第2章 第4話『女将の白湯』
午前十一時、外の風はまだ海の香を連れている。
風は波打ち際から入り込み、旅館の木枠の窓を揺らした。
だが、ロビーの空気は、そうしたざわめきと無縁のように、静かだった。
帳場の脇に設けられた小さな囲炉裏スペースには、ひとりの男が腰を下ろしていた。
常連客──名を山岸という、五十代半ばの細身の男である。
彼は年に数度、この宿を訪れる。
いつもと同じ薄手の上着、いつもと同じ順路。
だが、今日の彼は、明らかに調子を崩していた。
「咳がひどいですね……無理なさらないでくださいね」
咲良がそう言ってバスタオルを背もたれに置いたが、山岸はかすれた声で小さく礼を言うのみだった。
その光景を、灯は奥の縁側から見ていた。
何も言わず、何も訊かず──
ただ、その手に持っていた急須を脇に置くと、棚の奥からひとつの白磁の湯呑を選んだ。
湯呑に熱湯を注ぎ、少し冷ました白湯。
薬味も茶葉も、何も入れない。
ただの、温かい水。
それを盆に乗せ、足音を立てずに彼女は囲炉裏へ向かう。
咲良が驚いたように顔を上げたのと、山岸が鼻をすすったのは、ほとんど同時だった。
「……どうぞ」
灯は、それだけを言って湯呑を前に置いた。
山岸は一瞬、目を見開いた。
そして、深く頷いた。
何も言わずに、湯呑を手にする。
湯気が、ほっと静かに彼の表情を包み込んだ。
*
その後──帳場の奥。
咲良は少し照れくさそうに、灯に声をかけた。
「灯さん、やっぱり……女将って、全部見てるんですね」
「……見てないよ」
灯は、そうぽつりと言って、帳簿の端を指先でなぞる。
薄い声。けれどその声には、芯があった。
「見てない。ただ……通っていくだけ。
湯気も、風も、声も。ぜんぶ、流れていくのを、ちょっと拾うだけ」
咲良は、何か言いかけて言葉を飲み込んだ。
灯の仕事は、咲良たち仲居と違い、前に出ない。
けれど、宿のどこを歩いても、“気配”だけは彼女の指先が届いているようだった。
*
昼下がり、厨房の裏口。
柚葉が昆布を水に漬け、明日の下準備をしている傍らで、灯がそっとやかんを火にかけていた。
「白湯、残ってたから……飲む?」
「え、あ、はい」
差し出された湯呑を両手で受け取る。
飲んだ瞬間、柚葉の表情がほんの少し、やわらいだ。
「これだけで、あったまるんですね……不思議」
「味じゃないから。体の記憶」
「記憶……?」
「白湯ってね。お母さんのおなかの中と、近い温度なんだって」
柚葉が、ふと目を伏せた。
「そういうの、灯さん……誰に教わったんですか」
「さあ。気がついたら、そう思ってた」
灯はにっこりと笑ったが、その笑顔はどこか、遠い海の色をしていた。
*
夜、常連客の山岸は咳も治まり、布団にくるまって眠っていた。
その枕元には、さっきの白湯の湯呑が、空になって置かれていた。
その姿を確認した咲良は、どこか満たされた表情で帳場に戻ってくる。
けれど灯は、そのことを尋ねたりはしなかった。
「……女将って、大変ですね」
「なんで?」
「全部わかってるのに、黙ってる」
「……黙ってるから、女将なんだよ」
灯は、そう言って小さな帳面に明日の予約を書き込みはじめた。
*
その夜。
縁側に、夜風がひらりと吹き込んできた。
灯は、帳場の明かりを落とすと、最後に残った白湯のやかんを自分の湯呑に注いだ。
「……見てないよ、ほんとうに」
でも、彼女は確かに、通っていくものをひとつひとつ、抱き留めていた。
名を呼ばれなくても、賞賛されなくても──
白湯のように、誰かの芯にしみこむ仕事を、彼女は続けていた。




