表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/27

第9話『置いてきた言葉』

夜の椿屋は、音がよく響く。


 廊下を歩けば、畳の軋みも、障子が鳴る風の音も、どこか懐かしい響きで耳に残る。

 灯の提案で、美咲は囲炉裏の間に案内されていた。


「今夜は、もう少し火を囲んで話しませんか?」


 そう言われたとき、なぜか断る気にはなれなかった。

 火が人を柔らかくするなら、それを試してもいいと思ったのだ。


 囲炉裏には小さな炭火が灯され、鉄瓶がかすかに音を立てていた。

 咲良が持ってきた湯呑からは、うっすらと湯気が昇る。


「よかったら、聞かせてくれませんか」


 灯の言葉は、問いではなかった。

 促すでもなく、押しつけるでもない。ただ、そこにある火のように静かで、ぬくもりを持っていた。


 美咲は、茶を一口飲み、ふと唇を開いた。


「……うちの妹、遥香の死。あれ、“事故”って言われたんです。だけど、ほとんどの人は“自殺”だったって思ってた」


 言葉が口をついて出た。もう止められなかった。


「遺書はなかった。でも、最後にスマホに残されてたメッセージ……それが、すごく曖昧で。『ごめんね』『ありがとう』『これからは自由に』……そんなのだけだった」


 灯も咲良も、何も言わなかった。

 ただ湯をすする音だけが、空間を満たしていた。


「私は、ずっと考えてた。なんで遥香は……どうして、あんなことになったのかって」


 膝の上で指を組んでいた美咲は、その手をぎゅっと握った。


「私、妹を守るつもりだったんです。あの子、昔から感情を表に出すのが苦手で……でも、私は姉だから、気づいてあげなきゃって、そう思ってた」


 それが、思い違いだったと気づいたのは、遥香がいなくなったあとだった。


「でも、実際は……何もわかってなかった。遥香がどれだけ無理して笑ってたか、どれだけ気を遣ってたか……全部、あとから、他人から聞いたんです。『あの子、すごくお姉さんのこと気にしてたよ』って」


 声が震えた。


「私、あの子にひどいこと言ったことあるんです。『あんたはいつも逃げてばっかり』『せめて迷惑かけないように生きて』って」


 灯の目が揺れる。

 咲良は、唇を噛みしめているようだった。


「それを言ったのが、遥香と最後に交わした言葉でした。……数日後、あの子は、いなくなった」


 炭のはぜる音が、ぽつん、と空間に響く。


「私が……追い詰めたのかもしれない。あの言葉を、私は置いてきてしまった。謝ることも、やり直すこともできないまま──」


 言葉が詰まった。


 美咲は、目を伏せたまま、肩を震わせる。


 咲良が、そっと湯呑を差し出した。

 その手が微かに震えていたのは、火のせいではない。


 灯が、静かに口を開いた。


「姉妹って、不思議ですよね」


「……え?」


「近いのに、遠い。大事なのに、ずっと後回しになる」


 灯の目が、囲炉裏の火を映していた。


「私も姉がいます。いつも強くて、完璧で、私の前では一度も泣いたことがなかった。──でも、最後の手紙には、こう書かれてました。“あのとき、泣いてくれたら、私は止まっていたかもしれない”って」


「……灯さんも、誰かを……?」


「ええ。ずっと、胸にしまってます。“置いてきた言葉”として」


 咲良も、声を出した。


「私にも、おばあちゃんとの最後の夜に……『また明日ね』って言ったのが最後だったんです。本当は“ありがとう”って言いたかったのに」


 囲炉裏のまわりには、それぞれの“言えなかった言葉”が静かに集まっていた。


 それらは火にくべられることも、灰になることもなく、胸の奥で燻っている。


「でもね、美咲さん」


 灯がふたたび口を開く。


「置いてきた言葉は、全部消えてしまうわけじゃないんです。こうして誰かに話せば、“言葉”としてもう一度存在できる」


「……でも、それで赦されるわけじゃ……」


「赦しって、もらうものだと思ってるでしょ? でも違うの。赦しは“灯す”ものなんです。灯火みたいに、自分の中に」


 火が、ぱち、と跳ねた。


「あなたがそうして話してくれたから、遥香さんの言葉も、ここに灯りました。だから、帰ってきたんだと思う」


「帰って……きた……?」


「遥香さん、あなたに言葉を届けたかったんですよ。だから、あのノートも残した。“ここ”に」


 美咲は、ふいに思い出した。

 妹の字で書かれた、あのページ。


 ――“わたしの言葉、読んでくれる人がいるかもしれないから”


 その「誰か」は、美咲自身だったのだ。


     *


 夜が深まる。


 囲炉裏の火が少しずつ小さくなっていくのを見届けながら、美咲はぽつりと呟いた。


「……まだ、言えてない言葉がある」


 灯も咲良も、何も言わず、ただ静かに待ってくれていた。


「遥香……ありがとう。ずっと、あなたを、妹としてしか見てこなかった。でも本当は、あなただからこそ、私はここまで生きてこられた」


 目から、涙がつぅと流れた。


「ごめんね。私があなたを赦せなかった。でも……これからは、あなたの代わりに、生きるようにしてみる。生きて、ちゃんと、あなたを思い出すよ」


 涙が止まらなかった。


 けれど、あの夜とは違う。

 この涙は、自分を許すために流れるものだった。


 咲良が、そっと手を握ってくれた。

 灯が、小さく頷いた。


 そのとき、美咲は思った。


 ──あの子が、置いていったのは“死”じゃなかった。

 “言葉”だった。

 そしてそれは、今ようやく、自分の中に届いたのだと。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ