第2章 第2話『手を抜かない人』
夜の台所には、味のない音だけが響いていた。
ぐらぐらと沸いた湯の中で、昆布が静かに浮き沈みしている。
それはあたかも、何かを確かめるようで──
あるいは、何かを問いかけるようでもあった。
柚葉は黙ったまま、長い箸でその昆布をつついた。
火加減は弱め、温度はまだ八十度を少し下回る。
湯気が顔にかかるたび、少しだけまぶたが熱くなる。
だけど、それを拭おうとはしなかった。
「……あの子が、言ったんだって?」
背後から、灯の声がした。
「ええ。“家庭の味すぎる”って。旅館なんだから、もっと“特別”を出すべきだって」
「ふうん」
灯はそれだけ言って、黙る。
柚葉は続けた。
「……わたし、どこかで期待してたのかもしれません。
“家庭の味”って褒め言葉だって。
ここで食べるごはんが、帰る場所みたいになればって。
でも──違ったんですよね、たぶん」
「ううん。違ってないと思うよ」
灯はすぐには続けず、包丁を持っていた手を止めてから言った。
「その子には、“まだ”その良さがわからなかっただけ。
でも、わかられなくて傷つくのも、料理人だものね」
「……そうですね」
柚葉は、もう一度昆布の様子を見て、そっと鍋から取り出した。
*
深夜。
宿の廊下は静まり返っていた。
全室の明かりが落ちて、風除け戸の隙間から、かすかな夜風が吹き込む。
そのとき、ひとつだけ灯っている明かりがあった。
台所──いや、“厨房”というべき空間だ。
そこに立っていたのは、もちろん柚葉。
まな板の上には削り節、ボウルには下処理済みの野菜が揃っていた。
彼女はひとり、何度目かの「やり直し」をしていた。
いつもなら、もう寝ている時間だ。
けれど、今日はどうしても妥協できなかった。
彼女の中で何かが、ピンと張りつめたまま、緩むことを許してくれなかった。
──あんな言葉、慣れてると思ってた。
「家庭料理みたい」
「もっと旅館らしくしたほうが」
「地味な味付けですね」
でも今日のは、少し違った。
“わざわざここまで来た意味がない”──その言葉が、胸の底に突き刺さっていた。
──わたし、意味のない人間になったのかな。
そのとき。
「……まだ起きてるの?」
厨房の戸がそっと開き、悠真が顔を覗かせた。
柚葉は一瞬だけ驚いた顔をして、でもすぐに笑った。
「忍び足だったのに、バレましたか」
「この時間の“出汁の香り”って、逆に目が覚めるんだよな。胃袋が叫んでくるから」
柚葉は小さく吹き出す。
「胃袋は正直ですからね。でも……ごめんなさい、ちょっとだけ。付き合ってもらってもいいですか?」
「もちろん」
悠真は、そのまま厨房の隅に腰かける。
「……“家庭の味”って、悪いことなのかなあ」
ぼそりと呟いた柚葉に、悠真は少し考える素振りをしてから言った。
「うちの母ちゃん、料理ヘタなんだよ。
でもさ、受験のとき、こたつで食った味噌煮込みうどんの味だけは、まだ覚えてる」
「……うん」
「“家庭の味”って、たぶん“記憶”なんだよ。
でも“旅館”ってのは、“記憶”じゃなくて“物語”を出す場所。
だから……柚葉さんがやってるのって、“記憶と物語の境目”なんじゃない?」
柚葉は、その言葉をしばらく口の中で転がした。
やがて、静かにうなずいた。
「境目……か。なら、わたし、今夜はちゃんと橋をかけてみようかな」
彼女は、温度計を手に取り、鍋の湯をじっと見つめた。
「いい出汁って、沈黙みたいなんですよ。
何も言わないけど、すべてを支えてくれる。
……誰にも気づかれなくても、わたしは、それでいいんです」
悠真は、柚葉の横顔を見つめた。
そこには、職人の顔と、どこか少女のような意地が同居していた。
*
翌朝。
朝食の膳が、客のもとに運ばれる。
その中に、一椀だけ特別な味噌汁があった。
前夜、“家庭の味”と批評した客が、口をつけて、ふと箸を止める。
「……なんだろう、これ。昨日のより、ずっと……“沁みる”」
それは褒め言葉でもなく、評価でもない。
ただ、素直な感想だった。
柚葉は厨房の奥で、その言葉を聞いて、ひとつ深呼吸をした。
誰にも気づかれない“こだわり”の夜を超えて──
今日も、また普通に“家庭の味”を出すだけだ。
でもその一匙は、たしかに「誰か」の朝を支えている。
そのことだけが、柚葉の背中をすこしだけ軽くした。




