第12話『心の鍵、掛け違えて』
椿屋には、ひとつだけ“使われない部屋”がある。
それは二階の一番奥、海に面した松の間。畳は今も新しく、障子も毎年張り替えられているのに、いつ誰が尋ねても「こちらの部屋は、現在ご案内できません」と断られる。
予約が詰まっているわけでも、設備に不具合があるわけでもない。ただ、その部屋には――鍵がかかっていた。
* * *
その日の午前、咲良はいつものように掃除道具を手に、各部屋の戸を順に開けていた。
春の陽が差し込む縁側は、どの部屋もぽかぽかとして、宿が生き物のように呼吸しているのを感じる。彼女は、仕事をしながらもふとした拍子に口ずさんでいた。
「♪湯けむり越しに、誰か笑ってる~」
鼻歌まじりに布団を上げ終え、次の部屋へと手をかける。
――と、指先が止まった。
松の間の戸が、ほんのわずかに開いていたのだ。
「あれ……?」
鍵が掛かっていたはずの扉が、なぜか引き戸の隙間をあけている。咲良は戸惑いながらも、手を伸ばす。
「もしかして、誰か入っちゃったのかな……?」
ノブに手をかけ、軽く開けた。
そこには――息を呑むほど、静謐な空気があった。
まるで、時間が閉じ込められたような空間。干支の小さな置物が整然と並び、床の間には色あせた花の掛け軸。畳に射す陽光は、淡く黄味がかっていて、他の部屋よりも何年も前の光のように感じられた。
そして、その奥。
箪笥の上に、フレームに入った一枚の古い婚礼写真があった。
男と女。昭和の匂いを残す白黒のその写真には、女の方だけが、はっきりと灯の面影を残していた。
咲良は思わず口に手を当てる。
「……これ、女将さん……?」
声に出した瞬間、自分が“見てはならないもの”を見ているような感覚に陥った。
そのとき、写真の隣、引き出しの中からふと紙がはみ出しているのに気づく。
手紙だった。
封は開いていない。宛名は、にじんだ墨でこう書かれていた。
──『陽へ』
誰の字だろう。陽とは、きっとあの写真の男の名前なのかもしれない。
咲良の胸が、妙な高鳴りを見せたそのとき。
「……その部屋は、閉じたままでいいのよ」
後ろから、静かな声がした。
振り返ると、そこに灯が立っていた。
「ご、ごめんなさいっ……! 鍵が開いてたから、てっきり……」
咲良が慌てて頭を下げると、灯は歩み寄り、ゆっくりと戸を閉める。
「春はね、ときどき鍵が緩むのよ。潮気と木の膨張で、こうして、忘れたものが風に押し出されることがあるの」
「忘れた……もの?」
「ええ。私はもう、“ここ”に置いてきたの」
灯は、かつての自分を振り返るように、うっすらと笑う。
「その人はね、昔この宿に泊まりに来た旅の人だったのよ。毎年、桜の季節だけ。必ず、同じ日に現れて、同じ部屋に泊まるの」
咲良は息をのむ。
「まるで、約束でもしていたみたいに?」
「ええ。そういうのを“季節の人”って言うのよ。会えば春が来る人」
灯は言う。
「でも、ある春の終わりに、手紙だけが届いたの。『もう、今年は行けません』って。……それから、あの部屋は空いたまま」
咲良は手に持っていた手紙を差し出した。
「これ……読まなくていいんですか?」
灯は、ほんの少しだけ手を伸ばし――けれど、触れる寸前で止めた。
「鍵はね、掛け違えてもいいの。だけど、二度と開けなくて済むようにするには、触れずにいられることが必要なのよ」
その言葉の重みを、咲良はまだ理解しきれなかった。
* * *
その日の夜、椿屋はほんの少しだけ早く灯りを落とした。
灯はロビーの隅、いつもの座椅子に座っていた。
手には、あの開かずの部屋の鍵。
小さな鉄製の、重みのある鍵だった。
指先で回しながら、彼女は独りごとのように呟く。
「心の鍵って、不思議ね。誰かのために開けていたつもりが、気づくと自分が閉じ込められてる」
「……だから私は、もう開けないの。この部屋も、あの春も」
その傍らで、風鈴が一つ、遠くの記憶を撫でるように揺れた。
鍵は、静かに、引き出しの奥にしまわれた。
忘れないまま、忘れるために。




