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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第2章 第6話『片想い味噌汁』

 「……この味、どこかで食べたような気がするな」


 男がそう呟いたのは、味噌汁をすすった瞬間だった。


 その声を聞いた柚葉は、厨房の奥で包丁を止めた。


 静かな夜だった。

 雨が、遠くの屋根をそっと打つ音だけが響いている。


 今夜、五浦海岸の宿「椿屋」には、少し珍しい“予約なしの飛び込み客”がひとり泊まっていた。

 都会風のスーツ姿に、品のある話し方。小さな荷物と、言葉少なな所作。


 ──そして、その顔に、柚葉は見覚えがあった。


 正確に言えば、忘れようとしていた相手だった。


     *


 彼の名は「島村光則」。

 柚葉がまだ実家にいた頃、結婚の話まで出ていた相手だった。


 大手建設会社の若手技師。

 控えめで誠実な性格に、両家の親も乗り気だった。


 けれど──婚約直前、彼は突然「別の人と結婚する」と告げた。

 彼女が知らない間に、そう決まっていた。


 そのとき彼は、「理由は言えない」とだけ残して姿を消した。


 数年が過ぎた。


 柚葉は、料理人として“椿屋”で再出発していた。

 古い宿の素朴な厨房が、自分には合っていると思った。

 都会のレストランにも誘いはあったが、すべて断った。


 そんな彼女のもとに──今、何も知らずに、その男が泊まりに来ていた。


     *


 夕方、帳場で灯が告げた。


 「柚葉。今夜の一汁三菜、あの男性客にだけ味噌汁を変えて」


 「……なんで?」


 「たぶん、あんたは“作るだろう”って思った。だから、先に言っておく」


 「……あの人、誰かと間違えてるかもよ」


 灯は静かに言った。


 「誰かを間違えてるまま、泊まりに来る客も多い宿だから」


     *


 夜。


 柚葉はひとり、まかない部屋で小鍋に出汁をとっていた。


 味噌汁の具は、しじみと小松菜。

 それに、仕上げに少量のすりおろし生姜。


 それは、かつて彼が「柚葉の味噌汁はこれが一番」と笑って言った、思い出の味だった。


 それを、いま、彼に出している。


 けれど、彼は──気づかない。


 気づいていないのか、それとも……気づいて気づかないふりをしているのか。


 どちらでもいい。


 柚葉は、自分にそう言い聞かせた。


     *


 食事を終えた彼は、礼儀正しく箸を揃えて立ち去った。


 その背を見送ったあと、咲良がぽつりと訊いた。


 「……あの人、知り合い?」


 「んーん」


 「そう。……でも、味噌汁、すっごい美味しかったって」


 「ふふ、そりゃよかった」


 「なんか、“好きな人の味”って感じだったなって」


 柚葉は笑った。

 それは、泣く寸前のような笑みだった。


 「それ、正解。──でも、賞味期限、過ぎてるの」


     *


 夜も更けたあと。


 柚葉は誰もいない厨房に戻り、さっきの鍋を洗いながら呟いた。


 「……未練は、出汁にして捨てるのが一番」


 出汁は、思い出に似ている。

 時間とともに、濃くなったり、苦くなったり、澄んだり、濁ったりする。


 でも、それを使って味をつけるのは、自分自身だ。


 だから、今夜はこれでいい。


 彼の中で自分が“忘れられた誰か”であってもいい。

 自分はもう、彼の未来にはいないから。


     *


 その夜──灯が帳場で一言だけ言った。


 「柚葉、偉かったね」


 「なにが」


 「“思い出”を料理に使ったのに、“感情”は皿に出さなかった」


 柚葉は肩をすくめて言う。


 「料理人ってのは、客に味で泣かせても、自分では泣かないのよ」


 その言葉のあと、静かに湯呑に注がれた白湯を飲み干した。

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