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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第12話『心の鍵、掛け違えて』

椿屋には、ひとつだけ“使われない部屋”がある。


 それは二階の一番奥、海に面した松の間。畳は今も新しく、障子も毎年張り替えられているのに、いつ誰が尋ねても「こちらの部屋は、現在ご案内できません」と断られる。


 予約が詰まっているわけでも、設備に不具合があるわけでもない。ただ、その部屋には――鍵がかかっていた。


 * * *


 その日の午前、咲良はいつものように掃除道具を手に、各部屋の戸を順に開けていた。


 春の陽が差し込む縁側は、どの部屋もぽかぽかとして、宿が生き物のように呼吸しているのを感じる。彼女は、仕事をしながらもふとした拍子に口ずさんでいた。


 「♪湯けむり越しに、誰か笑ってる~」


 鼻歌まじりに布団を上げ終え、次の部屋へと手をかける。


 ――と、指先が止まった。


 松の間の戸が、ほんのわずかに開いていたのだ。


 「あれ……?」


 鍵が掛かっていたはずの扉が、なぜか引き戸の隙間をあけている。咲良は戸惑いながらも、手を伸ばす。


 「もしかして、誰か入っちゃったのかな……?」


 ノブに手をかけ、軽く開けた。


 そこには――息を呑むほど、静謐な空気があった。


 まるで、時間が閉じ込められたような空間。干支の小さな置物が整然と並び、床の間には色あせた花の掛け軸。畳に射す陽光は、淡く黄味がかっていて、他の部屋よりも何年も前の光のように感じられた。


 そして、その奥。


 箪笥の上に、フレームに入った一枚の古い婚礼写真があった。


 男と女。昭和の匂いを残す白黒のその写真には、女の方だけが、はっきりと灯の面影を残していた。


 咲良は思わず口に手を当てる。


 「……これ、女将さん……?」


 声に出した瞬間、自分が“見てはならないもの”を見ているような感覚に陥った。


 そのとき、写真の隣、引き出しの中からふと紙がはみ出しているのに気づく。


 手紙だった。


 封は開いていない。宛名は、にじんだ墨でこう書かれていた。


 ──『陽へ』


 誰の字だろう。あきらとは、きっとあの写真の男の名前なのかもしれない。


 咲良の胸が、妙な高鳴りを見せたそのとき。


 「……その部屋は、閉じたままでいいのよ」


 後ろから、静かな声がした。


 振り返ると、そこに灯が立っていた。


 「ご、ごめんなさいっ……! 鍵が開いてたから、てっきり……」


 咲良が慌てて頭を下げると、灯は歩み寄り、ゆっくりと戸を閉める。


 「春はね、ときどき鍵が緩むのよ。潮気と木の膨張で、こうして、忘れたものが風に押し出されることがあるの」


 「忘れた……もの?」


 「ええ。私はもう、“ここ”に置いてきたの」


 灯は、かつての自分を振り返るように、うっすらと笑う。


 「その人はね、昔この宿に泊まりに来た旅の人だったのよ。毎年、桜の季節だけ。必ず、同じ日に現れて、同じ部屋に泊まるの」


 咲良は息をのむ。


 「まるで、約束でもしていたみたいに?」


 「ええ。そういうのを“季節の人”って言うのよ。会えば春が来る人」


 灯は言う。


 「でも、ある春の終わりに、手紙だけが届いたの。『もう、今年は行けません』って。……それから、あの部屋は空いたまま」


 咲良は手に持っていた手紙を差し出した。


 「これ……読まなくていいんですか?」


 灯は、ほんの少しだけ手を伸ばし――けれど、触れる寸前で止めた。


 「鍵はね、掛け違えてもいいの。だけど、二度と開けなくて済むようにするには、触れずにいられることが必要なのよ」


 その言葉の重みを、咲良はまだ理解しきれなかった。


 


 * * *


 


 その日の夜、椿屋はほんの少しだけ早く灯りを落とした。


 灯はロビーの隅、いつもの座椅子に座っていた。


 手には、あの開かずの部屋の鍵。


 小さな鉄製の、重みのある鍵だった。


 指先で回しながら、彼女は独りごとのように呟く。


 「心の鍵って、不思議ね。誰かのために開けていたつもりが、気づくと自分が閉じ込められてる」


 「……だから私は、もう開けないの。この部屋も、あの春も」


 


 その傍らで、風鈴が一つ、遠くの記憶を撫でるように揺れた。


 鍵は、静かに、引き出しの奥にしまわれた。


 忘れないまま、忘れるために。



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