第2話『鏡の中の気配』
その夜、美咲はなかなか眠れなかった。
風呂に入っても、布団にくるまっても、どこか肌がざわつく。心が落ち着かない。
冷えてきた夜気が、襖の隙間からするりと入り込んでくるせいか──それとも、さっきの女将の言葉のせいか。
“この部屋、たまに“感情の残留”が強く出るんです”
あの台詞を言ったときの、女将──灯の目は真剣だった。
冗談とも本気とも取れず、美咲はただ苦笑してやり過ごしたが、心のどこかに引っかかっている。
ふと、水が飲みたくなって立ち上がった。
ポットに湯を注ぎ、湯呑みに冷ましながらふと視線を横に向けると──
鏡があった。
部屋の隅の、小さな鏡台。
昔ながらの木枠に囲まれた、年季の入った鏡。その前に誰かが座っていたような気配が、なぜか拭えない。
湯呑みを持ったまま、そっと近づく。
椅子に座り、正面から鏡をのぞき込んだ。
自分の顔が、そこにある。
少し疲れた目。濡れた髪が頬に貼りついていた。
だが──そのすぐ、後ろ。
何かが、いた。
ほんの一瞬だった。
自分の肩の後ろに、誰かの輪郭が見えた気がした。
──長い髪。小さな顔。こちらを見つめる、妹のような影。
「……はっ」
思わず振り返った。
だが、誰もいなかった。
静まり返った部屋に、布団が敷かれ、湯気がまだ漂っているだけ。
──気のせい。
でも、美咲は湯呑みを持つ手が震えていることに気づいた。
*
夕食の時間、案内された食事処は宿の一角にある「月見亭」という離れだった。
縁側の奥にあるその空間は、思った以上に落ち着いていた。
灯りは暗すぎず、天井も高い。外には海が見える。
ただ──座布団に座って待っていると、いきなり不意打ちの一皿が出された。
「本日の先付け、『初恋を埋めた土の香』です」
配膳した咲良がさらりと言った。
「……え?」
「ご安心ください、味はただの胡麻豆腐です。料理長がどうしても名前を付けたがるんです」
思わず、笑ってしまった。
そうだ。これがこの宿だった。まともなことばかりを期待してはいけない。
口に運ぶと、たしかに胡麻豆腐だった。
だが、なぜか懐かしい味がした。
ふわりと鼻を抜ける香り。出汁のやわらかさ。少しだけ、家庭的な温もりが混じっている。
──あの子が、好きだったな。胡麻豆腐。
ふいに、妹のことを思い出した。
遥香は甘いものより、こういう素朴な料理を好んだ。
美咲が仕事で遅くなり、適当に夕食を用意していた頃、遥香は自分で胡麻豆腐を買ってきていた。
「これだけあれば、わたしはいいよ」と、笑って。
なんでもない記憶が、不意に胸に刺さる。
口の中の豆腐のやわらかさが、そのまま涙腺に伝わるようで──美咲は箸を置いた。
「……すみません。ちょっと……、美味しすぎて」
咲良は、何も聞かずにただ頷いた。
「料理長、すごいでしょ。何も聞いてないのに、その人の“好きだったもの”を作るみたいなとこ、あるんです」
「なんで……そんなことが……」
「わかりません。でも、時々あるんです。お客さんが“泣く料理”。なんにも特別な味じゃないのに、涙が出るって」
ふいに、あの鏡の影が脳裏をかすめた。
──あれも幻覚だったのか。
でも、今、自分の中で確かに何かが震えている。
「妹さん……」
咲良が静かに言った。
「うちの宿、記憶を閉じ込める場所じゃなくて、流す場所なんです。だから、泣いても大丈夫ですよ」
その言葉に、美咲は何も言えなかった。
*
夜風が冷たい。
客室へ戻る廊下の途中、庭の椿の葉が月明かりに濡れていた。
ふと目をやると、露天風呂の灯が揺れている。
湯けむりの向こうに、誰かの背中が見えた。
おそらく、灯か柚葉だろう。
だが──その後ろ姿は、妹に似ていた。
またしても、ほんの一瞬の錯覚かもしれない。
けれど美咲は、手に残るあたたかさと、胸の奥に残ったあの味の記憶を、ずっと手放せずにいた。