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第6話『遺されたノート』

その晩、美咲はなかなか布団に入る気になれなかった。

 夕食後に聞いた咲良の「……その人、本当に泊まってたのかな」という言葉が、頭の中に刺さったままだった。


 妹は確かにこの宿に来て、そして──何かを残していった。

 そう信じて来たのに。

 誰も彼女を覚えていない。帳簿にも名前がない。

 まるでこの宿そのものが、妹の“記憶だけ”を受け入れて、姿や声は湯の底に沈めてしまったようだった。


 無意識のうちに、部屋の中を見回していた。

 ふと、押し入れが目に入った。


 何の気なしに手を伸ばし、ふすまを開ける。

 そこには、予備の毛布と座布団、それから木箱がひとつ置かれていた。


 木箱を引き出し、蓋を開けると──その中に、一冊のノートがあった。


 薄いクリーム色の表紙に、赤いインクで「山椿の間」と書かれている。

 宿の部屋ごとに、こうしたノートが用意されているのかもしれない。


 開いてみると、最初の数ページには、何人かの宿泊客が書いたと思われる雑記が並んでいた。

 「夕飯がおいしかった」「静かに過ごせた」「また来たい」──

 ごくありふれた、旅の終わりの感想たち。


 だが、ページをめくる手が止まったのは、その途中にあった、明らかに異なる筆跡だった。


 ──わたしの言葉、読んでくれる人がいるかもしれないから。


 その一行から始まる数ページ。

 黒いボールペンの文字。文字の丸みと癖。

 間違いない、妹の筆跡だ。


 美咲の手が震える。

 心臓が、喉の奥で高鳴る。


 以下、ノートに書かれていた文章。


 ここには、音がない。

 人の声も少ないし、波の音も届かない。

 だから、わたしは自分の心の声を久しぶりに聞いた。


 「ごめんね」って。

 「ありがとう」って。

 でも、それを直接言うのは、もうできない。


 だから、この部屋に手紙を残します。

 わたしの言葉、誰かが読むかもしれないから。

 読んだ人が、少しでも自分の心をゆるしてくれたら、きっとわたしも、ゆるされると思う。


 ここは、何も聞かれない宿です。

 でも、何も否定しない宿でもあります。


 「いていいよ」って、誰も言わなかったけど、

 誰も「いなくなれ」とも言わなかった。


 それが、あたしにとっては救いでした。


 美咲はノートを閉じられなかった。

 震える手で、そっと次のページもめくる。

 そこにはもう何も書かれていなかった。

 けれど、その空白が、何よりも強く、美咲の胸に残った。


     *


 灯の言葉が、頭をよぎった。


 「記録にない人、たまにいますよ」

 「でも、湯は覚えてるんです」


 妹は、ここに“記憶”を残していた。

 名前も、顔も、もう誰も思い出せなくても、彼女の“声”だけが、まだこの部屋の片隅に生きていた。


 咲良の「その人、本当に泊まってたのかな」という疑念。

 それすらも、美咲にはもう気にならなかった。


 ──妹は、ここにいた。

 確かに、ここで言葉を残していた。


 それだけで、十分だった。


     *


 布団に入り、ノートを枕元に置いた。

 もう一度だけ、妹の文字を見つめた。

 “わたしも、ゆるされると思う”──その言葉が、やけに今の自分に響く。


 わたしは妹に、何もしてあげられなかった。

 でも、こうして彼女の声に出会えたのなら。

 せめて、これからは。


 ──誰かを、否定せずにいることができるかもしれない。


 美咲は、ノートに手を添えたまま、目を閉じた。

 そのまま、少し泣いた。


 それは後悔ではなく、感情が“ほどけた”涙だった。

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