第二章
室内に運び入れたトリスタンの体は、凍えるように冷たかった。キャサリンは看護師としての冷静さを懸命に呼び戻し、意識を失った彼をリビングの長椅子へと横たえた。暖炉の火が爆ぜる音と、窓を叩く雨の音だけが響く。
三年前、あんなにも残酷に私を捨てた男が、今、私の腕の中にいる。キャサリンの手は震えていた。かつて愛した、そして今も憎んでいるはずのその顔は、眠っている間だけはあの頃と同じように無垢に見えた。額の傷を濡れタオルで拭うと、深い切り傷が現れる。幸い、命に別状はなさそうだったが、問題は彼の言葉だ。
「自分が誰なのか……分からない?」
キャサリンは、彼の泥に汚れた高級なジャケットを脱がせ始めた。濡れた生地が肌に張り付き、剥がすたびに、鍛え上げられた胸板と、記憶の中にあるのと変わらない美しい肢体が露わになる。指先が彼の肌に触れるたび、電流が走ったような衝撃がキャサリンを襲う。五感が、彼の香りを、肌の弾力を、そして微かな体温を思い出そうと暴走を始める。
「いけない……。彼はただの患者よ。私を捨てた、冷酷な部外者……」
自分に言い聞かせながら、彼女は予備の毛布を彼に掛けた。その時、トリスタンがうめき声を上げ、薄く目を開けた。
「……ここは?」
嵐の海のような瞳が、焦点の定まらないままキャサリンを探した。以前の彼なら、こんな風に弱々しい眼差しを向けることなど万に一つもなかったはずだ。
「私の家よ。あなたは嵐の中、ここで倒れたの」
キャサリンは努めて事務的な声を出す。しかし、トリスタンは彼女の手を、驚くほど強い力で掴んだ。
「君は、誰なんだ?……なぜだろう。君の顔を見ると、胸が締め付けられるように痛むんだ。ずっと、長い間、君を探していたような気がする……」
その真っ直ぐな言葉に、キャサリンは息が止まりそうになった。嘘よ。彼はそんなことを言う人じゃない。「君はふさわしくない」と言い放った冷血漢だ。だが、今の彼の瞳には一片の曇りもなかった。記憶を失い、傲慢な鎧を脱ぎ捨てた彼は、ただ一人の男として、本能的にキャサリンを求めていた。
「私は……ただの看護師よ。あなたは道に迷っただけ。嵐が過ぎれば、迎えが来るわ」
彼女は嘘をついた。彼の正体が、ロンドンを牛耳る「トリスタン・ヴォーン」であることを告げれば、この静かな時間は終わってしまう。
「看護師……。そうか、だから君の手はこんなに温かいのか」
トリスタンは安堵したように微笑み、彼女の手を自分の頬に寄せた。
「頼む、どこへも行かないでくれ。この暗闇の中で、君の光だけが、僕を繋ぎ止めてくれる唯一の錨なんだ」
キャサリンは手を引き抜くことができなかった。窓の外では、地中海が依然として狂おしく荒れている。もし、このまま彼の記憶が戻らなければ?もし、一晩だけ、彼が私の知っている「あのトリスタン」ではない誰かだと思い込むことができたら?
復讐心と、封じ込めていた愛着が、キャサリンの胸の中で激しく火花を散らす。彼女は彼に温かいスープを飲ませるため、台所へ向かった。背中に感じる彼の視線が、ハーブの香りよりも強く彼女を酔わせ、惑わせていく。
この嵐が明けるまで、彼は私のものだ。真実を隠したまま過ごす、禁断の夜。キャサリンは、自分が危険な淵に立っていることを自覚しながらも、その闇の中へと足を踏み出していた。




