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第5話『誰も知らない妹』

朝の食事を終えても、美咲の胸のざわつきは収まらなかった。

 帳簿に名前がないという事実が、単なる手続きの問題だと信じたい反面──

 妹・遥香の“存在”そのものが、この宿ではどこか空気のように扱われているような気がしていた。


 確かにいた。

 宿の前で撮ったあの写真がある。

 泊まったと本人が言っていた。

 最後の手紙にも、明確に「椿屋」という言葉があった。


 ならば、誰かが──覚えているはずだ。


     *


 「……この人を、見た記憶はありませんか?」


 朝食がひと段落し、配膳を終えた咲良を捕まえて、美咲はそう問いかけた。

 手にしていたのは、例の写真。

 赤い椿の木の下で微笑む、遥香の写真だった。


 咲良は箸を片づける手を止め、少し驚いたような顔をしてそれを受け取った。


 「……妹さん?」


 「はい。遥香です。三年前、この宿に泊まったはずなんです。本人も、そう言っていた。ここに来て、何かが変わったって。だけど……記録帳に名前がなくて」


 咲良は、じっと写真を見つめた。

 ほんの数秒。

 だがその間に、美咲は彼女の瞳が何度か細かく揺れたことに気づいた。


 「どうですか? 見たこと……」


 「……うーん」


 咲良は、視線を写真から離した。

 そのまま、どこか遠くを見つめるようにして言った。


 「正直、わからないです。なんとなく、“こんな雰囲気の人がいた気もする”ってくらいで」


 「雰囲気……?」


 「ごめんなさい。顔って、案外覚えてないんです。うち、日帰りの人も多いし、静かにしてる人も多くて」


 美咲は、うっすらとした失望を胸の奥に押し込んだ。

 だが、咲良の目が、一瞬だけ揺れたことを忘れていなかった。


 彼女は、何かを知っているのではないか。

 あるいは、知っていた記憶を、無理に見ないふりをしているのではないか。


 「……その人、本当に泊まってたのかな」


 ぽつりと、咲良がつぶやいた。


 その言葉に、胸がざわめいた。


 「それは、どういう意味ですか?」


 「記録にない。覚えてる人もいない。でも、写真はある。手紙もある。本人は“泊まった”と言っている──うーん、なんだろ。なんか、こう……境界にいる人って感じ」


 「境界?」


 「ここって、たまにそういう人が来るんです。いたのか、いなかったのか分からない人。

 “存在したけど、触れてはいけない”みたいな。

 そういう人って、こっちが近づこうとすると、不思議と記憶があやふやになってくるんですよ。変でしょ?」


 変なのは、彼女のその口調の方だった。


 咲良は、冗談を言っているような柔らかい表情のままで、淡々と話していた。

 だが、その目の奥には、何かを封じているような影があった。


     *


 午後、美咲は帳場の灯に、もう一度写真を見せてみた。


 「ごめんなさい。……その方の顔、わたし、たぶん見たことない」


 まっすぐに目を合わせながら、灯はそう言った。


 「でも、その木は覚えてますよ。玄関の椿。あの年の春は、珍しく一斉に咲いたんです。だから写真の時期は、たぶん三月末」


 「記憶には……顔は残ってない?」


 「顔って、霊よりも消えやすいんですよ。名前や声は、案外湯に残ってるのに」


 灯は微笑みながら言った。


 「記憶って、不思議ですよね。覚えてるはずなのに、思い出せない。逆に、忘れてたはずなのに、夢に出てくる。人間の脳って、あたしよりもよっぽど不気味です」


 「……“妹を覚えていない”ってことが、もう“妹がいなかった”ってことになっていくのが、怖いんです」


 そう漏らした美咲の言葉に、灯は静かに頷いた。


 「じゃあ、忘れないでいてください。誰も覚えてなくても、ひとりだけ覚えていれば、それでいい」


     *


 その夜、美咲は夢を見た。


 椿の木の下、誰かが立っていた。

 顔は見えない。声も聞こえない。

 けれど、その背格好と、ふとこちらを向く気配は──遥香だった。


 “誰かが忘れても、あの人はいた”

 そんな声が、湯気の向こうから聞こえた気がした。


 目が覚めると、天井の木目がゆっくり揺れていた。


 美咲はそっと立ち上がり、部屋の隅にある鏡に向かって言った。


 「私は……あなたを、覚えてる」


 その言葉が、誰にも届かなくても。

 この宿のどこかに、きっと“残る”と信じて。

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