第1話『ようこそ椿屋へ』
バス停を降りてから、十分ほど歩いただろうか。
街灯のない坂道を登り切った先に、それはぽつんと現れた。
──椿屋。
遠目にはただの古びた木造家屋だった。宿とは思えない。
看板もなければ、電光の案内もない。
唯一、門の脇に小さな石灯籠があり、その台座に“椿屋”と掠れた字で刻まれていた。
そこだけが、この場所が「宿」であることを主張しているようだった。
小椋美咲は、息を整えるようにして足を止めた。
手元の紙袋の中には、妹の形見が入っている。小さなノートと、一枚の写真。
そこには、三年前にこの宿の前で笑う、妹・遥香の姿があった。
──本当に、ここでよかったんだろうか。
だが、迷っている時間はない。
今日この場所に泊まるために、仕事を休み、上司にも頭を下げ、ようやくやって来たのだ。
玄関の扉を叩こうとした瞬間、音もなく引き戸が開いた。
そして、現れた人物を前に、美咲は一瞬、言葉を失った。
「……いらっしゃいませ。“寄るもの”の気配、既に察知済みです」
和服の女だった。まだ若い。だがその目元は妙に鋭く、なにより──
喋っている言葉の意味が、さっぱり分からない。
「貴女の背後、弱き残響が蠢いております。たぶん……執着系ですね。そういう“寄り”は、湯で流すと良いですよ」
それが宿の第一声だった。
美咲は、丁寧にお辞儀をした。
「予約していた小椋です。今日一泊、お願いします」
「あ、妹の灯です。女将やってます。今は“灯の儀”の期間中なので、ちょっと言葉のテンションが高いですが、悪気はありませんのでご安心を」
その声とともに奥から現れたのは、笑顔の女性だった。
若干茶がかったセミロング、白いエプロン、よく通る声。
どこかで見たことがある──そう思っていたら、彼女の方から声をかけてきた。
「小椋さん、ですよね。予約帳に書かれてた名前見て、ちょっと驚きました。……もしかして、遥香さんの?」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
美咲は、静かに頷いた。
「……姉です。何か、ご存知なんですか?」
「いえ、いえ。直接は……でも、その方のことをうっすら覚えてるような、気がして」
そう言って目を伏せた彼女は、少し不自然だった。だが、美咲はそれ以上追及しなかった。
受付帳に名前を書きながら、ふと横を見ると、木の札がぶら下がっていた。
『夕餉 本日の主菜:「孤独に濡れた魚の最期」』
「……は?」
思わず声が出た。
咲良は慣れたように笑った。
「あ、それ。料理長のネーミングセンスです。味は、すっごく美味しいので大丈夫ですよ」
美咲は言葉を失ったまま、案内されるがままに廊下を進んだ。
柱の影から見えたのは、調理場で無言で包丁を動かす女性の背中だった。
白い調理服に、整った背筋。淡々とリズムよく打たれる音。
なぜか、その場だけ空気が異様に冷たく感じられた。
そして通された客室──「山椿の間」は、昔ながらの和室だった。
畳の香りが心を落ち着ける……はずだったが、女将の灯がにじり寄ってきて、いきなり小声で囁いた。
「……この部屋、たまに“感情の残留”が強く出るんです。でも、今夜はきっと“波”が穏やかなので大丈夫です」
「……なにが大丈夫なんですか?」
「わかりません。私もまだ修行中なので」
美咲は思わず笑ってしまった。
──変な宿だ。でも、妹が最後に笑った場所。
なら、もう一晩だけここにいてみよう。
窓の外、遠くに波の音が聞こえる。
その向こうに、妹の声があるような気がした。