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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第10話『台所に棲む幽霊』

朝の台所は、いつも湯気と出汁の香りに満ちている。


 椿屋の厨房は、裏山の木々の朝露が揺れるころ、最初の火を灯す。鍋を火にかける音、まな板を叩く音、味噌を溶く音。どれもが、目覚めの支度だ。


 その日も、柚葉は他の仲居たちより一足先に厨房へ入った。白衣に袖を通し、三角巾をきっちり締め、木桶に汲んであった水にそっと手を入れる。


 ──冷たい。


 その感触に目を細めながら、指先を広げる。今日もまた、変わらぬ一日が始まる。そう思っていた。


 だが、その“箱”が届いたのは、午前の納品が一段落したころだった。


 宅配業者が運んできた、細長い木箱。茶色い和紙にくるまれたそれは、送り主の名が、彼女の鼓動を一瞬止めた。


 ──藤間 慧。


 それは、かつての“先輩”だった料理人の名前。


 椿屋に来る前、まだ二十代だった頃。柚葉が修行していた都内の割烹料理店。その厨房で、彼女はその名の人と一緒に鍋の前に立っていた。


 淡々と料理を仕上げる人だった。厳しかったが、嘘はなかった。


 ──だが、自分は……その人の店を、途中で辞めた。


 箱を持つ手が震える。


「……どうしたの?」


 背後から声がした。振り向くと、咲良が小首を傾げて立っていた。昨夜、灯に守られたばかりの咲良。けれど、彼女の表情には、どこか今朝から“強さ”の芯が戻っているようにも見えた。


 柚葉は微笑を返しながら、「なんでもないよ」とだけ言った。


 その箱は、誰にも見られないように厨房の奥、戸棚のさらに奥へとしまった。


 


 ──だが、幽霊は消えない。


 


 その日の夕餉の支度中、彼女は鯛の昆布締めを引いていて、思わず包丁を握る手を止めた。


 左手の添え方が甘い──そう思った瞬間、記憶の中で“怒声”が響いたのだ。


 《包丁が泣いている》


 藤間がかつて放った、その一言。


 何年経っても、あの厨房の空気が蘇る。淡々と、だが冷酷なまでに正確な調理工程。その中で、自分はずっと“評価されない若手”だった。


 失敗もあった。出汁の分量を間違えた。焼き目を見落とした。客の苦情が入った──。


 だがそれでも、柚葉はその厨房に居たかった。あの人に追いつきたかった。


 ──だけど、最後は。


 柚葉は自ら店を去った。


 辞表を置き、何も告げず、夜の厨房を背にして歩いたあの日。


 


「……まな板、少し赤いわよ?」


 灯の声だった。


 見ると、指の先から細く血がにじんでいた。鯛の小骨が皮膚を裂いていたことにすら気づかなかった。


「あ……すみません」


「大丈夫?」


「ええ……大丈夫です。昔、こういうことよくありました」


 口にした瞬間、柚葉は自分でも驚いた。まるで、“あの頃の記憶”が、今この宿の湯気の中に戻ってきているようだった。


 


 その夜、柚葉は箱を開けた。


 静かな厨房の隅で、他の誰もいない時間。咲良も寝静まり、悠真も帳場を閉めた深夜。灯だけが、まだ館内のどこかにいたかもしれないが──誰にも話すつもりはなかった。


 包丁だった。


 細身で鋭く、よく研がれた柳刃。


 柄の部分に、柚葉の手書きで昔記した“ゆずは”の刻印が、うっすらと残っていた。


 


「……帰ってきちゃったんだね」


 


 そうつぶやいたとき、手がまた震えた。


 なぜ、今送ってきたのか。藤間は何を思ってこの包丁を自分に戻したのか。


 刃先に触れず、そっと置いたまま、柚葉は火を入れた鍋の前に立った。


 湯気が立ちのぼる。


 出汁の匂いが、鼻をつく。


 昔の自分は、この匂いにすら怯えていた。失敗すれば怒鳴られる。仕込みが狂えば、一日が地獄だった。


 けれど──今。


 この宿の台所では、誰も怒鳴らない。


 失敗すれば、灯が「やり直そう」と言い、咲良が笑いながら手伝ってくれる。悠真が、何も言わずに出汁を足してくれる。


 あの頃の厨房にはなかったものが、今はここにある。


 


 ──じゃあ、今の自分が握るべき包丁は、どっちだ?


 


 柚葉は、棚から静かにその包丁を取り出した。


 少し、重みがあった。


 手が震える。だが、それでも、柚葉はまな板の前に立った。


 鰆の切り身。白子を取るつもりだった。食材のための刃先、客のための一手。


 震える指先で、彼女はそっと包丁を握った。


 ……刃が、走った。


 引く。


 引く。


 研ぎ澄まされた刃が、鰆の白子を滑らかに断つ。


 かつて、何十回も失敗した技だった。けれど──今夜は、できた。


 柚葉は、台所の静けさの中で、誰にも見られぬように、ふっと笑った。


 涙が滲んだ。


 


 ──あの厨房を辞めたことは、いまだに“敗北”だと思っていた。


 けれど今、違うと思えた。


 ここで包丁を持ち直すことができたのは、咲良が涙を流す場所があって、灯が背を見せてくれたから。悠真が、名を呼ばれないまま、静かに支えてくれていたから。


 


 柚葉は、包丁を拭いて棚に戻した。


 その夜、厨房の奥に、もう一つまな板が置かれた。


 「この包丁を使う日は、まだ時々でいい」と彼女はつぶやいた。


 


 けれど、柚葉の中にいた“厨房の幽霊”は、もう姿を消していた。


 次の日、朝の味噌汁は、いつもよりほんの少しだけ、塩味が柔らかかった。


 咲良が気づいた。


 「ねえ、今日の……なんか、優しい味する」


 柚葉は、にこりと微笑んだ。


 「うん。たぶん、それでいいと思うの」


 台所に棲んでいたものは、もう、そこにはいなかった。

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