表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/27

第13話『味噌汁と、母からの手紙』

朝の台所に、ふんわりと白い湯気が立ち上っていた。


 まな板の上には刻んだ大根、手元の鍋には昆布と煮干しで取った出汁が、まだ静かに沸く前の音を立てている。


 柚葉は、包丁を握ったまま、しばし動かなかった。


 指先がわずかに震えていた。


 その傍ら、古びた便箋が一通、炊飯器の蓋の上に置かれていた。


 


 それは――数日前、突然届いた、亡き母からの手紙だった。


 


 * * *


 


 「柚葉、あて名が“旧姓”のままだよ。これ、どうする?」


 先日、宿のポストから咲良が持ち帰ってきたその封筒は、どこか懐かしさを感じさせる花柄の縁取りに包まれていた。


 差出人の名前は――“母・千絵”。


 けれど、彼女はもう、数年前にこの世を去っていた。


 「……あの日、たしかに見送った。火葬場の白い煙まで見届けた。なのに、どうして」


 咲良は静かにうなずいた。


 「きっと、送れなかったんだよ。書いたけど、出せなかった。あるいは、出したけど、どこかで迷子になってたのかも」


 封を開けるのが、怖かった。


 でも、それ以上に――開けずにいるのは、もっと怖かった。


 柚葉は、その夜、灯のいない事務室の片隅で、便箋を取り出した。


 


 《柚葉へ。手紙なんて、照れくさいけどね》


 


 最初の一文で、涙がこみ上げた。


 字は丸く、どこか慣れない様子で、でも確かに母の筆跡だった。


 


 《あんたの料理、正直なところ、最初はちょっと変わってるなって思ってたよ。ピーマンの味噌炒めにバター入れたり、味噌汁に梅干し入れたり。でも、いつの間にか家の味になってた。不思議だね》


 


 《台所に立つ姿を、何度も何度も見てたよ。背伸びしながらお味噌汁をかき混ぜるあんたを、後ろから見てる時間が、母さんにとっては“いちばん母親だった”時間だった》


 


 《どこに行っても、自分の味を忘れないで。たとえ誰かに「普通すぎる」って言われたって、それでいいんだよ。家庭の味っていうのは、誰かの心を毎日支える“静かな奇跡”だから》


 


 《母さんは、あんたの味が好きだったよ。何より、あんたが、それを誰かのために作ろうとするその手が、誇らしかった》


 


 便箋の最後には、こう綴られていた。


 


 《今度生まれ変わっても、またあんたの味噌汁が飲みたいな。できれば、そのときも、朝の台所で一緒に笑いながら》


 


 その瞬間――柚葉の手から、便箋がふわりと落ちた。


 唇を噛み、肩を震わせ、声にならない嗚咽がこみ上げた。


 


 * * *


 


 そして今日。


 その手紙を受け取った数日後の朝。


 柚葉は、ふたたび台所に立っていた。


 「……今日は、少し濃いめにしよう」


 そうつぶやき、赤味噌をすくって鍋に溶かす。白味噌と合わせるのは、子供の頃、母と一緒に作った“混ぜ味噌”の記憶からだった。


 具材は、豆腐とわかめ、そして柔らかく炊いた里芋。


 ささやかな食材に、丁寧な包丁が入る。


 鍋の縁から立ちのぼる湯気は、涙で曇った視界の向こうで、母の背中と重なる。


 


 (……こんなに、懐かしいんだ)


 


 その香りだけで、胸がいっぱいになった。


 咲良が台所の戸から顔を出す。


 「……あ、なんか今日、いい匂い」


 「味噌汁……なの。ちょっと、特別な朝の」


 「特別?」


 柚葉は、振り向いて小さく笑った。


 「うん。……母に、ようやく“いただきます”を言える気がして」


 そう言った瞬間、涙がこぼれた。


 鍋を見つめながら、もう一度、深く息を吸う。


 「わたし……“家庭の味”でよかったんだね」


 包丁を持つ手が、もう震えていなかった。


 


 * * *


 


 その日の朝食、宿の客たちは口々に言った。


 「味噌汁が、妙に沁みるねえ……なんだろう、これ」


 「うん。昔のおふくろの味に、ちょっと似てるかも」


 柚葉はそれを聞きながら、台所でそっと笑う。


 言葉はなくても、伝わる。


 家庭の味は、手紙のようだ。


 読まれなくても、思いを込めて届けるもの。


 そして、誰かの心に、きっと届いているもの。


 


 台所の窓を開けると、潮風が通り抜ける。


 母の匂いを連れてくるような、懐かしい風だった。


 その中に立つ柚葉の背中は、少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ