第2章 第5話『凪の夜、名前を呼ばれた』
夜の五浦海岸は、今日も波の音を忘れたように静かだった。
潮騒さえも息を潜めるような凪の夜。
宿の灯りは、すでにふんわりと柔らかな明かりだけを残している。
その中を、番頭・悠真の背中が音もなく歩いていく。
ロビーの隅に、小さな客用の木箱がひとつ。
その箱の中に、細い竹ひごと小枝、そして色とりどりの布の端切れが詰まっていた。
悠真はしゃがみ込み、手にした竹を削りはじめた。
今夜泊まっている子どものために──
簡単なおもちゃを作るのが、彼なりの“気まぐれな働き”。
宿に子連れの家族が来ると、彼はよく裏でこうして何かを作っていた。
積み木、紙風船、ヨーヨー、風車──どれも素朴で、すぐ壊れるものばかり。
それでも、笑ってもらえればそれでよかった。
「ほら、ちゃんとまわる……」
手のひらで試作の風車がくるくると回る。
それを見ていたのは──咲良だった。
いつものように夕食の片づけを終え、エプロンのまま台所の奥から出てきたところだった。
「悠真さん、それ……今日の?」
「うん。昼間、あの子が“なんかないのー?”って言ってたから」
「おもちゃ屋じゃないんですけど、うちは」
「でも、ここでしかもらえないやつなら、きっと嬉しいでしょ」
咲良は、ふっと小さく笑った。
そして、ふいに──まるで何かを試すように尋ねた。
「……ねえ、悠真さんってさ、自分がこの宿に“いる意味”って、考えたことある?」
「……うーん」
手を止めた悠真は、少しだけ首を傾げた。
「いる、けど。たぶん、“いる感じ”は出さないほうがいいかなって」
「それ、昔から?」
「うん。ずっとそう。中学の卒業アルバム、俺のページだけ空白だったし」
「うわ、重いわ」
そう言いつつも、咲良の声にはどこか親しみが混じっていた。
ふたりの間には、沈黙が少しだけ流れる。
だが、その沈黙は“気まずさ”ではなく、“安心”だった。
*
その晩──八時半。
子ども連れの家族は、食後に囲炉裏の前でくつろいでいた。
男の子──名前は啓太という、五歳くらいの小柄な少年が、椅子の上でぴょこぴょこと跳ねていた。
そこへ、悠真がそっと近づいていく。
「啓太くん。これ、あげる」
そう言って差し出したのは、小さな風車だった。
竹の軸に、青と白の布で作られた羽根が回る。
「わー!」
目を輝かせた啓太が、風を吹きかけて遊びはじめる。
その様子を見ていた母親が、ふと顔を上げた。
「……あの、番頭さん、ですよね?」
その瞬間だった。
悠真の中に、ふっと何かが流れ込んだ。
「……はい。番頭の、佐々木悠真です」
そう答えた声は、少しだけ震えていた。
彼はその場を離れて、ロビーの隅へと戻った。
だが、背中を向けたまま、しばらく動けなかった。
──名前を、呼ばれた。
今までも、挨拶されたことはある。
でも、「番頭さん」と、ちゃんと“存在”として呼ばれたのは……初めてだった。
*
その夜遅く、帳場には灯がいた。
明かりを落としかけたそのタイミングで、悠真がぽつりと現れる。
「……灯さん、少しだけ、いいですか」
灯は頷き、静かに湯呑に白湯を注いだ。
「……番頭って、名前なんですね」
「そうだね」
「さっき、呼ばれたんです。子どものお母さんに。“番頭さん”って」
「よかったじゃない」
「なんか……思ってたより、重いんですね。“名前を持つ”って」
灯は、ゆっくりと湯をすする。
「名前っていうのは、呼ぶ人がいないと、成立しないから」
「……え?」
「ひとりでいるときは、名前なんて意味ない。
でも、誰かが呼ぶから、それが“重さ”になる。
“あなたがいる”って、言われるから」
悠真は、息を吐いた。
その目には、何かひとつ、積もっていた雪が溶けたような──そんな静けさがあった。
*
夜更け。
客室の明かりはすべて落ち、館内はしんと静まり返っていた。
それでも、帳場の一隅にはまだひとつ、風車が回っていた。
誰にも気づかれずにいた男が、
今夜、ほんの一度──名を持つ存在として、そこにいた。




