第10話『台所に棲む幽霊』
朝の台所は、いつも湯気と出汁の香りに満ちている。
椿屋の厨房は、裏山の木々の朝露が揺れるころ、最初の火を灯す。鍋を火にかける音、まな板を叩く音、味噌を溶く音。どれもが、目覚めの支度だ。
その日も、柚葉は他の仲居たちより一足先に厨房へ入った。白衣に袖を通し、三角巾をきっちり締め、木桶に汲んであった水にそっと手を入れる。
──冷たい。
その感触に目を細めながら、指先を広げる。今日もまた、変わらぬ一日が始まる。そう思っていた。
だが、その“箱”が届いたのは、午前の納品が一段落したころだった。
宅配業者が運んできた、細長い木箱。茶色い和紙にくるまれたそれは、送り主の名が、彼女の鼓動を一瞬止めた。
──藤間 慧。
それは、かつての“先輩”だった料理人の名前。
椿屋に来る前、まだ二十代だった頃。柚葉が修行していた都内の割烹料理店。その厨房で、彼女はその名の人と一緒に鍋の前に立っていた。
淡々と料理を仕上げる人だった。厳しかったが、嘘はなかった。
──だが、自分は……その人の店を、途中で辞めた。
箱を持つ手が震える。
「……どうしたの?」
背後から声がした。振り向くと、咲良が小首を傾げて立っていた。昨夜、灯に守られたばかりの咲良。けれど、彼女の表情には、どこか今朝から“強さ”の芯が戻っているようにも見えた。
柚葉は微笑を返しながら、「なんでもないよ」とだけ言った。
その箱は、誰にも見られないように厨房の奥、戸棚のさらに奥へとしまった。
──だが、幽霊は消えない。
その日の夕餉の支度中、彼女は鯛の昆布締めを引いていて、思わず包丁を握る手を止めた。
左手の添え方が甘い──そう思った瞬間、記憶の中で“怒声”が響いたのだ。
《包丁が泣いている》
藤間がかつて放った、その一言。
何年経っても、あの厨房の空気が蘇る。淡々と、だが冷酷なまでに正確な調理工程。その中で、自分はずっと“評価されない若手”だった。
失敗もあった。出汁の分量を間違えた。焼き目を見落とした。客の苦情が入った──。
だがそれでも、柚葉はその厨房に居たかった。あの人に追いつきたかった。
──だけど、最後は。
柚葉は自ら店を去った。
辞表を置き、何も告げず、夜の厨房を背にして歩いたあの日。
「……まな板、少し赤いわよ?」
灯の声だった。
見ると、指の先から細く血がにじんでいた。鯛の小骨が皮膚を裂いていたことにすら気づかなかった。
「あ……すみません」
「大丈夫?」
「ええ……大丈夫です。昔、こういうことよくありました」
口にした瞬間、柚葉は自分でも驚いた。まるで、“あの頃の記憶”が、今この宿の湯気の中に戻ってきているようだった。
その夜、柚葉は箱を開けた。
静かな厨房の隅で、他の誰もいない時間。咲良も寝静まり、悠真も帳場を閉めた深夜。灯だけが、まだ館内のどこかにいたかもしれないが──誰にも話すつもりはなかった。
包丁だった。
細身で鋭く、よく研がれた柳刃。
柄の部分に、柚葉の手書きで昔記した“ゆずは”の刻印が、うっすらと残っていた。
「……帰ってきちゃったんだね」
そうつぶやいたとき、手がまた震えた。
なぜ、今送ってきたのか。藤間は何を思ってこの包丁を自分に戻したのか。
刃先に触れず、そっと置いたまま、柚葉は火を入れた鍋の前に立った。
湯気が立ちのぼる。
出汁の匂いが、鼻をつく。
昔の自分は、この匂いにすら怯えていた。失敗すれば怒鳴られる。仕込みが狂えば、一日が地獄だった。
けれど──今。
この宿の台所では、誰も怒鳴らない。
失敗すれば、灯が「やり直そう」と言い、咲良が笑いながら手伝ってくれる。悠真が、何も言わずに出汁を足してくれる。
あの頃の厨房にはなかったものが、今はここにある。
──じゃあ、今の自分が握るべき包丁は、どっちだ?
柚葉は、棚から静かにその包丁を取り出した。
少し、重みがあった。
手が震える。だが、それでも、柚葉はまな板の前に立った。
鰆の切り身。白子を取るつもりだった。食材のための刃先、客のための一手。
震える指先で、彼女はそっと包丁を握った。
……刃が、走った。
引く。
引く。
研ぎ澄まされた刃が、鰆の白子を滑らかに断つ。
かつて、何十回も失敗した技だった。けれど──今夜は、できた。
柚葉は、台所の静けさの中で、誰にも見られぬように、ふっと笑った。
涙が滲んだ。
──あの厨房を辞めたことは、いまだに“敗北”だと思っていた。
けれど今、違うと思えた。
ここで包丁を持ち直すことができたのは、咲良が涙を流す場所があって、灯が背を見せてくれたから。悠真が、名を呼ばれないまま、静かに支えてくれていたから。
柚葉は、包丁を拭いて棚に戻した。
その夜、厨房の奥に、もう一つまな板が置かれた。
「この包丁を使う日は、まだ時々でいい」と彼女はつぶやいた。
けれど、柚葉の中にいた“厨房の幽霊”は、もう姿を消していた。
次の日、朝の味噌汁は、いつもよりほんの少しだけ、塩味が柔らかかった。
咲良が気づいた。
「ねえ、今日の……なんか、優しい味する」
柚葉は、にこりと微笑んだ。
「うん。たぶん、それでいいと思うの」
台所に棲んでいたものは、もう、そこにはいなかった。




