第9話『置いてきた言葉』
夜の椿屋は、音がよく響く。
廊下を歩けば、畳の軋みも、障子が鳴る風の音も、どこか懐かしい響きで耳に残る。
灯の提案で、美咲は囲炉裏の間に案内されていた。
「今夜は、もう少し火を囲んで話しませんか?」
そう言われたとき、なぜか断る気にはなれなかった。
火が人を柔らかくするなら、それを試してもいいと思ったのだ。
囲炉裏には小さな炭火が灯され、鉄瓶がかすかに音を立てていた。
咲良が持ってきた湯呑からは、うっすらと湯気が昇る。
「よかったら、聞かせてくれませんか」
灯の言葉は、問いではなかった。
促すでもなく、押しつけるでもない。ただ、そこにある火のように静かで、ぬくもりを持っていた。
美咲は、茶を一口飲み、ふと唇を開いた。
「……うちの妹、遥香の死。あれ、“事故”って言われたんです。だけど、ほとんどの人は“自殺”だったって思ってた」
言葉が口をついて出た。もう止められなかった。
「遺書はなかった。でも、最後にスマホに残されてたメッセージ……それが、すごく曖昧で。『ごめんね』『ありがとう』『これからは自由に』……そんなのだけだった」
灯も咲良も、何も言わなかった。
ただ湯をすする音だけが、空間を満たしていた。
「私は、ずっと考えてた。なんで遥香は……どうして、あんなことになったのかって」
膝の上で指を組んでいた美咲は、その手をぎゅっと握った。
「私、妹を守るつもりだったんです。あの子、昔から感情を表に出すのが苦手で……でも、私は姉だから、気づいてあげなきゃって、そう思ってた」
それが、思い違いだったと気づいたのは、遥香がいなくなったあとだった。
「でも、実際は……何もわかってなかった。遥香がどれだけ無理して笑ってたか、どれだけ気を遣ってたか……全部、あとから、他人から聞いたんです。『あの子、すごくお姉さんのこと気にしてたよ』って」
声が震えた。
「私、あの子にひどいこと言ったことあるんです。『あんたはいつも逃げてばっかり』『せめて迷惑かけないように生きて』って」
灯の目が揺れる。
咲良は、唇を噛みしめているようだった。
「それを言ったのが、遥香と最後に交わした言葉でした。……数日後、あの子は、いなくなった」
炭のはぜる音が、ぽつん、と空間に響く。
「私が……追い詰めたのかもしれない。あの言葉を、私は置いてきてしまった。謝ることも、やり直すこともできないまま──」
言葉が詰まった。
美咲は、目を伏せたまま、肩を震わせる。
咲良が、そっと湯呑を差し出した。
その手が微かに震えていたのは、火のせいではない。
灯が、静かに口を開いた。
「姉妹って、不思議ですよね」
「……え?」
「近いのに、遠い。大事なのに、ずっと後回しになる」
灯の目が、囲炉裏の火を映していた。
「私も姉がいます。いつも強くて、完璧で、私の前では一度も泣いたことがなかった。──でも、最後の手紙には、こう書かれてました。“あのとき、泣いてくれたら、私は止まっていたかもしれない”って」
「……灯さんも、誰かを……?」
「ええ。ずっと、胸にしまってます。“置いてきた言葉”として」
咲良も、声を出した。
「私にも、おばあちゃんとの最後の夜に……『また明日ね』って言ったのが最後だったんです。本当は“ありがとう”って言いたかったのに」
囲炉裏のまわりには、それぞれの“言えなかった言葉”が静かに集まっていた。
それらは火にくべられることも、灰になることもなく、胸の奥で燻っている。
「でもね、美咲さん」
灯がふたたび口を開く。
「置いてきた言葉は、全部消えてしまうわけじゃないんです。こうして誰かに話せば、“言葉”としてもう一度存在できる」
「……でも、それで赦されるわけじゃ……」
「赦しって、もらうものだと思ってるでしょ? でも違うの。赦しは“灯す”ものなんです。灯火みたいに、自分の中に」
火が、ぱち、と跳ねた。
「あなたがそうして話してくれたから、遥香さんの言葉も、ここに灯りました。だから、帰ってきたんだと思う」
「帰って……きた……?」
「遥香さん、あなたに言葉を届けたかったんですよ。だから、あのノートも残した。“ここ”に」
美咲は、ふいに思い出した。
妹の字で書かれた、あのページ。
――“わたしの言葉、読んでくれる人がいるかもしれないから”
その「誰か」は、美咲自身だったのだ。
*
夜が深まる。
囲炉裏の火が少しずつ小さくなっていくのを見届けながら、美咲はぽつりと呟いた。
「……まだ、言えてない言葉がある」
灯も咲良も、何も言わず、ただ静かに待ってくれていた。
「遥香……ありがとう。ずっと、あなたを、妹としてしか見てこなかった。でも本当は、あなただからこそ、私はここまで生きてこられた」
目から、涙がつぅと流れた。
「ごめんね。私があなたを赦せなかった。でも……これからは、あなたの代わりに、生きるようにしてみる。生きて、ちゃんと、あなたを思い出すよ」
涙が止まらなかった。
けれど、あの夜とは違う。
この涙は、自分を許すために流れるものだった。
咲良が、そっと手を握ってくれた。
灯が、小さく頷いた。
そのとき、美咲は思った。
──あの子が、置いていったのは“死”じゃなかった。
“言葉”だった。
そしてそれは、今ようやく、自分の中に届いたのだと。