第13話『味噌汁と、母からの手紙』
朝の台所に、ふんわりと白い湯気が立ち上っていた。
まな板の上には刻んだ大根、手元の鍋には昆布と煮干しで取った出汁が、まだ静かに沸く前の音を立てている。
柚葉は、包丁を握ったまま、しばし動かなかった。
指先がわずかに震えていた。
その傍ら、古びた便箋が一通、炊飯器の蓋の上に置かれていた。
それは――数日前、突然届いた、亡き母からの手紙だった。
* * *
「柚葉、あて名が“旧姓”のままだよ。これ、どうする?」
先日、宿のポストから咲良が持ち帰ってきたその封筒は、どこか懐かしさを感じさせる花柄の縁取りに包まれていた。
差出人の名前は――“母・千絵”。
けれど、彼女はもう、数年前にこの世を去っていた。
「……あの日、たしかに見送った。火葬場の白い煙まで見届けた。なのに、どうして」
咲良は静かにうなずいた。
「きっと、送れなかったんだよ。書いたけど、出せなかった。あるいは、出したけど、どこかで迷子になってたのかも」
封を開けるのが、怖かった。
でも、それ以上に――開けずにいるのは、もっと怖かった。
柚葉は、その夜、灯のいない事務室の片隅で、便箋を取り出した。
《柚葉へ。手紙なんて、照れくさいけどね》
最初の一文で、涙がこみ上げた。
字は丸く、どこか慣れない様子で、でも確かに母の筆跡だった。
《あんたの料理、正直なところ、最初はちょっと変わってるなって思ってたよ。ピーマンの味噌炒めにバター入れたり、味噌汁に梅干し入れたり。でも、いつの間にか家の味になってた。不思議だね》
《台所に立つ姿を、何度も何度も見てたよ。背伸びしながらお味噌汁をかき混ぜるあんたを、後ろから見てる時間が、母さんにとっては“いちばん母親だった”時間だった》
《どこに行っても、自分の味を忘れないで。たとえ誰かに「普通すぎる」って言われたって、それでいいんだよ。家庭の味っていうのは、誰かの心を毎日支える“静かな奇跡”だから》
《母さんは、あんたの味が好きだったよ。何より、あんたが、それを誰かのために作ろうとするその手が、誇らしかった》
便箋の最後には、こう綴られていた。
《今度生まれ変わっても、またあんたの味噌汁が飲みたいな。できれば、そのときも、朝の台所で一緒に笑いながら》
その瞬間――柚葉の手から、便箋がふわりと落ちた。
唇を噛み、肩を震わせ、声にならない嗚咽がこみ上げた。
* * *
そして今日。
その手紙を受け取った数日後の朝。
柚葉は、ふたたび台所に立っていた。
「……今日は、少し濃いめにしよう」
そうつぶやき、赤味噌をすくって鍋に溶かす。白味噌と合わせるのは、子供の頃、母と一緒に作った“混ぜ味噌”の記憶からだった。
具材は、豆腐とわかめ、そして柔らかく炊いた里芋。
ささやかな食材に、丁寧な包丁が入る。
鍋の縁から立ちのぼる湯気は、涙で曇った視界の向こうで、母の背中と重なる。
(……こんなに、懐かしいんだ)
その香りだけで、胸がいっぱいになった。
咲良が台所の戸から顔を出す。
「……あ、なんか今日、いい匂い」
「味噌汁……なの。ちょっと、特別な朝の」
「特別?」
柚葉は、振り向いて小さく笑った。
「うん。……母に、ようやく“いただきます”を言える気がして」
そう言った瞬間、涙がこぼれた。
鍋を見つめながら、もう一度、深く息を吸う。
「わたし……“家庭の味”でよかったんだね」
包丁を持つ手が、もう震えていなかった。
* * *
その日の朝食、宿の客たちは口々に言った。
「味噌汁が、妙に沁みるねえ……なんだろう、これ」
「うん。昔のおふくろの味に、ちょっと似てるかも」
柚葉はそれを聞きながら、台所でそっと笑う。
言葉はなくても、伝わる。
家庭の味は、手紙のようだ。
読まれなくても、思いを込めて届けるもの。
そして、誰かの心に、きっと届いているもの。
台所の窓を開けると、潮風が通り抜ける。
母の匂いを連れてくるような、懐かしい風だった。
その中に立つ柚葉の背中は、少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。




