第2章 第6話『片想い味噌汁』
「……この味、どこかで食べたような気がするな」
男がそう呟いたのは、味噌汁をすすった瞬間だった。
その声を聞いた柚葉は、厨房の奥で包丁を止めた。
静かな夜だった。
雨が、遠くの屋根をそっと打つ音だけが響いている。
今夜、五浦海岸の宿「椿屋」には、少し珍しい“予約なしの飛び込み客”がひとり泊まっていた。
都会風のスーツ姿に、品のある話し方。小さな荷物と、言葉少なな所作。
──そして、その顔に、柚葉は見覚えがあった。
正確に言えば、忘れようとしていた相手だった。
*
彼の名は「島村光則」。
柚葉がまだ実家にいた頃、結婚の話まで出ていた相手だった。
大手建設会社の若手技師。
控えめで誠実な性格に、両家の親も乗り気だった。
けれど──婚約直前、彼は突然「別の人と結婚する」と告げた。
彼女が知らない間に、そう決まっていた。
そのとき彼は、「理由は言えない」とだけ残して姿を消した。
数年が過ぎた。
柚葉は、料理人として“椿屋”で再出発していた。
古い宿の素朴な厨房が、自分には合っていると思った。
都会のレストランにも誘いはあったが、すべて断った。
そんな彼女のもとに──今、何も知らずに、その男が泊まりに来ていた。
*
夕方、帳場で灯が告げた。
「柚葉。今夜の一汁三菜、あの男性客にだけ味噌汁を変えて」
「……なんで?」
「たぶん、あんたは“作るだろう”って思った。だから、先に言っておく」
「……あの人、誰かと間違えてるかもよ」
灯は静かに言った。
「誰かを間違えてるまま、泊まりに来る客も多い宿だから」
*
夜。
柚葉はひとり、まかない部屋で小鍋に出汁をとっていた。
味噌汁の具は、しじみと小松菜。
それに、仕上げに少量のすりおろし生姜。
それは、かつて彼が「柚葉の味噌汁はこれが一番」と笑って言った、思い出の味だった。
それを、いま、彼に出している。
けれど、彼は──気づかない。
気づいていないのか、それとも……気づいて気づかないふりをしているのか。
どちらでもいい。
柚葉は、自分にそう言い聞かせた。
*
食事を終えた彼は、礼儀正しく箸を揃えて立ち去った。
その背を見送ったあと、咲良がぽつりと訊いた。
「……あの人、知り合い?」
「んーん」
「そう。……でも、味噌汁、すっごい美味しかったって」
「ふふ、そりゃよかった」
「なんか、“好きな人の味”って感じだったなって」
柚葉は笑った。
それは、泣く寸前のような笑みだった。
「それ、正解。──でも、賞味期限、過ぎてるの」
*
夜も更けたあと。
柚葉は誰もいない厨房に戻り、さっきの鍋を洗いながら呟いた。
「……未練は、出汁にして捨てるのが一番」
出汁は、思い出に似ている。
時間とともに、濃くなったり、苦くなったり、澄んだり、濁ったりする。
でも、それを使って味をつけるのは、自分自身だ。
だから、今夜はこれでいい。
彼の中で自分が“忘れられた誰か”であってもいい。
自分はもう、彼の未来にはいないから。
*
その夜──灯が帳場で一言だけ言った。
「柚葉、偉かったね」
「なにが」
「“思い出”を料理に使ったのに、“感情”は皿に出さなかった」
柚葉は肩をすくめて言う。
「料理人ってのは、客に味で泣かせても、自分では泣かないのよ」
その言葉のあと、静かに湯呑に注がれた白湯を飲み干した。




