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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第9話『灯が立った夜』

その夜の椿屋には、潮の音が少し強く響いていた。


 月は雲間に隠れて、星の姿もほとんど見えない。だが、館の中には、いつものように灯りがともり、どこか穏やかで、あたたかな時間が流れているように見えた。


 咲良はその夜、帳場の帳面を閉じて、ふっと深いため息をついた。


 舞台に立つことを夢見ていた自分。あの頃の夢を思い出してしまったせいで、胸の奥がまだ少し苦しい。けれど、それでも前を向こうとする気持ちを、今日の“宿の仕事”の中で取り戻しつつあった。


 ──けれど、その空気が壊れたのは、その客がやってきてからだった。


 「……なんだよ、この宿。仲居がやけにフレンドリーでよォ。まるで劇団員の真似事でもしてんのか?」


 酔いの回った客が吐き出すようにそう言ったのは、遅めの夕食後のことだった。


 咲良が、食後の茶を下げに行った際、テーブル越しにその言葉が投げかけられた。


 咲良は一瞬、笑顔を崩さずに対応しようとした。


 だが、客の次の言葉が、胸の奥を切り裂いた。


 「オレ、知ってるんだよ。あんた、昔、舞台目指してたって。……見たぞ、ネットの投稿。誰も知らねー劇団の……何年も前のやつ」


 咲良の手が、ふるりと震えた。


 その瞬間だった。


 静かな空気を割って、障子がすっと開いた。


 「──その辺でやめていただけますか」


 その声が、空気を変えた。


 椿屋の女将、灯がそこに立っていた。


 常のように白い和装に身を包み、髪をきっちりと結い上げている。けれど、彼女の背には、いつもよりもはるかに大きな気配があった。


 「うちは、演技の宿ではありません。客をもてなす宿です」


 灯の声は冷たくもなく、怒気を含んでもいない。だが、その言葉の一つひとつが、ぴたりと空間を凍らせるような静けさを孕んでいた。


 酔客は一瞬、黙り込んだ。


 「……なんだよ、女将が出てくんのか。ちょっと冗談を言っただけだろ」


 客がうそぶく。


 灯は一歩、静かに足を進めた。


 「“冗談”というのは、相手が笑ってこそ成立するものです。今、笑っている人が一人でも、ここにいますか?」


 咲良は、はっとして息を呑んだ。


 客が何かを言いかけたが、それよりも先に、灯は続けた。


 「申し訳ありませんが……お引き取りください。今夜のご宿泊は、ここまでとさせていただきます」


 ──館中が、凍りついたようだった。


 客は口ごもり、やがて苦笑いを浮かべたまま、部屋へと戻っていった。


 その背中を見送った後、灯はふう、とひとつため息をついた。


 「……派手なことは、苦手なのですけれどね」


 ぽつりとこぼした声に、咲良の目に涙がにじんだ。


 「……女将さん、かっこよすぎる……っ」


 そう言った瞬間、咲良の中にあった痛みや、悔しさ、羞恥や怒りといった感情が、一気に噴き出してきた。


 涙は止まらなかった。


 「わたし、全部見透かされてたのに……何も言わずに、ずっと黙っててくれて……ずるいよ……!」


 灯はその涙を、拭くこともしなかった。


 ただ、そっと咲良の背中に手を置いた。


 「演じた時間は、偽物ではないわ。咲良さんが誰かの前に立ち続けたその時間も──今、こうして人を迎えている姿も。どちらも、あなたの一部です」


 灯の言葉は、まるで五浦の波の音のように、深くて、どこかあたたかかった。


 咲良は、その言葉に全身をゆだねながら、声を殺して泣いた。


 館の外には、まだ波音が続いていた。


 だが、咲良の心の中には、ようやくひとつ、潮が引くように感情のざわめきが静かになっていく気配があった。


 ──灯という人は、不思議だ。


 どこまでも静かで、時には冷たくさえ見えるのに。


 けれどその奥には、誰よりも強くて、あたたかな「芯」がある。


 咲良は、その夜、初めて“椿屋の女将”という存在の意味を、心から理解した気がした。


 夜が明けるころ、咲良は目を赤くしたまま、帳場に戻っていた。


 そこに、いつものように悠真がやってきて、何も言わずに湯呑みを一つ、そっと置いた。


 白湯だった。


 ふ、と咲良は微笑んだ。


 「……やっぱ、この宿って、優しすぎるよね」


 椿屋の朝が、またひとつ、静かに始まっていった。

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