第四章
昨夜の嵐が嘘のように、地中海の朝はまばゆい黄金色の光に満たされていた。窓を開けると、雨に洗われた土とハーブのみずみずしい香りが室内に流れ込む。水平線は穏やかな紺青色に戻り、すべてが平和そのものに見えた。
キッチンでコーヒーを淹れているキャサリンの視線の先には、庭のベンチに座り、海を眺めるトリスタンの後ろ姿があった。彼女の古いシャツと、村の医師から借りた無骨なトラウザーズを身に纏っていても、彼の背筋の伸びたシルエットからは隠しきれない気品が溢れている。
昨夜の、月明かりの下での出来事が脳裏をよぎる。触れ合う寸前だった唇。熱い吐息。彼は本能で私を求めていた。もしあのまま、彼を受け入れてしまっていたら――。
「おはよう、キャサリン」
振り返ったトリスタンの顔には、以前のような冷徹な仮面はどこにもなかった。朝陽を浴びて目を細める彼は、まるで初めて世界を見た子供のように純粋な光を宿している。
「よく眠れた?」
「ああ。君の家の香りに包まれて、これまでにないほど深い眠りだった。……まだ何も思い出せないが、不思議と不安はない。ここに君がいるからだ」
その率直な言葉に、キャサリンは胸が締め付けられる。彼が記憶を取り戻したとき、今の自分をどう思うだろうか。自分の弱さに付け込んで、正体を隠し続けた私を軽蔑するのではないか。
その時、庭の木戸が開く音がした。
「おはよう、キャサリン。嵐は大丈夫だったかい?」
現れたのは、隣人のハンナだった。手に焼きたてのパンを入れた籠を持っている。しかし、ベンチに座る見知らぬ男の姿を認めた瞬間、彼女の鋭い瞳が険しく光った。
「あら……お客さんかしら?」
「ええ、ハンナ。道に迷って怪我をしていた方を、嵐の間だけ匿っていたの」
キャサリンは努めて平静を装い、トリスタンを紹介した。
「彼は……トビーよ。記憶が少し混乱しているの」
ハンナはトリスタンを一瞥し、挨拶を交わしたものの、キャサリンを家の隅へと手招きした。
「キャサリン、あんな男をどこで拾ってきたんだい?あの身のこなし、あの眼光……ただの迷子には見えないよ。まるで、自分の支配下にあるものを数えている鷹のようだ」
「彼は怪我をしているわ。看護師として放っておけなかっただけよ」
「それだけならいいけどね。……さっき、村の広場で噂を聞いたよ。昨夜、この近くの沿岸道路で高級車が転落しているのが見つかったって。警察や、黒いスーツを着た物々しい連中が村中を嗅ぎ回っているらしいじゃないか」
キャサリンの心臓が跳ね上がった。追っ手がすぐそこまで来ている。ハンナが帰った後、キャサリンは震える手で居間の古いテレビをつけた。
『……速報です。行方不明となっているヴォーン・コンツェルンのCEO、トリスタン・ヴォーン氏の車両が南仏の海岸で発見されました。警察は、事故により付近に投げ出された可能性が高いとみて捜索を……』
画面には、かつての冷徹な表情でカメラを見据える、完璧なタキシード姿のトリスタンが映し出されていた。そしてその隣には、彼の手を誇らしげに握る、美しい金髪の女性。婚約者のセリーナだ。
「キャサリン?どうしたんだ、そんな青い顔をして」
背後からトリスタンが近づいてくる。キャサリンは慌ててテレビを消したが、間に合わなかった。トリスタンの視線が、消えゆく画面の残像を捉える。
「今の男は……僕なのか?」
彼の声から色が消えた。純粋だった瞳の奥に、暗い影が差し始める。平和な隠れ家を囲む空気は一変し、外からは遠く、捜索のヘリコプターが空を切り裂く音が近づいてきていた。




