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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第8話『咲良、夢の途中』

宿の朝は、いつも炊きたてのごはんの匂いから始まる。


 土間の隅で白い湯気を上げる土鍋。味噌汁の出汁がゆるやかに煮立つ音。火鉢の炭の赤が、まだ眠たげな天井にほのかな明かりを映している。すべてが静かで、やさしい。


 咲良は、その朝の景色の中で箸を持ちながら、少しだけ目をそらしていた。


 「……お姉ちゃん、今日も“決めた量”より少なくよそってる」


 ふいに向かいから声が飛んできた。妹の小春だった。


 「……朝からそんなこと言わないでよ」


 「だって、お姉ちゃん、昨日の夜も茶碗空けてなかったでしょ。帳場戻ってきたら、目赤かったし」


 咲良は茶碗の縁に箸先をそっと置いた。白米の湯気が、顔の前で曖昧に揺れる。


 「ほんとに、何でも見てるんだから。小春は」


 「お姉ちゃんが隠すのが下手なんだよ。だってさ、昨日のお客さん、“約束を守るためだけに来てる”って……あれ、ちょっと泣いてたでしょ」


 咲良は答えず、ごはんをひと口、そっと運んだ。けれど噛む力が入らない。


     *


 昼前。


 帳場に陽が差し込むころ、布団を干す音が静かに続いていた。


 裏手で干していた灯がふと顔をあげると、縁側で小春が咲良と何かを話していた。

 いや、正確には──咲良が何かを言われて、黙り込んでいた。


 「……劇団員、目指してたんだよね? お姉ちゃん」


 その声が、風に乗って灯の耳にも届いた。


 咲良の身体が、ぴたりと止まる。


 「やめてよ……」


 「なんで? 別に恥ずかしいことじゃないじゃん」


 「そういう話、いま関係ないでしょ」


 「でも……」


 「やめてって言ってるでしょ!」


 咲良の声が、乾いた昼の空に刺さった。


 灯は何も言わず、干していた布団にもう一度手をかけた。

 それが、彼女なりの“そっとしておく”合図だった。


     *


 夕方。


 宿の裏手にある倉庫で、咲良は一人、積み上げた座布団の整理をしていた。


 陽が落ちる直前の光は、倉庫の隙間から柔らかく差し込んでいた。埃が光に混じってふわふわと舞い、まるで舞台袖に立つ前の、あの控え室の空気のようだった。


 咲良は、目を伏せて思い出す。


 ──小さな劇団だった。

 高校を出てすぐ、東京に出て、夢を追って。けれど、現実は厳しくて、配役はつかなくて、台詞もない端役ばかりで、それでも笑って「やれることは全部やる」と言い続けた。


 だが、ある日限界が来た。


 先輩に言われた言葉が、いまでも耳に残っている。


 「君って、観客の目を“意識しすぎる”んだよ。舞台に立つってのは、自分じゃなく“作品”になるってことだ」


 そして、静かに外された──次の台本から。


 演出の人は、咲良に言った。


 「戻ってきたいなら、また連絡ちょうだい。でも、それまでに……いまの自分、ちゃんと壊してきな」


 壊すことができなかった。


 咲良は劇団に戻らず、地元へ帰り、気がついたらこの宿で働いていた。

 理由もなく。ただ、帰ってきてしまった。


 「……私、何してんだろ」


 その言葉に、誰も答えない。


 倉庫の埃だけが、静かに宙を舞っていた。


     *


 夜。


 帳場での仕事を終えたあと、咲良は灯の部屋を訪ねた。

 障子を叩くと、中から「いいよ」と声がして、そっと入る。


 ちゃぶ台の上には湯呑みがひとつ。

 灯は黙って差し出す。咲良がそれを両手で受け取り、黙って口をつける。


 「……劇団員だったって、バレちゃった」


 「知ってたわよ」


 「え?」


 「最初から。だって、朝の掃除のときに鼻歌でミュージカル歌ってたし。あと、たまに鏡の前で動きの練習してるの、全部見てた」


 咲良は、ふと目を潤ませた。


 「じゃあ……なんで何も言わなかったの?」


 「言ってほしかった?」


 「ううん、違う……でも、なんか……自分が、すっごく、つまんない人間になった気がして」


 咲良は湯呑みを両手でぎゅっと握った。


 「舞台に立てなかった。台詞も与えられなかった。何度も努力したけど……“あなたじゃない”って言われ続けて」


 「ここに戻ってきたとき、もう“何かを目指す”ことが、怖くなってた。だから、ここに居れば、それでいいって、自分に言い聞かせて──」


 そこで、咲良は涙をこぼした。


 「でも、昨日のお客さん見てて思ったの。“待ち続ける”ってことが、こんなに強いなんて思わなかった。

 あの人は、誰にも見られないのに、誰の拍手もないのに、ずっと同じ場所に立ってた。……それって、舞台と同じだよね……」


 灯は黙って聞いていた。


 そして、一言。


 「ここだって、舞台よ」


 咲良が顔を上げる。


 「だって、誰かを迎えるって、役を演じることと似てるわ。気持ちを整えて、姿勢を正して、相手の目を見て、笑顔で挨拶する。

 それは演技じゃない。“演じる”って、うそをつくことじゃないの。“想いを伝えること”よ」


 咲良の目が、涙でにじむ。


 「……私、まだ立てるかな。“舞台”に」


 灯はうなずいた。


 「あなたはもう、立ってるじゃない。ここに。毎日、“誰かの一瞬”に立ってる」


 咲良は、しゃくりあげながら、うんと頷いた。


 灯は最後に言った。


 「夢っていうのは、“形”じゃない。立つ場所を選ばない。立ち続けることを選ぶ人にだけ、続いていくのよ」


 咲良は泣きながら、笑っていた。


     *


 翌朝。


 咲良は、いつもの量よりも少しだけ多くごはんをよそった。


 それに気づいた小春が、ふふっと笑って言う。


 「……なんか、今日は“主役”みたいだね」


 咲良は照れたように返す。


 「主役なんて、まだ早いよ。せいぜい“元気なお姉さん役”かな」


 でも、その声には、ちゃんと芯があった。


 その日の宿の朝は、またひとつやさしくなっていた。



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