第9話『灯が立った夜』
その夜の椿屋には、潮の音が少し強く響いていた。
月は雲間に隠れて、星の姿もほとんど見えない。だが、館の中には、いつものように灯りがともり、どこか穏やかで、あたたかな時間が流れているように見えた。
咲良はその夜、帳場の帳面を閉じて、ふっと深いため息をついた。
舞台に立つことを夢見ていた自分。あの頃の夢を思い出してしまったせいで、胸の奥がまだ少し苦しい。けれど、それでも前を向こうとする気持ちを、今日の“宿の仕事”の中で取り戻しつつあった。
──けれど、その空気が壊れたのは、その客がやってきてからだった。
「……なんだよ、この宿。仲居がやけにフレンドリーでよォ。まるで劇団員の真似事でもしてんのか?」
酔いの回った客が吐き出すようにそう言ったのは、遅めの夕食後のことだった。
咲良が、食後の茶を下げに行った際、テーブル越しにその言葉が投げかけられた。
咲良は一瞬、笑顔を崩さずに対応しようとした。
だが、客の次の言葉が、胸の奥を切り裂いた。
「オレ、知ってるんだよ。あんた、昔、舞台目指してたって。……見たぞ、ネットの投稿。誰も知らねー劇団の……何年も前のやつ」
咲良の手が、ふるりと震えた。
その瞬間だった。
静かな空気を割って、障子がすっと開いた。
「──その辺でやめていただけますか」
その声が、空気を変えた。
椿屋の女将、灯がそこに立っていた。
常のように白い和装に身を包み、髪をきっちりと結い上げている。けれど、彼女の背には、いつもよりもはるかに大きな気配があった。
「うちは、演技の宿ではありません。客をもてなす宿です」
灯の声は冷たくもなく、怒気を含んでもいない。だが、その言葉の一つひとつが、ぴたりと空間を凍らせるような静けさを孕んでいた。
酔客は一瞬、黙り込んだ。
「……なんだよ、女将が出てくんのか。ちょっと冗談を言っただけだろ」
客がうそぶく。
灯は一歩、静かに足を進めた。
「“冗談”というのは、相手が笑ってこそ成立するものです。今、笑っている人が一人でも、ここにいますか?」
咲良は、はっとして息を呑んだ。
客が何かを言いかけたが、それよりも先に、灯は続けた。
「申し訳ありませんが……お引き取りください。今夜のご宿泊は、ここまでとさせていただきます」
──館中が、凍りついたようだった。
客は口ごもり、やがて苦笑いを浮かべたまま、部屋へと戻っていった。
その背中を見送った後、灯はふう、とひとつため息をついた。
「……派手なことは、苦手なのですけれどね」
ぽつりとこぼした声に、咲良の目に涙がにじんだ。
「……女将さん、かっこよすぎる……っ」
そう言った瞬間、咲良の中にあった痛みや、悔しさ、羞恥や怒りといった感情が、一気に噴き出してきた。
涙は止まらなかった。
「わたし、全部見透かされてたのに……何も言わずに、ずっと黙っててくれて……ずるいよ……!」
灯はその涙を、拭くこともしなかった。
ただ、そっと咲良の背中に手を置いた。
「演じた時間は、偽物ではないわ。咲良さんが誰かの前に立ち続けたその時間も──今、こうして人を迎えている姿も。どちらも、あなたの一部です」
灯の言葉は、まるで五浦の波の音のように、深くて、どこかあたたかかった。
咲良は、その言葉に全身をゆだねながら、声を殺して泣いた。
館の外には、まだ波音が続いていた。
だが、咲良の心の中には、ようやくひとつ、潮が引くように感情のざわめきが静かになっていく気配があった。
──灯という人は、不思議だ。
どこまでも静かで、時には冷たくさえ見えるのに。
けれどその奥には、誰よりも強くて、あたたかな「芯」がある。
咲良は、その夜、初めて“椿屋の女将”という存在の意味を、心から理解した気がした。
夜が明けるころ、咲良は目を赤くしたまま、帳場に戻っていた。
そこに、いつものように悠真がやってきて、何も言わずに湯呑みを一つ、そっと置いた。
白湯だった。
ふ、と咲良は微笑んだ。
「……やっぱ、この宿って、優しすぎるよね」
椿屋の朝が、またひとつ、静かに始まっていった。




