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第3話『湯の底に沈む言葉』

露天風呂は、離れの裏手にあった。

 灯籠に照らされた石畳の小径を抜けると、竹垣に囲まれた湯屋が現れる。

 湯気がふわりと鼻先をかすめ、潮の香りが混じる風が髪を揺らした。夜の平潟温泉は、静かだった。


 湯に入るつもりはなかった。

 眠れずに廊下を歩いていたら、なんとなく、ここまで来てしまっただけだった。

 だが、その気配に気づいたのは、暖簾の向こうから聞こえてきた、ひとつの声だった。


 「……この湯にはね、忘れたい記憶が棲んでいるの」


 女の声だった。あの妙な言い回し、覚えがある。

 ──女将、灯。


 美咲は足を止めた。

 すぐ向こうで誰かが湯に浸かっている。だがその口調は、まるで誰かと話しているようにも思える。


 「でもね、ただの記憶じゃない。“沈めたいけど、沈みきらない”って、そういうやつ。何度も浮いてきて、湯気みたいにまとわりついてくるの。あたしはそれを“未了の思い”って呼んでる」


 誰かと会話しているわけではなさそうだった。

 ひとりで、語っている。あるいは──湯に向かって、語りかけている。


 「でも、それが悪いわけじゃないの。忘れられないことがあるから、人はあったかくなれるのよ。……たぶんね」


 聞いてはいけない気がして、美咲はそっと踵を返しかけた。

 だが、灯の次の言葉で、足が止まった。


 「“椿屋なら、許してくれるかも”──なんか、そんなこと言ってた人がいたな。昔」


 胸が、きゅっと鳴った。


 それは──聞き覚えがある。

 あのノートに書かれていた、妹・遥香の最後の言葉だった。


 “また行きたい。椿屋なら、許してくれるかもしれない”


 なぜ、灯がその言葉を知っている?


 美咲は、迷った末に声をかけた。


 「……どなたか、知り合いの方の話ですか?」


 風呂の湯面が揺れ、灯が振り返った。

 湯気越しに浮かぶ彼女の輪郭は、いつもより静かに見えた。


 「んー……わかんない。顔も名前も覚えてないの。でもね、そういう言葉って、湯に残るのよ。湯が“聞いてる”って感じ」


 「湯が……聞く?」


 「うん。このお湯、ずっとこの場所に流れてるからね。人の声も、気配も、記憶も、全部吸い込んじゃう。で、ふとしたときに、ぽんって出てくるの」


 どこまで本気なのか分からない。けれど、冗談には聞こえなかった。


 「貴女の背後にも、何かが“寄って”きてたよ。来たとき、そう思った」


 「妹の……遥香って子のこと、何か覚えていませんか?」


 灯は、静かに湯に身を沈めた。

 目を閉じ、しばらくのあいだ何も言わなかった。


 「ごめん。ほんとに、顔も記録も、何もないの。咲良も言ってたでしょ。記録に残らない人、たまにいるの。あたし、そういう人の言葉だけを、ときどき思い出すの」


 「それは……なぜ?」


 「きっと、聞いたの。わたしじゃなくて、この湯が。……変な話だけど」


 灯は、少し笑った。


 「でも、安心して。椿屋はそういう場所。覚えていないことも、ちゃんと“そこにあった”ってことにする場所」


     *


 客室に戻った美咲は、荷物の奥から小さな封筒を取り出した。

 妹が残した、たった一枚の手紙。何度も読み返して、もう内容は暗記してしまっている。


 ──お姉ちゃんへ。


 ──きっと怒ってるよね。全部言えなくてごめん。

   でも、私のこと、全部聞かれてたらきっと苦しかったと思う。

   だから最後まで言えなかった。

   でもね、椿屋は、何も聞いてこなかったの。

   あそこなら、私を許してくれるかもしれないって、思った。


 ──また、行きたいな。……もし叶うなら。


 この手紙を読んだとき、美咲はずっと、“椿屋が妹に何かをしてくれた”と思っていた。

 でも今、違う考えが頭をよぎっていた。


 ──あの子は、何かを求めたのではなく、何も求められない場所を探していたのかもしれない。


 許してくれる場所。

 正しくなくても、答えを出せなくても、責められない場所。


 椿屋は、そういう宿なのかもしれない。


 あたたかいのに、少し寒い。

 優しいのに、どこか突き放す。

 湯の底に、誰かの声が棲んでいるような──そんな、不思議な場所だった。

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