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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第11話『見送る番頭、追いかける旅人』

午後の椿屋は、ひときわ静かだった。


 春霞がかかった海は、どこまでも淡く、その奥にあるはずの水平線さえ、今日はにじんで見えなかった。


 その宿に、一人の“迷子”がやってきたのは、チェックインの一時間ほど前。


 まだ髪に海風の潮気を残したまま、青年はフロントに立ち、目元を覆う前髪の隙間からこちらを見ていた。


 「……一泊で」


 悠真はそのとき、予約リストにはない名を見つけ、首を傾げる。


 「飛び込みのお客さま、でしょうか?」


 「はい。……なんか、そういう宿って、ここっぽい気がしたんで」


 どこか場違いなほど若い──たぶん十九か二十そこらだろう。大きなリュックに、洗っていないようなくたびれたトレーナー。肩の綿が偏ったリュックサックの紐を握りしめる手は、細くて、少し震えているようにも見えた。


 


 宿帳に書かれた名前は「田所 慎一」とあった。


 偽名かどうかは、悠真は聞かない。


 


 咲良が廊下から顔を出して、「あっ、新しいお客さん?」と聞いてくる。


 「客室、まだ整ってないと思うけど──」


 「お部屋、桔梗の間でいいです。準備してあげて」


 悠真が言うと、咲良は少し驚いたように瞬いた。


 「……あそこ、海がよく見える部屋だよ? 空いてたけど……」


 「“見える景色”が必要そうだったから」


 その言葉に、咲良は何も言わず、静かに頷いた。


 


 


 * * *


 


 夕食後、客が各部屋に戻っていくころ、厨房での洗い物を終えた柚葉がふと言った。


 「あの子……ちょっと、匂いが似てる」


 「誰に?」


 悠真が問い返すと、柚葉は手を拭きながら、窓の外を見やった。


 「うちを出てった弟に、似てた」


 それだけ言って、彼女はもう話題を変えた。


 “出ていく”という言葉は、椿屋の誰もが、どこかに持っている傷だった。


 


 


 その夜の風呂あがり、悠真はロビーの隅で、缶コーヒーを飲んでいた。


 慎一が、ふらりと現れた。


 「……あ、お兄さん。さっきはありがと」


 「うん。ちゃんと眠れたか?」


 「……まあまあ。あの、風呂すげえ良かったっす。めちゃくちゃ沁みた」


 そう言って、少しだけ笑った顔が、どこか無防備だった。


 「ねえ、お兄さんって、ここの人なん?」


 「番頭……みたいなもんだよ。仕事の肩書きはあいまいだけどね」


 「ふーん……じゃ、逃げなかった人なんだ」


 その一言に、缶コーヒーの温度が少しだけ重くなった気がした。


 悠真は、少しだけ口元をほぐして言った。


 「……逃げたよ。ここに来たのが、それだった」


 


 慎一は言葉を失ったように、少しだけ視線を落とした。


 「……そっか。俺も、逃げてきた」


 「うん」


 「でも、逃げ場所ってさ、そんな簡単には見つからないんだよな……」


 


 しばらく無言が続いたあと、彼は椅子を立った。


 「明日、帰る」


 「うん」


 「多分、実家には戻らない。……でも、ありがとう」


 そう言って、彼は部屋に戻っていった。


 その背中を見送ったとき、悠真の胸の奥に、小さな痛みがよぎった。


 ──誰かに「逃げた」と言われると、昔の自分が返事をする。


 逃げたことが、悪いとは思わない。


 だが、それを「終わり」にできたかというと、そうではない。


 


 


 * * *


 


 翌日。午前八時。


 チェックアウトを済ませた慎一は、宿の外でしばらく空を見ていた。


 「じゃ、行きます」


 咲良が「気をつけてね」と手を振る。


 その横で、悠真は何も言わず立っていた。


 


 慎一の乗ったバスが坂を下りる。


 


 十五分後、悠真は帳場の前にいた咲良に声をかけた。


 「ちょっと……外、回ってくる」


 「掃除当番、代わってあげようか?」


 「……お願い」


 


 その日、悠真は駅前の古い待合室に立っていた。


 電車の発車ベルが鳴る。改札口から姿を現した慎一が、車両の奥へと乗り込んでいく。


 誰にも見られないように、悠真は小さく帽子を目深にかぶり、列車が動き出すのを見送った。


 


 ──人は、誰かの旅立ちを見送ることで、自分の居場所を確かめているのかもしれない。


 


 汽笛が遠ざかる。


 悠真はその場を離れ、駅のベンチに腰をかけた。


 手に持っていたのは、彼が持たせた紙袋。


 中には、柚葉が作ったおにぎりと、灯が黙って差し出した白湯の水筒。


 


 「逃げてもいいけど、ちゃんと食べろよ」


 


 小さくつぶやいた声は、海風にさらわれて、春霞の中に消えていった。



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