第五章
ヘリコプターの爆音が、静かな岬の家を揺るがした。庭に吹き付ける強風が、キャサリンが丹精込めて育てたラベンダーを無残になぎ倒していく。数分もしないうちに、砂利道を急行する車のブレーキ音が響き、黒塗りのセダンが数台、力任せに停まった。
「……現実が、追いついてきたのね」
キャサリンは力なく呟いた。トリスタンはテレビの画面を見つめたまま、微動だにしない。彼は自分の顔をした「氷の権力者」と、今の自分とのギャップに打ちのめされているようだった。
玄関のドアが乱暴に開け放たれた。現れたのは、磨き上げられたルブタンのヒールを鳴らす、非の打ち所のない美女――セリーナだった。彼女の瞳には心配の色など微塵もなく、あるのは不快感と所有欲だけだった。
「トリスタン!なんてこと……こんな不潔な小屋にいたの?」
セリーナはキャサリンを汚いものでも見るかのような目で見据えると、冷笑を浮かべた。
「あら、見覚えがあるわ。三年前、ロンドンで彼に縋り付いていた看護師じゃない。まさか、事故を利用して彼を監禁していたの?誘拐罪で訴えられても文句は言えないわよ」
「違うわ。彼は怪我をして、動けなかっただけ……」
キャサリンの反論は、背後から放たれた屈強な警護員たちの存在にかき消された。
「トリスタン、さあ行きましょう。一流の医師団を準備させてあるわ。こんな素人の気休めではなく、正しい治療を受けなければ」
セリーナがトリスタンの腕を取ろうとした。その時、トリスタンがその手を強く振り払った。
「触れるな」
その声には、記憶を失う前の彼が持っていた威圧感が宿っていた。しかし、彼が向けた視線の先はセリーナではなく、キャサリンだった。
「キャサリン。君は……僕が誰かを知っていたのか?」
彼の瞳には、裏切られた者の悲しみが満ちていた。記憶がない今の彼にとって、キャサリンだけが唯一の真実だった。その彼女が、自分の正体を隠していたという事実は、何よりも彼を傷つけた。
「トリスタン、私は……。あなたの世界があまりに遠いことを、知っていたから……」
言い訳は虚しく空に消えた。セリーナが勝ち誇ったように笑う。
「聞いた?トリスタン。この女は確信犯よ。さあ、もう十分でしょう。あなたの居場所はここではないわ。ロンドンの最上階、世界の頂点よ」
トリスタンは、動揺するキャサリンをじっと見つめた。何かを言いたげに唇を震わせたが、やがて彼は絶望したように目を閉じ、セリーナの差し出した手に身を委ねた。
「……行こう」
その一言が、キャサリンの心に終止符を打った。警護員に囲まれ、トリスタンは一度も振り返ることなく家を出て行った。高級車のドアが閉まる鈍い音が、この家からすべての熱を奪い去った。
残されたのは、荒らされた庭と、冷めた二つのコーヒーカップだけ。キャサリンは、崩れ落ちるように床に膝をついた。三年前と同じ。彼は再び、彼女の届かない「雲の上の世界」へと帰っていった。ただ一つ違うのは、彼の魂が「私を忘れないで」と叫んでいたのを、確かにこの肌で感じたことだけだった。




