第一章
コート・ダジュールの夕暮れは、本来であれば神が描いた最高傑作の絵画のように美しいはずだった。水平線に溶け落ちる太陽が、波打ち際を琥珀色に染め上げ、空には薄紫とバラ色が混じり合う。しかし、今日の空気は違った。湿り気を帯びた重苦しい風が、庭に植えたラベンダーやローズマリーを激しく揺さぶり、銀灰色のオリーブの葉を裏返している。
キャサリンは、リネンのエプロンのポケットにハーブを摘み入れながら、低く垂れ込めた雨雲を仰ぎ見た。
「……荒れるわね。今夜は」
独り言が、風に攫われて消える。かつてロンドンで看護師として慌ただしく働いていた頃、彼女はこれほどまでに天候に敏感ではなかった。三年前、すべてを捨ててこの南仏の小さな村へと逃げ込んで以来、彼女の友は、移ろいやすい季節の気配と、村の老人たちの静かな呼吸だけだった。
キャサリンは籠を抱え、小さな石造りの家に駆け込んだ。キッチンには、煮出したタイムと蜂蜜の甘く鋭い香りが満ちている。ここは彼女の聖域だった。誰にも傷つけられず、誰にも心を乱されない、透明な隠れ家。しかし、窓の外で唸りを上げる地中海の波音を聞くたび、心の奥底に沈めたはずの記憶が、澱 (おり)のように浮き上がってくる。
――「君は僕の人生にふさわしくない」
あの夜のロンドンの冷たい雨。トリスタンの、彫刻のように美しく、そして氷のように冷徹な瞳。彼の手から放たれた言葉は、メスよりも鋭くキャサリンの心を切り裂いた。名門令嬢との婚約。政略結婚。億万長者である彼の住む「雲の上の世界」には、一介の看護師にすぎない彼女の居場所など、最初からなかったのだ。
キャサリンは首を振り、過去を振り払うようにしてポットに湯を注いだ。
「終わったことよ。もう、あんな苦しみは二度とごめん」
自分に言い聞かせる。今、彼女の手元にあるのは、ハンナから教わったハーブの知識と、村の人々に頼りにされる穏やかな日常だけ。それで十分なはずだった。
夜が深まるとともに、嵐は猛威を振るい始めた。激しい雨が窓を叩き、風の咆哮が家を震わせる。地中海が怒り狂っているかのような地響きが聞こえる。キャサリンは暖炉の火を強め、読書に没頭しようと努めた。だが、胸のざわつきは収まらない。看護師として培われた本能が、何かが起きようとしていると警告していた。
その時だった。
ドンドン、と激しい音が響いた。雷鳴の間隙を縫って、それは紛れもなく、誰かが扉を叩く音だった。キャサリンは凍りついた。こんな嵐の夜に、この辺鄙な岬の家を訪れる者などいるはずがない。村の誰かが急病だろうか?それとも道に迷った観光客か?
「……どなた?」
彼女は用心深く扉に近づき、声をかけた。返事はない。ただ、激しいノックが繰り返される。切迫した、力尽きそうな音。キャサリンは意を決して、重い木製の扉のかんぬきを外した。
途端、暴風雨が室内に雪崩れ込み、キャサリンを激しく打ち据えた。視界を遮る雨のカーテンの向こうに、人影があった。
ずぶ濡れになり、肩を荒く上下させている男。高価そうなカシミアのコートは泥に汚れ、額からは一筋の鮮血が流れ落ちている。彼は扉の枠を掴み、崩れ落ちるのを必死に堪えていた。
キャサリンの息が止まった。暗闇の中でも、その男の輪郭を見間違えるはずがなかった。漆黒の濡れた髪。逞しい肩の線。そして、かつて彼女を情熱的に見つめ、その後、無残に突き放した、あの嵐の海のような瞳。
「……トリ、スタン?」
キャサリンの口から、三年間一度も呼ぶことのなかった名前が、震える吐息となって漏れた。なぜ。どうして彼がここに?ここはロンドンから遠く離れた、地図にも載らないような場所なのに。
男は力なく顔を上げ、キャサリンを見つめた。その瞳には、以前の彼が持っていた傲慢な光も、冷徹な拒絶もなかった。あるのは、深い困惑と、溺れる者が藁をも掴もうとするような切実な光だけ。
「……君を、知っている気がする」
彼の声は掠れていたが、かつて耳元で囁かれたあの低いテノールの響きそのものだった。
「自分が誰なのか、ここがどこなのか、何も分からないんだ。……だが、君に会わなければならないと、魂が叫んでいた」
トリスタンはそう言うと、糸が切れた操り人形のように、キャサリンの胸の中へと崩れ落ちた。
腕の中に伝わる、重み。ずぶ濡れの衣服の下から感じられる、狂おしいほど懐かしい体の熱。雨の匂いに混じって、キャサリンの記憶に刻み込まれた、サンダルウッドと潮の香りが鼻をくすぐる。
「嘘……そんなはずがない……」
キャサリンは絶望的な混乱の中で、彼を抱きしめていた。憎むべき男。彼女を捨てた男。それなのに、冷え切った彼の体を支える彼女の指先は、裏切り者のように歓喜に震えている。
外では地中海がさらに激しく吠え、二人の再会を祝福するかのように、稲光が南仏の夜を真っ白に染め上げた。




