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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第14話『舞台のない女優』

夜の帳が下り、五浦の海岸に潮騒が優しく重なるころ――椿屋旅館の一室に、ひときわ賑やかな笑い声が響いた。


「ほんとですか? まさか、あの劇団“虹の鈴蘭”の演出助手さんだったなんて!」


 咲良は思わず声を上げていた。客のひとりが、ぽつりと話したその肩書きに、彼女の鼓動が跳ねるように弾んだ。


 「まあまあ、今は引退同然なんですけどね。……いやしかし、まさかこの宿に来て、こんなに楽しい接客を受けるとは」


 演出助手の“元”肩書きを持つその男性は、俳優たちの癖やアドリブの話を披露しては、囲炉裏の前で宿の客たちを笑わせていた。


 咲良もそこにいた。


 最初はお茶を配り、ちゃっかりと座布団の端に腰を下ろし、話に相槌を打つだけのつもりだった。


 ……けれど。


「咲良ちゃんて、演劇やってたんじゃなかったっけ?」


 それは、まさかの柚葉の一言だった。


「え、ちょ、ちょっと……!」


 咲良は思わず湯呑みを取り落としそうになった。


「ご、ごめん、でも……こないだ妹さん、来てたときに話してたよ。“姉は昔、女優志望で、家族に迷惑かけてた”って」


 「~~っ、あのバカ妹……!」


 客たちが、どっと笑う。けれど、そのなかで演出助手の男性は、にやりと意味ありげに笑った。


「なるほどねぇ。……それで、あんたの仕草、なんとなく舞台出身者の気配を感じてたのか。……やってみるかい? 即席の芝居」


「えっ」


「台本なんていらない。シチュエーションはそうだな……“旅館の娘が、旅人に恋をする”ってやつで。どう?」


 咲良の背筋に、ゾクリとした電流のような何かが走った。


 舞台。

 忘れたはずの。

 見上げるだけだった。

 立てなかった――あの、光の海。


 だが、彼女は静かに、ほんの少しだけ笑った。


「……いいですよ」


 


 * * *


 


 舞台は、座敷の中央。


 照明代わりの灯りは、囲炉裏の火と行灯だけ。


 客たちはちゃぶ台を囲んで半円形に座り、期待と笑いの入り混じった視線を向ける。


 咲良は深く息を吸い込んだ。


 その瞬間。


 ――“咲良”は、そこにいなかった。


 


 代わりに現れたのは、“ある宿の娘”。


 やがて、部屋の戸をゆっくりと開ける仕草をし、すっと頭を下げる。


「お帰りなさいませ、お客様。……あの、突然こんなことを申し上げるのは変かもしれませんけれど」


 客たちは息を呑む。


 咲良の声色が、まるで違っていた。


「わたし……あなたが、この宿を選んでくれた理由が知りたかったのです。海が綺麗だから? 料理が美味しそうだったから? でも、どこか……疲れた顔をされているように見えて」


 咲良は、少し膝を折る。


 表情の陰影までが、まるで別人のようだった。


「……もしも、ほんの一晩だけでも。ここが“戻りたい場所”になってくれたら。あなたが、もう一度歩いていくその朝に、背中を押せる場所になれたら……」


 声が震えた。


 演技なのか、本心なのか。誰にも分からなかった。


 けれど、客のひとりが、そっと涙をぬぐった。


 咲良は、その姿に気づきながらも、語りを続けた。


「わたし、ずっと“立てなかった場所”がありました。……人の心を揺らす舞台に立つことが、怖くなった時期もあって。でも」


 ふ、と顔を上げて微笑む。


「笑ってくれる人がいるなら、わたしはこの場所でも、何かを演じられる気がします。……たとえ舞台がなくても、拍手がなくても」


 


 最後の言葉とともに、深い礼をした。


 


 座敷が、静まり返る。


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。


 


 けれど、一拍遅れて。


 「……よっ!」


 ひとりの客が、手を叩いた。


 それは次第に広がり、座敷はあたたかな拍手に包まれた。


 


 咲良は、その中心でゆっくりと頭を下げた。


 目尻に、光るものがあった。


 


 * * *


 


 夜更け。


 演出助手の男性が、咲良にそっと声をかける。


「……見事だったよ。あの空間全部、“あんたの舞台”だった」


 咲良は、苦笑する。


「ありがとうございます。……でも、まだ怖いんです。本当の舞台に戻るのは」


「そりゃあ当然さ。怖くないやつなんて、誰もいない」


 彼は、懐から古びたパンフレットを取り出して見せた。


「次の小劇場公演。オーディション、ある。……別に、出なくてもいい。ただ、あんたの名前だけは、演出家に伝えとくよ。あんたの芝居、“心が震えた”って」


 咲良の目が、わずかに見開かれる。


「……っ」


「……立てなかった夢も、人を笑わせて泣かせられるなら、まだ生きてる。そうだろ?」


 


 咲良は、こくりと頷いた。


 「ありがとうございます。……でも、もうしばらくは、ここでやらせてください。椿屋という小さな舞台で」


 それは、未練ではなく、選んだ道。


 彼女の中で、夢は死んでいなかった。


 かつて立てなかった舞台は、ここにあった。


 


 畳と座布団と、そして笑いと涙のあるこの旅館が、彼女にとっての“舞台”だった。


 今はまだ、舞台裏の娘でも。


 いつかきっと、堂々と――幕が上がる日が来るのだと、彼女は信じられるようになっていた。

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