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第8話『泣かせてくれた場所』

朝、海は灰色だった。

 雲が低く、潮の香りが重たい空気に混じって宿の軒先を撫でる。


 椿屋の廊下を歩くと、どこか遠くから水の音がした。

 雨ではない。露天の湯が、朝の風に溶けていく音。


「……起きてたの?」


 声をかけると、灯が縁側に座っていた。

 着物の裾を揃えて膝を抱え、湯気の立ち昇る湯船をぼんやりと見つめている。


「昨夜、よく眠れなくて」


 美咲がそう言うと、灯は振り返らず、ぽつりとつぶやいた。


「涙が出たんでしょ?」


「……え?」


「だから、眠れなかったんだと思う」


 灯の声は、冷たくはなかった。

 かといって慰めるような優しさとも、少し違った。


「この宿で流す涙は、ちゃんと意味があるの。無駄じゃない」


 それだけを言って、灯は立ち上がり、美咲の隣に来ると、湯気の向こうを見上げた。


「泣かせてくれた場所。それは、あなたにとって“思い出すべきもの”が、ここにあったってことよ」


 美咲は、何も言えなかった。


 ただ、柚葉の料理に込められていた“何か”。

 妹のノートに記された、短い言葉。

 そして──忘れようとしていた、自分の罪。


 その全部が、昨夜の涙に詰まっていたような気がした。


     *


 朝食を終えた後、美咲は一人で中庭を歩いた。

 石畳の隙間に咲いている椿の花は、すでにいくつか落ちていた。赤い花弁が濡れていて、土に沈み込んでいくように見える。


「帰るんですか?」


 声をかけてきたのは、咲良だった。


 彼女は小さな箒を手に、中庭の掃除をしていた。

 だが手は止まっていて、美咲の顔をまっすぐに見つめていた。


「……まだ分かりません」


「だったら、帰らない方がいいです」


 その言葉は、あまりにも唐突で、美咲は思わず苦笑した。


「引き止めの文句としては、少し強引じゃない?」


「強引でもいいです。帰っちゃダメなんです」


 咲良の目は真剣だった。

 大きな瞳に、嘘が一つもなかった。


「だって美咲さん、まだ“自分のこと”を話してないじゃないですか」


「……私のこと?」


「妹さんのことは、話してくれた。でも、“あなた自身が何を思ってるか”、それはまだ誰にも話してないと思うんです」


 図星だった。


 美咲は、妹を探しに来た。

 “妹が何を考えていたのか”を知るために、この椿屋を訪ねた。


 だが、自分自身のことは──

 何ひとつ、向き合ってこなかった。


     *


 その日の午後、美咲は部屋の押し入れを再び開けた。

 昨夜見つけたノートは、そのまま置かれていた。


 中を開くと、ページの隅に、小さく折りたたまれたメモがあった。

 昨日は気づかなかった紙片。それを広げると、淡いインクでこう書かれていた。


 ――“贖罪は、誰かの許しで成立するんじゃない。自分が、許すところから始まるんだよ”


 涙が、またにじんだ。


 自分はずっと、“妹のことを許せなかった”のだ。


 いなくなったことも、

 死を選んだことも、

 自分をひとり残したことも。


 心の奥では、何かを責めていた。

 だがそれは、他人を責める言葉に見せかけた、自分自身への怒りだった。


「私が、勝手に……許せなかっただけ……」


 それに気づいた途端、喉の奥がひりついた。

 熱いものがせり上がってきて、息を吐くたびに涙が零れていく。


 贖罪という言葉が、胸に突き刺さる。

 自分が許さなかったのは、妹ではなく、自分自身だったのだ。


     *


 その夜、美咲は再び露天風呂を訪れた。

 空はすっかり晴れていて、満天の星が湯面に映っていた。


「来ると思ってました」


 灯が、湯の中に立っていた。

 すでに肩まで湯に浸かっていて、微笑んでいる。


「この宿は、“来るべき人が来る”って言われてるんです」


「……私、来るべきだったのかな」


「泣いたでしょ? だったら、来るべきだったってことです」


 灯は迷いなくそう答えた。


 美咲は湯に浸かりながら、ぽつりと呟く。


「罪って、誰が決めるんだろうね」


「罪に“法”があれば、それは誰かが決めるもの。でも“心の罪”は……自分が決めるしかないんです」


「……じゃあ、許すのも、自分?」


「そう。自分を許せるようになったら、そのとき初めて“ここに来た意味”がわかるのかも」


 湯気の向こうで、灯の輪郭がゆらいでいた。

 彼女の目が、どこか泣いたあとのように見えたのは、湯気のせいだろうか。


     *


 深夜。部屋に戻った美咲は、スマホの電源を入れた。


 通知はたまっていたが、その中に──一本の、未送信の下書きがあった。

 妹に送ろうとして、そのまま保存していたメッセージ。


 そこには、ただひとことだけ書かれていた。


 「まだ、話したいことがある」


 指先が震えた。

 もう、送る相手はいない。

 でも、送るべき言葉だけは、確かにここに残っている。


 美咲は、スマホをそっと伏せると、布団に横たわり、目を閉じた。


 湯の温もりが残る体を、心地よい疲労感が包んでいた。


 泣かせてくれた場所──

 それは、忘れるための場所じゃなかった。


 自分を思い出すための場所だった。

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