第2話
千夜は弓矢は使わない。昔から習い、佐伯の中でも有数の腕だが、弓矢は使わない。
千夜の得物は刀だった。
小夜がいなくなってから、千夜が手にするのは刀になった。
千夜が物心ついたとき、母親の景子はまだ佐伯一門の狩人の一人に過ぎなかったが、千夜と小夜が小学校に上がるころ、先代の総代は景子を自分の後継者に決めた。
佐伯の総代は世襲ではない。
一門の狩人たちや、全国に散らばる麾下の狩人たちを統制する力のある者が総代となる。
とはいえ、総代の子が後を継いだ例も多い。血縁によってその強い力が受け継がれることもあるからだった。
小夜と千夜は、狩人としての強い能力を景子から受け継いだ。特に小夜は弓矢に優れて、狩りでは決して獲物を逃がしたことはなかった。千夜もまた、強い狩人として狩りに加わるようになったが、その存在はいつも小夜の次だった。
一緒に通っていた学校でもそれは同じだった。スポーツも勉強も課外活動も、小夜はいつも千夜より上だった。
佐伯の誰もが、景子の後を小夜が継ぐことになるだろうと思っていた。
実際に口に出すものは誰もいなかったが、千夜でさえ、景子の後を血縁者が継ぐとしたらそれは小夜だろうと思って疑ったことなどなかった。
千夜はいつも、小夜の少し後ろから、小夜の背中を見ていた。
そこを自分の居場所として選んでいたのだと小夜がいなくなって千夜は自覚した。
自分は逃げていたのだと千夜は気付いた。
小夜と競わずにいつも下がった場所にいることで。
いつも表に出るのは小夜。だから千夜はいつも守られていた。
追われることの重圧から逃げていた。
小夜を追いかけようとはしていた。けれども、追いつこうと思ったことも、追い抜こうと思ったこともなかった。
小夜と争ったり競ったりすることで、どんな結果になるのかはわからなかったが、小夜と競うことで疲弊し、またその結果によって傷つきたくはなかったのだ。
小夜の後ろにいることで、安穏な場所に甘んじていたのだ。
そんな自分を、小夜がどう思っていたのか千夜は知っている。
千夜が小夜の後ろに付いて行くと、小夜はいつも苛立つように千夜を振り返り、また足早に歩いて行った。しかし、小夜が付いて来るなと言ったことはない。
いつの頃からだったろうか。
お互いの腹の底を探り合うように、相手の、そして自分の役割を立ち回るようになったのは。
あの頃、互いに異なる居場所を作り出すことで、千夜と小夜は、どこか危うげながらもバランスを保ち始めていた。そのことが、双子という境遇に生まれた自分を支える手段だと二人とも気付き始めていた。
なのに小夜は。
千夜が、自分の居場所を奪われたことで泣いている自分に気付いたのは、涙する一門の一人を別の狩人が慰めている言葉を聞いたときだった。
「大丈夫だ。まだ千夜様がおられる」
そんなもので小夜を失ったことの何を穴埋めできるわけではないことは、彼らにもわかっていただろう。けれども千夜は、景子の後継となり得た小夜を失ってしまった一門の、不安な心の拠り所だったのだ。
しかしその役割を果たすことなど無理だった。それは千夜が一番よくわかっていた。
殊更に違う道を選ぶことを、暗黙の了解としていたのだから。
春分が近いとはいえ、まだ昼間は短いように感じられる季節だ。千夜が帰宅する頃には辺りは薄暗くなっていて、誰もいない部屋は暗かった。
「小夜」
なぜか、千夜はその名を口にしていた
その響きを千夜が耳にするのは、もうずいぶんと久しいことだった。
もういないことくらいわかっている。
けれども、その名前を呼んでみた。
「小夜」
狩人に攫われるわけもない。自分で出て行ったのだ。
「小夜」
いない。
「小夜」
小夜はもういない。
「小夜」
その名前を呼んでいる自分の声を聞きたくない。
「小夜」
いない。いないのだ。小夜はもう、いない。
ふと、スマホが震えて千夜は我に返った。
夕子から短いメッセージが届いていた。
今夜は重々ご注意を
文字を見ただけで、夕子の声が千夜の頭の中で響いた。