第8話『咲良、夢の途中』
宿の朝は、いつも炊きたてのごはんの匂いから始まる。
土間の隅で白い湯気を上げる土鍋。味噌汁の出汁がゆるやかに煮立つ音。火鉢の炭の赤が、まだ眠たげな天井にほのかな明かりを映している。すべてが静かで、やさしい。
咲良は、その朝の景色の中で箸を持ちながら、少しだけ目をそらしていた。
「……お姉ちゃん、今日も“決めた量”より少なくよそってる」
ふいに向かいから声が飛んできた。妹の小春だった。
「……朝からそんなこと言わないでよ」
「だって、お姉ちゃん、昨日の夜も茶碗空けてなかったでしょ。帳場戻ってきたら、目赤かったし」
咲良は茶碗の縁に箸先をそっと置いた。白米の湯気が、顔の前で曖昧に揺れる。
「ほんとに、何でも見てるんだから。小春は」
「お姉ちゃんが隠すのが下手なんだよ。だってさ、昨日のお客さん、“約束を守るためだけに来てる”って……あれ、ちょっと泣いてたでしょ」
咲良は答えず、ごはんをひと口、そっと運んだ。けれど噛む力が入らない。
*
昼前。
帳場に陽が差し込むころ、布団を干す音が静かに続いていた。
裏手で干していた灯がふと顔をあげると、縁側で小春が咲良と何かを話していた。
いや、正確には──咲良が何かを言われて、黙り込んでいた。
「……劇団員、目指してたんだよね? お姉ちゃん」
その声が、風に乗って灯の耳にも届いた。
咲良の身体が、ぴたりと止まる。
「やめてよ……」
「なんで? 別に恥ずかしいことじゃないじゃん」
「そういう話、いま関係ないでしょ」
「でも……」
「やめてって言ってるでしょ!」
咲良の声が、乾いた昼の空に刺さった。
灯は何も言わず、干していた布団にもう一度手をかけた。
それが、彼女なりの“そっとしておく”合図だった。
*
夕方。
宿の裏手にある倉庫で、咲良は一人、積み上げた座布団の整理をしていた。
陽が落ちる直前の光は、倉庫の隙間から柔らかく差し込んでいた。埃が光に混じってふわふわと舞い、まるで舞台袖に立つ前の、あの控え室の空気のようだった。
咲良は、目を伏せて思い出す。
──小さな劇団だった。
高校を出てすぐ、東京に出て、夢を追って。けれど、現実は厳しくて、配役はつかなくて、台詞もない端役ばかりで、それでも笑って「やれることは全部やる」と言い続けた。
だが、ある日限界が来た。
先輩に言われた言葉が、いまでも耳に残っている。
「君って、観客の目を“意識しすぎる”んだよ。舞台に立つってのは、自分じゃなく“作品”になるってことだ」
そして、静かに外された──次の台本から。
演出の人は、咲良に言った。
「戻ってきたいなら、また連絡ちょうだい。でも、それまでに……いまの自分、ちゃんと壊してきな」
壊すことができなかった。
咲良は劇団に戻らず、地元へ帰り、気がついたらこの宿で働いていた。
理由もなく。ただ、帰ってきてしまった。
「……私、何してんだろ」
その言葉に、誰も答えない。
倉庫の埃だけが、静かに宙を舞っていた。
*
夜。
帳場での仕事を終えたあと、咲良は灯の部屋を訪ねた。
障子を叩くと、中から「いいよ」と声がして、そっと入る。
ちゃぶ台の上には湯呑みがひとつ。
灯は黙って差し出す。咲良がそれを両手で受け取り、黙って口をつける。
「……劇団員だったって、バレちゃった」
「知ってたわよ」
「え?」
「最初から。だって、朝の掃除のときに鼻歌でミュージカル歌ってたし。あと、たまに鏡の前で動きの練習してるの、全部見てた」
咲良は、ふと目を潤ませた。
「じゃあ……なんで何も言わなかったの?」
「言ってほしかった?」
「ううん、違う……でも、なんか……自分が、すっごく、つまんない人間になった気がして」
咲良は湯呑みを両手でぎゅっと握った。
「舞台に立てなかった。台詞も与えられなかった。何度も努力したけど……“あなたじゃない”って言われ続けて」
「ここに戻ってきたとき、もう“何かを目指す”ことが、怖くなってた。だから、ここに居れば、それでいいって、自分に言い聞かせて──」
そこで、咲良は涙をこぼした。
「でも、昨日のお客さん見てて思ったの。“待ち続ける”ってことが、こんなに強いなんて思わなかった。
あの人は、誰にも見られないのに、誰の拍手もないのに、ずっと同じ場所に立ってた。……それって、舞台と同じだよね……」
灯は黙って聞いていた。
そして、一言。
「ここだって、舞台よ」
咲良が顔を上げる。
「だって、誰かを迎えるって、役を演じることと似てるわ。気持ちを整えて、姿勢を正して、相手の目を見て、笑顔で挨拶する。
それは演技じゃない。“演じる”って、うそをつくことじゃないの。“想いを伝えること”よ」
咲良の目が、涙でにじむ。
「……私、まだ立てるかな。“舞台”に」
灯はうなずいた。
「あなたはもう、立ってるじゃない。ここに。毎日、“誰かの一瞬”に立ってる」
咲良は、しゃくりあげながら、うんと頷いた。
灯は最後に言った。
「夢っていうのは、“形”じゃない。立つ場所を選ばない。立ち続けることを選ぶ人にだけ、続いていくのよ」
咲良は泣きながら、笑っていた。
*
翌朝。
咲良は、いつもの量よりも少しだけ多くごはんをよそった。
それに気づいた小春が、ふふっと笑って言う。
「……なんか、今日は“主役”みたいだね」
咲良は照れたように返す。
「主役なんて、まだ早いよ。せいぜい“元気なお姉さん役”かな」
でも、その声には、ちゃんと芯があった。
その日の宿の朝は、またひとつやさしくなっていた。




