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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第2章 第5話『凪の夜、名前を呼ばれた』

夜の五浦海岸は、今日も波の音を忘れたように静かだった。


 潮騒さえも息を潜めるような凪の夜。

 宿の灯りは、すでにふんわりと柔らかな明かりだけを残している。

 その中を、番頭・悠真の背中が音もなく歩いていく。


 ロビーの隅に、小さな客用の木箱がひとつ。

 その箱の中に、細い竹ひごと小枝、そして色とりどりの布の端切れが詰まっていた。


 悠真はしゃがみ込み、手にした竹を削りはじめた。


 今夜泊まっている子どものために──

 簡単なおもちゃを作るのが、彼なりの“気まぐれな働き”。


 宿に子連れの家族が来ると、彼はよく裏でこうして何かを作っていた。

 積み木、紙風船、ヨーヨー、風車──どれも素朴で、すぐ壊れるものばかり。

 それでも、笑ってもらえればそれでよかった。


 「ほら、ちゃんとまわる……」


 手のひらで試作の風車がくるくると回る。


 それを見ていたのは──咲良だった。

 いつものように夕食の片づけを終え、エプロンのまま台所の奥から出てきたところだった。


 「悠真さん、それ……今日の?」


 「うん。昼間、あの子が“なんかないのー?”って言ってたから」


 「おもちゃ屋じゃないんですけど、うちは」


 「でも、ここでしかもらえないやつなら、きっと嬉しいでしょ」


 咲良は、ふっと小さく笑った。

 そして、ふいに──まるで何かを試すように尋ねた。


 「……ねえ、悠真さんってさ、自分がこの宿に“いる意味”って、考えたことある?」


 「……うーん」


 手を止めた悠真は、少しだけ首を傾げた。


 「いる、けど。たぶん、“いる感じ”は出さないほうがいいかなって」


 「それ、昔から?」


 「うん。ずっとそう。中学の卒業アルバム、俺のページだけ空白だったし」


 「うわ、重いわ」


 そう言いつつも、咲良の声にはどこか親しみが混じっていた。

 ふたりの間には、沈黙が少しだけ流れる。


 だが、その沈黙は“気まずさ”ではなく、“安心”だった。


     *


 その晩──八時半。


 子ども連れの家族は、食後に囲炉裏の前でくつろいでいた。

 男の子──名前は啓太という、五歳くらいの小柄な少年が、椅子の上でぴょこぴょこと跳ねていた。


 そこへ、悠真がそっと近づいていく。


 「啓太くん。これ、あげる」


 そう言って差し出したのは、小さな風車だった。

 竹の軸に、青と白の布で作られた羽根が回る。


 「わー!」


 目を輝かせた啓太が、風を吹きかけて遊びはじめる。


 その様子を見ていた母親が、ふと顔を上げた。


 「……あの、番頭さん、ですよね?」


 その瞬間だった。


 悠真の中に、ふっと何かが流れ込んだ。


 「……はい。番頭の、佐々木悠真です」


 そう答えた声は、少しだけ震えていた。


 彼はその場を離れて、ロビーの隅へと戻った。

 だが、背中を向けたまま、しばらく動けなかった。


 ──名前を、呼ばれた。


 今までも、挨拶されたことはある。

 でも、「番頭さん」と、ちゃんと“存在”として呼ばれたのは……初めてだった。


     *


 その夜遅く、帳場には灯がいた。


 明かりを落としかけたそのタイミングで、悠真がぽつりと現れる。


 「……灯さん、少しだけ、いいですか」


 灯は頷き、静かに湯呑に白湯を注いだ。


 「……番頭って、名前なんですね」


 「そうだね」


 「さっき、呼ばれたんです。子どものお母さんに。“番頭さん”って」


 「よかったじゃない」


 「なんか……思ってたより、重いんですね。“名前を持つ”って」


 灯は、ゆっくりと湯をすする。


 「名前っていうのは、呼ぶ人がいないと、成立しないから」


 「……え?」


 「ひとりでいるときは、名前なんて意味ない。

 でも、誰かが呼ぶから、それが“重さ”になる。

 “あなたがいる”って、言われるから」


 悠真は、息を吐いた。

 その目には、何かひとつ、積もっていた雪が溶けたような──そんな静けさがあった。


     *


 夜更け。


 客室の明かりはすべて落ち、館内はしんと静まり返っていた。


 それでも、帳場の一隅にはまだひとつ、風車が回っていた。


 誰にも気づかれずにいた男が、

 今夜、ほんの一度──名を持つ存在として、そこにいた。

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