第六章
トリスタンが連れ去られてから、三日が過ぎた。南仏の輝かしい陽光さえも、今のキャサリンにとっては色褪せた古い映画の背景のようにしか感じられなかった。家のあちこちには、まだ彼の名残がある。彼が使った毛布の皺、読みかけのまま置かれた古びた本、そして、微かに残るサンダルウッドの香り。
キャサリンは、キッチンのテーブルに置かれた使い古した革のスーツケースを見つめていた。
「……もう、ここにはいられないわ」
彼が去る間際に見せた、あの軽蔑と悲しみが混じった瞳。自分の正体を隠していた彼女を、彼は「金目当ての女」と同じカテゴリーに分類したに違いない。誤解を解く術はなく、そもそも彼とは住む世界が違うのだ。三年前、骨身に染みるほど教えられた事実を、また繰り返しただけ。
その時、控えめなノックの音がした。扉を開けると、そこには厳しい表情をしたハンナが立っていた。彼女の手には、泥に汚れ、端が焼けたような小さな革のポーチがあった。
「キャサリン、これを。あの日、あんたの家の玄関先に落ちていたよ。泥にまみれて半分埋まっていたけれど……あんたを呼ぶために扉を叩きながら、彼が最後まで離さずにいたんだろう。指の形に革が歪んでいたからね」
ハンナは、泥に汚れ、端が焼けたような小さな革のポーチを差し出した。
「あんたがあの男を運び入れるのに必死だった時、足元に落ちたんだろう。昨日の嵐の跡を片付けていたら見つけたのさ」
キャサリンは震える手でそれを受け取り、中身を引き出した。中から出てきたのは、一枚の古ぼけた写真だった。
それは三年前、ロンドンのハイドパークで撮ったものだ。看護師の制服を着たキャサリンが、照れくさそうに笑っている。その裏には、トリスタンの筆跡で、たった一行だけ、走り書きがあった。
『わかってくれ。君を愛しているからこそ、地獄へは連れていけない。必ず、君を迎えに行く場所を作るまで』
キャサリンは膝から崩れ落ちた。
「……そんな。迎えに行く……?」
あの日、彼が冷酷に彼女を突き放したのは、一族の血みどろの権力争いや、セリーナの父親が仕掛けた卑劣な罠から彼女を守るためだったのか。彼は三年間、ずっと自分を裏切ったふりをしながら、孤独に戦い続けていたというのか。
写真の端には、この南仏の村の座標がメモされていた。彼は、事故に遭うその瞬間まで、記憶を失う直前まで、キャサリンを探し出し、今度こそ守り抜こうとしていたのだ。
その頃、ロンドンの超高層ビルにあるヴォーン・コンツェルンの最上階。トリスタンは、セリーナが差し出す結婚届を冷ややかに見つめていた。精密な検査の結果、肉体的な記憶は戻りつつあった。だが、彼が取り戻したのは事実だけではない。あの嵐の夜、記憶の濁流の中で彼を繋ぎ止めていた、唯一の確かな感触。キャサリンの、ハーブの香りがする手の温もり。
「トリスタン、早くサインして。あんな田舎女のことなんて、もう忘れたでしょう?」
セリーナの甘ったるい声が、今の彼には耳障りな雑音にしか聞こえない。
トリスタンはゆっくりと立ち上がった。彼の瞳には、南仏で見せた純粋さは消え、以前の冷徹な、しかし今度は確かな「意志」を宿した光が戻っていた。
「ああ、忘れたよ。セリーナ。君を愛しているふりをするという、忌まわしい義務についてはな」
彼は結婚届を無造作に破り捨てると、クローゼットから一着のコートを掴んだ。
「僕は、自分の魂を置いてきた場所へ帰る。二度と、彼女を一人にはしない」
外では再び雲が広がり始めていたが、トリスタンの心に迷いはなかった。地中海の月明かりの下で交わした、あの未完成の誓いを果たすために。




