第4話『不在という名の存在』
「……名前、ないですね」
そう言われた瞬間、喉の奥がきゅっと塞がるような感覚に襲われた。
咲良が手元の帳簿をそっと閉じる音が、やけに重たく響いた。
帳面は、宿の受付で管理されている記録帳だった。
宿泊日・名前・連絡先──几帳面な字でびっしりと書かれている。
あの年の、あの月の、あの週。美咲が示した期間は間違っていない。
だが、どこにも“遥香”の名はなかった。
「おかしいな……ちゃんと、ここに来たはずなんです。妹は、“椿屋に泊まった”って言ってたんです。写真も残ってる。玄関前で、笑ってて……」
美咲は手帳のポケットから、その一枚の写真を取り出した。
赤い椿の花が咲く玄関前、木の下で微笑む妹。
その背後に写る、あの掠れた「椿屋」の灯籠。間違いようがない。
咲良は黙って受け取り、写真をじっと見つめた。
けれど、目を細めるようにして、首を小さく振った。
「うーん……記憶って、自分に都合よく書き換わるものだから……。もしかして、ここに来ようとしてたけど、来れなかったとか……」
「……いいえ。泊まったんです。確かに」
少し強い声が出た。咲良が、わずかに肩をすくめる。
「そうかもね。でも、記録には残ってない」
不意に、奥から声がかかった。
「記録にない人、たまにいますよ」
振り返ると、調理場の入り口に柚葉が立っていた。
薄い色のエプロンに、白い料理帽。無表情のまま、湯気の立つ小鍋を手にしている。
「どういうことですか?」
美咲が問うと、柚葉は鍋のふたを見つめながら、さらりと答えた。
「名前を偽名にしたり、住所を書かなかったり。帳簿に“痕跡を残さない”ようにする人、たまにいます」
「うち、宿帳に厳しくないからね」と咲良が補足した。「本人が“書きたくない”って言ったら、それ以上追わない。トラブル防止のために」
「でも……何か事件とかがあったら……?」
「ないの。なぜか、うちでは」
咲良は肩をすくめ、笑った。
「ちゃんと帰っていくの。不思議と。なにかを置いて、なにかを手放して、ちゃんと。そういう宿なんです。変でしょ?」
美咲は、記録帳の上に置かれた自分の指先を見つめた。
名前がないだけで、“いなかった”ことになる。
証拠がなければ、記憶は疑われる。
けれど、妹は確かに「ここにいた」と言っていた。
手紙の文面にも、写真の背景にも、その“痕跡”は残っている。
ならなぜ、ここだけが、彼女を「記録していない」のか。
*
夕方、美咲は露天風呂の脱衣所で、湯上がりの柚葉とすれ違った。
いつもと変わらぬ無表情、そして淡々とした声だった。
「料理、残されていましたね」
「……すみません、ちょっと、食欲がなくて」
「人は、思い出しながらだと、味を感じられないものです」
柚葉は、タオルで髪を拭きながら続けた。
「料理って、五感で味わうものだと思われがちですけど、実際には“過去の記憶”で味が決まるんです。誰と食べたか、どんな気持ちでいたか。記憶が味を変える」
「妹の……好きだった料理が出て、驚きました」
「あなたの顔を見て、そういう味が浮かんだだけです。私は、記憶を読んでるわけじゃない。ただ、目を見れば、足りないものは分かりますから」
「……それ、よく言われますか?」
柚葉は、ほんの少しだけ、口角を上げた。
それは、笑いというよりも、皮肉に近かった。
「たまに“気味が悪い”とは」
*
部屋に戻ると、枕元に小さな紙片が置かれていた。
手書きの文字で、こう書かれていた。
「名を刻まずに帰った人のことも、椿屋は覚えています」
──灯より。
美咲はその紙をしばらく眺めていた。
この宿には、記録に残らない記憶がある。
見えないけれど、確かに“いた”という存在が、どこかに滲んでいる。
“存在しないこと”と“忘れられていること”は、似ているようでまるで違う。
椿屋は、それを分けているのかもしれない。
そしてこの宿は、今日も何も語らず、ただ静かに湯を湛えていた。