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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第2章 第4話『女将の白湯』

午前十一時、外の風はまだ海の香を連れている。

 風は波打ち際から入り込み、旅館の木枠の窓を揺らした。

 だが、ロビーの空気は、そうしたざわめきと無縁のように、静かだった。


 帳場の脇に設けられた小さな囲炉裏スペースには、ひとりの男が腰を下ろしていた。

 常連客──名を山岸という、五十代半ばの細身の男である。

 彼は年に数度、この宿を訪れる。

 いつもと同じ薄手の上着、いつもと同じ順路。

 だが、今日の彼は、明らかに調子を崩していた。


 「咳がひどいですね……無理なさらないでくださいね」


 咲良がそう言ってバスタオルを背もたれに置いたが、山岸はかすれた声で小さく礼を言うのみだった。


 その光景を、灯は奥の縁側から見ていた。


 何も言わず、何も訊かず──

 ただ、その手に持っていた急須を脇に置くと、棚の奥からひとつの白磁の湯呑を選んだ。


 湯呑に熱湯を注ぎ、少し冷ました白湯。

 薬味も茶葉も、何も入れない。

 ただの、温かい水。


 それを盆に乗せ、足音を立てずに彼女は囲炉裏へ向かう。

 咲良が驚いたように顔を上げたのと、山岸が鼻をすすったのは、ほとんど同時だった。


 「……どうぞ」


 灯は、それだけを言って湯呑を前に置いた。


 山岸は一瞬、目を見開いた。

 そして、深く頷いた。


 何も言わずに、湯呑を手にする。

 湯気が、ほっと静かに彼の表情を包み込んだ。


     *


 その後──帳場の奥。


 咲良は少し照れくさそうに、灯に声をかけた。


 「灯さん、やっぱり……女将って、全部見てるんですね」


 「……見てないよ」


 灯は、そうぽつりと言って、帳簿の端を指先でなぞる。

 薄い声。けれどその声には、芯があった。


 「見てない。ただ……通っていくだけ。

 湯気も、風も、声も。ぜんぶ、流れていくのを、ちょっと拾うだけ」


 咲良は、何か言いかけて言葉を飲み込んだ。


 灯の仕事は、咲良たち仲居と違い、前に出ない。

 けれど、宿のどこを歩いても、“気配”だけは彼女の指先が届いているようだった。


     *


 昼下がり、厨房の裏口。


 柚葉が昆布を水に漬け、明日の下準備をしている傍らで、灯がそっとやかんを火にかけていた。


 「白湯、残ってたから……飲む?」


 「え、あ、はい」


 差し出された湯呑を両手で受け取る。

 飲んだ瞬間、柚葉の表情がほんの少し、やわらいだ。


 「これだけで、あったまるんですね……不思議」


 「味じゃないから。体の記憶」


 「記憶……?」


 「白湯ってね。お母さんのおなかの中と、近い温度なんだって」


 柚葉が、ふと目を伏せた。


 「そういうの、灯さん……誰に教わったんですか」


 「さあ。気がついたら、そう思ってた」


 灯はにっこりと笑ったが、その笑顔はどこか、遠い海の色をしていた。


     *


 夜、常連客の山岸は咳も治まり、布団にくるまって眠っていた。

 その枕元には、さっきの白湯の湯呑が、空になって置かれていた。


 その姿を確認した咲良は、どこか満たされた表情で帳場に戻ってくる。

 けれど灯は、そのことを尋ねたりはしなかった。


 「……女将って、大変ですね」


 「なんで?」


 「全部わかってるのに、黙ってる」


 「……黙ってるから、女将なんだよ」


 灯は、そう言って小さな帳面に明日の予約を書き込みはじめた。


     *


 その夜。

 縁側に、夜風がひらりと吹き込んできた。


 灯は、帳場の明かりを落とすと、最後に残った白湯のやかんを自分の湯呑に注いだ。


 「……見てないよ、ほんとうに」


 でも、彼女は確かに、通っていくものをひとつひとつ、抱き留めていた。


 名を呼ばれなくても、賞賛されなくても──

 白湯のように、誰かの芯にしみこむ仕事を、彼女は続けていた。



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