第14話『舞台のない女優』
夜の帳が下り、五浦の海岸に潮騒が優しく重なるころ――椿屋旅館の一室に、ひときわ賑やかな笑い声が響いた。
「ほんとですか? まさか、あの劇団“虹の鈴蘭”の演出助手さんだったなんて!」
咲良は思わず声を上げていた。客のひとりが、ぽつりと話したその肩書きに、彼女の鼓動が跳ねるように弾んだ。
「まあまあ、今は引退同然なんですけどね。……いやしかし、まさかこの宿に来て、こんなに楽しい接客を受けるとは」
演出助手の“元”肩書きを持つその男性は、俳優たちの癖やアドリブの話を披露しては、囲炉裏の前で宿の客たちを笑わせていた。
咲良もそこにいた。
最初はお茶を配り、ちゃっかりと座布団の端に腰を下ろし、話に相槌を打つだけのつもりだった。
……けれど。
「咲良ちゃんて、演劇やってたんじゃなかったっけ?」
それは、まさかの柚葉の一言だった。
「え、ちょ、ちょっと……!」
咲良は思わず湯呑みを取り落としそうになった。
「ご、ごめん、でも……こないだ妹さん、来てたときに話してたよ。“姉は昔、女優志望で、家族に迷惑かけてた”って」
「~~っ、あのバカ妹……!」
客たちが、どっと笑う。けれど、そのなかで演出助手の男性は、にやりと意味ありげに笑った。
「なるほどねぇ。……それで、あんたの仕草、なんとなく舞台出身者の気配を感じてたのか。……やってみるかい? 即席の芝居」
「えっ」
「台本なんていらない。シチュエーションはそうだな……“旅館の娘が、旅人に恋をする”ってやつで。どう?」
咲良の背筋に、ゾクリとした電流のような何かが走った。
舞台。
忘れたはずの。
見上げるだけだった。
立てなかった――あの、光の海。
だが、彼女は静かに、ほんの少しだけ笑った。
「……いいですよ」
* * *
舞台は、座敷の中央。
照明代わりの灯りは、囲炉裏の火と行灯だけ。
客たちはちゃぶ台を囲んで半円形に座り、期待と笑いの入り混じった視線を向ける。
咲良は深く息を吸い込んだ。
その瞬間。
――“咲良”は、そこにいなかった。
代わりに現れたのは、“ある宿の娘”。
やがて、部屋の戸をゆっくりと開ける仕草をし、すっと頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お客様。……あの、突然こんなことを申し上げるのは変かもしれませんけれど」
客たちは息を呑む。
咲良の声色が、まるで違っていた。
「わたし……あなたが、この宿を選んでくれた理由が知りたかったのです。海が綺麗だから? 料理が美味しそうだったから? でも、どこか……疲れた顔をされているように見えて」
咲良は、少し膝を折る。
表情の陰影までが、まるで別人のようだった。
「……もしも、ほんの一晩だけでも。ここが“戻りたい場所”になってくれたら。あなたが、もう一度歩いていくその朝に、背中を押せる場所になれたら……」
声が震えた。
演技なのか、本心なのか。誰にも分からなかった。
けれど、客のひとりが、そっと涙をぬぐった。
咲良は、その姿に気づきながらも、語りを続けた。
「わたし、ずっと“立てなかった場所”がありました。……人の心を揺らす舞台に立つことが、怖くなった時期もあって。でも」
ふ、と顔を上げて微笑む。
「笑ってくれる人がいるなら、わたしはこの場所でも、何かを演じられる気がします。……たとえ舞台がなくても、拍手がなくても」
最後の言葉とともに、深い礼をした。
座敷が、静まり返る。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
けれど、一拍遅れて。
「……よっ!」
ひとりの客が、手を叩いた。
それは次第に広がり、座敷はあたたかな拍手に包まれた。
咲良は、その中心でゆっくりと頭を下げた。
目尻に、光るものがあった。
* * *
夜更け。
演出助手の男性が、咲良にそっと声をかける。
「……見事だったよ。あの空間全部、“あんたの舞台”だった」
咲良は、苦笑する。
「ありがとうございます。……でも、まだ怖いんです。本当の舞台に戻るのは」
「そりゃあ当然さ。怖くないやつなんて、誰もいない」
彼は、懐から古びたパンフレットを取り出して見せた。
「次の小劇場公演。オーディション、ある。……別に、出なくてもいい。ただ、あんたの名前だけは、演出家に伝えとくよ。あんたの芝居、“心が震えた”って」
咲良の目が、わずかに見開かれる。
「……っ」
「……立てなかった夢も、人を笑わせて泣かせられるなら、まだ生きてる。そうだろ?」
咲良は、こくりと頷いた。
「ありがとうございます。……でも、もうしばらくは、ここでやらせてください。椿屋という小さな舞台で」
それは、未練ではなく、選んだ道。
彼女の中で、夢は死んでいなかった。
かつて立てなかった舞台は、ここにあった。
畳と座布団と、そして笑いと涙のあるこの旅館が、彼女にとっての“舞台”だった。
今はまだ、舞台裏の娘でも。
いつかきっと、堂々と――幕が上がる日が来るのだと、彼女は信じられるようになっていた。




