第11話『見送る番頭、追いかける旅人』
午後の椿屋は、ひときわ静かだった。
春霞がかかった海は、どこまでも淡く、その奥にあるはずの水平線さえ、今日はにじんで見えなかった。
その宿に、一人の“迷子”がやってきたのは、チェックインの一時間ほど前。
まだ髪に海風の潮気を残したまま、青年はフロントに立ち、目元を覆う前髪の隙間からこちらを見ていた。
「……一泊で」
悠真はそのとき、予約リストにはない名を見つけ、首を傾げる。
「飛び込みのお客さま、でしょうか?」
「はい。……なんか、そういう宿って、ここっぽい気がしたんで」
どこか場違いなほど若い──たぶん十九か二十そこらだろう。大きなリュックに、洗っていないようなくたびれたトレーナー。肩の綿が偏ったリュックサックの紐を握りしめる手は、細くて、少し震えているようにも見えた。
宿帳に書かれた名前は「田所 慎一」とあった。
偽名かどうかは、悠真は聞かない。
咲良が廊下から顔を出して、「あっ、新しいお客さん?」と聞いてくる。
「客室、まだ整ってないと思うけど──」
「お部屋、桔梗の間でいいです。準備してあげて」
悠真が言うと、咲良は少し驚いたように瞬いた。
「……あそこ、海がよく見える部屋だよ? 空いてたけど……」
「“見える景色”が必要そうだったから」
その言葉に、咲良は何も言わず、静かに頷いた。
* * *
夕食後、客が各部屋に戻っていくころ、厨房での洗い物を終えた柚葉がふと言った。
「あの子……ちょっと、匂いが似てる」
「誰に?」
悠真が問い返すと、柚葉は手を拭きながら、窓の外を見やった。
「うちを出てった弟に、似てた」
それだけ言って、彼女はもう話題を変えた。
“出ていく”という言葉は、椿屋の誰もが、どこかに持っている傷だった。
その夜の風呂あがり、悠真はロビーの隅で、缶コーヒーを飲んでいた。
慎一が、ふらりと現れた。
「……あ、お兄さん。さっきはありがと」
「うん。ちゃんと眠れたか?」
「……まあまあ。あの、風呂すげえ良かったっす。めちゃくちゃ沁みた」
そう言って、少しだけ笑った顔が、どこか無防備だった。
「ねえ、お兄さんって、ここの人なん?」
「番頭……みたいなもんだよ。仕事の肩書きはあいまいだけどね」
「ふーん……じゃ、逃げなかった人なんだ」
その一言に、缶コーヒーの温度が少しだけ重くなった気がした。
悠真は、少しだけ口元をほぐして言った。
「……逃げたよ。ここに来たのが、それだった」
慎一は言葉を失ったように、少しだけ視線を落とした。
「……そっか。俺も、逃げてきた」
「うん」
「でも、逃げ場所ってさ、そんな簡単には見つからないんだよな……」
しばらく無言が続いたあと、彼は椅子を立った。
「明日、帰る」
「うん」
「多分、実家には戻らない。……でも、ありがとう」
そう言って、彼は部屋に戻っていった。
その背中を見送ったとき、悠真の胸の奥に、小さな痛みがよぎった。
──誰かに「逃げた」と言われると、昔の自分が返事をする。
逃げたことが、悪いとは思わない。
だが、それを「終わり」にできたかというと、そうではない。
* * *
翌日。午前八時。
チェックアウトを済ませた慎一は、宿の外でしばらく空を見ていた。
「じゃ、行きます」
咲良が「気をつけてね」と手を振る。
その横で、悠真は何も言わず立っていた。
慎一の乗ったバスが坂を下りる。
十五分後、悠真は帳場の前にいた咲良に声をかけた。
「ちょっと……外、回ってくる」
「掃除当番、代わってあげようか?」
「……お願い」
その日、悠真は駅前の古い待合室に立っていた。
電車の発車ベルが鳴る。改札口から姿を現した慎一が、車両の奥へと乗り込んでいく。
誰にも見られないように、悠真は小さく帽子を目深にかぶり、列車が動き出すのを見送った。
──人は、誰かの旅立ちを見送ることで、自分の居場所を確かめているのかもしれない。
汽笛が遠ざかる。
悠真はその場を離れ、駅のベンチに腰をかけた。
手に持っていたのは、彼が持たせた紙袋。
中には、柚葉が作ったおにぎりと、灯が黙って差し出した白湯の水筒。
「逃げてもいいけど、ちゃんと食べろよ」
小さくつぶやいた声は、海風にさらわれて、春霞の中に消えていった。




