第2章 第7話『海を見てるだけの人』
海の音には、時間を止める力があるのかもしれない。
波はただ寄せては返し、寄せては返し──それだけのことが、なぜか人の心を沈める。
今朝もまた、その男は海を見ていた。
宿の裏手、小さな崖の縁に置かれた木の長椅子に、膝を揃えて座る姿は端正で、けれど、何も持たない手が、ただ膝の上に置かれているだけで、どこかこの世のものではないような、透明な影に見えた。
灯は、男が初めてこの宿に来た日を思い出していた。
記録によれば、七年前の晩秋。
そのときも、同じ椅子に同じように座り、同じように朝の光の中で海を見ていた。
ただ一つ違うのは──あのときの彼の隣には、笑う女性がいたということだ。
*
「椿屋さん、空いてますか」
それが彼の最初の言葉だった。
予約もなく、紹介もなく、地図を見て来たわけでもなく、ぽつりと現れた男。
名は「早川徹」。
会社勤めをしている気配はあったが、名刺を出すわけでもなく、ただ「しばらく、ここに泊まりたい」と言った。
特別な要求は何一つなかった。
ただひとつ、「朝、海が見える部屋を」とだけ。
それから七年。
彼は、年に一度、必ずこの宿を訪れるようになった。
いつも同じ部屋──二階の角、波音がもっとも心地よく届くとされる「椿の間」。
早朝に起き、海を見に行き、夕方まで何もせず、夜は静かに食事をとり、帳場に挨拶して寝る。
翌朝には何事もなかったようにチェックアウトしていく。
それが、彼の“決まった動き”だった。
*
今朝もまた、灯は湯飲みに白湯を注ぎながら、帳場の窓から海を見ていた。
早川はそこにいた。
まるで、潮の流れとともにこの宿に戻ってきた古い木片のように、自然に、違和感なくそこにいた。
咲良が小声で言う。
「……あの人、毎回“ひとり”で来ますよね」
「うん」
「けっこうカッコイイのに、彼女とかいないのかな」
「いる人も、いないふりをしてくる場所よ、ここは」
咲良は意味ありげな視線で灯を見たが、彼女はそれ以上何も言わなかった。
*
その夜、灯は自ら配膳に立った。
珍しいことだった。
早川がいつも泊まる「椿の間」に、膳を持っていったのは灯自身だった。
咲良が「いいんですか?」と訊いたが、「たまには、ね」とだけ答えた。
部屋の襖をすべて開け放つと、月光がすうっと畳の上を滑っていた。
障子越しの音が静かで、ここが海に面した宿であることを忘れそうになるほどだった。
灯は膳を置いたあと、ふいに口を開いた。
「……あなたは、いつも同じ席に、同じ時間に、同じように座って、海を見ていますね」
早川は微かに頷いた。
「ええ、そうですね」
「それは、何かを“待って”いるのですか」
その問いは、あまりにも率直だった。
けれど、彼は怒ることも驚くこともせず、ただ小さく笑った。
「待っているというより、約束を守っているんです」
「約束、ですか」
「昔、この海を見に来ようって言った人がいて……その人と、“毎年この日、同じ場所で海を見よう”って」
「それは……叶ったんですか」
彼は答えなかった。
ただ、目を閉じた。
その沈黙がすべてを語っていた。
*
夜中。
宿の灯りがすべて落ちたあと、灯はひとり、裏の崖の長椅子に座っていた。
潮の香りが強くなってきた。
遠雷の気配もする。
その椅子の上に、小さく傷がついているのを灯は知っていた。
それは、七年前の秋、その女性がナイフで刻んだ「Y」の字。
「Y、って……名前のイニシャル?」
あのときの灯の問いに、女性は笑ってこう答えた。
「ううん。“約束(Yakusoku)”のY」
そして、それっきり──戻ってこなかった。
部屋の記録も残っていなかった。
名前も、連絡先も、ただの旅の名義でしかなかった。
だが、あの男だけが、こうして戻ってくる。
椿屋にとって、それはよくあることだった。
どこかの誰かが、ここに“言葉にならなかった想い”を残して去っていく。
椿屋は、それを掃き清めて、畳を干し、白湯を淹れ、また次の誰かを迎え入れる。
灯は、椅子の縁をそっと撫でてから、ぽつりと呟いた。
「……あの人は、戻らなかった」
その言葉は夜に消えた。
誰に届くでもなく、誰かの代わりに語ったように──波音に吸い込まれていった。
*
翌朝。
早川はいつものように静かにチェックアウトを済ませた。
帳場で咲良が明るく笑い、「またお待ちしてますね!」と言うと、彼も「ええ」とだけ答えた。
が──玄関を出たとき、ふと立ち止まり、灯に視線を向けて言った。
「……この宿は、変わらないですね。七年前と、何一つ」
灯は、少し笑って返す。
「変わらないようにしてるんです。“帰って来られる場所”って、そういうものだから」
彼は、目を細めて頷き、海の方へ一度だけ振り返った。
その眼差しの先に、誰かの幻がまだ立っているように見えた。
やがて、そのまま静かに歩き出し──見えなくなった。
*
その日、灯は海辺の椅子の上に、小さな白椿の花を置いた。
潮風で少ししおれていたが、花はまだ柔らかかった。
「誰かを待つって、誰かを愛すってことと同じなんだね」
咲良が言った。
灯は答えなかった。
ただ、その椿がいつか枯れ、風に散り、波に攫われるまで、そっと見つめていた。




