以外、何も残っていない。……もう一度、やり直させてくれないか。今度は隠れ家ではなく、陽の当たる場所で。僕の妻として」
キャサリンは泣き笑いのような声を上げ、彼の胸に飛び込んだ。広がるサンダルウッドの香りと、力強い鼓動。三年前のロンドンの雨も、数日前の嵐も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと確信する。
「……バカな人。あなたが何も持っていなくても、私にはこの庭とハーブがあるわ。あなたを養うくらい、なんてことないわよ」
彼女の冗談に、トリスタンは数年ぶりに心からの、少年のような声を上げて笑った。
二人の唇が重なる。それは記憶よりも甘く、どんな契約よりも確かな誓いだった。地中海の月明かりは、かつての孤独を照らす光ではなく、これから始まる二人の長い旅路を祝福するように、どこまでも青白く、美しく輝き続けていた。




