第三章
深夜、荒れ狂っていた風が嘘のように凪ぎ、雲の切れ間から銀色の月光が差し込み始めた。地中海の波音だけが、遠くで低い重低音を響かせている。
キャサリンは暖炉のそばの椅子に座り、眠っているトリストンの横顔を見つめていた。手当てを終え、スープを口にした彼は、深い眠りに落ちている。月光に照らされた彼の横顔は、大理石の彫刻のように冷たく、それでいてどこか壊れそうな危うさを孕んでいた。
「……トリスタン」
名前を呼ぶだけで、喉の奥が熱くなる。三年前の別れ際、彼はあんなにも冷酷だった。だが今、記憶を失った彼は、無防備にその喉元を晒して私の側にいる。この男が、私の人生をどれほど狂わせたか。どれほど多くの夜を、涙で枕を濡らして過ごさせたか。
その時、トリスタンの睫毛が微かに揺れ、彼はゆっくりと目を開けた。青白い月光を反射するその瞳が、真っ直ぐにキャサリンを捉える。
「……月が、綺麗だ」
掠れた声で彼は言った。起き上がろうとする彼を、キャサリンは慌てて制する。
「動かないで。傷が開くわ」
しかしトリスタンは、その警告を無視して身を乗り出し、キャサリンの顔を覗き込んだ。
「君の瞳の中に、月がいる。……そして、深い悲しみも」
彼の大きな手が、躊躇いがちに彼女の頬に触れた。熱い。雨に打たれていたはずなのに、彼の指先は燃えるように熱かった。
「なぜ、そんな風に僕を見るんだ?まるで、僕が君に許されない大罪を犯したかのような……そんな、切ない目で」
キャサリンは息を呑み、視線を逸らそうとした。鋭すぎる。記憶を失っても、彼は本質的に人の心を見抜く力を持っているのだ。
「……考えすぎよ。あなたは怪我人。私は看護師として、あなたの容態を心配しているだけ」
「嘘だ」
トリスタンは短く否定した。彼は彼女の顎を優しく上向かせ、逃げ場を奪う。
「名前さえ思い出せない。自分が何者で、どこから来たのかも。だが、この胸の痛みだけは本物だ。君を見ていると、狂おしいほどの愛しさと、それと同じくらいの激しい後悔が押し寄せてくる」
彼はそのまま、キャサリンの唇へとゆっくりと顔を近づけた。心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り響く。逃げなければならない。これは「彼」ではない。記憶を失った、都合の良い幻影にすぎないのだ。
だが、サンダルウッドの香りが近づくにつれ、キャサリンの意志は溶けていく。彼の唇が、彼女の唇に触れるか触れないかという距離で止まった。互いの熱い吐息が混じり合う。
「思い出したいんだ、キャサリン。君を愛していたはずの自分を。いや……今の僕は、初めて君に出会った時よりも、深く君を求めている」
キャサリンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、過去の痛みの名残か、それとも再び始まってしまった残酷な恋の予感か。月光が二人を冷たく照らす中、彼女は拒絶することもできず、ただ彼が差し出す甘美な闇へと飲み込まれていった。




