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妹女将は中二病!幼なじみ仲居はヤンデレ!料理長はサイコパス!癖だらけの温泉宿に傷や秘密を抱えた旅人がふらりと訪れ笑って心だけ置いて帰っていく  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第一章 『妹は帰ってこなかった──記憶と湯の底に沈むもの』

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第2章 第2話『手を抜かない人』

夜の台所には、味のない音だけが響いていた。


 ぐらぐらと沸いた湯の中で、昆布が静かに浮き沈みしている。

 それはあたかも、何かを確かめるようで──

 あるいは、何かを問いかけるようでもあった。


 柚葉は黙ったまま、長い箸でその昆布をつついた。

 火加減は弱め、温度はまだ八十度を少し下回る。


 湯気が顔にかかるたび、少しだけまぶたが熱くなる。

 だけど、それを拭おうとはしなかった。


 「……あの子が、言ったんだって?」


 背後から、灯の声がした。


 「ええ。“家庭の味すぎる”って。旅館なんだから、もっと“特別”を出すべきだって」


 「ふうん」


 灯はそれだけ言って、黙る。


 柚葉は続けた。


 「……わたし、どこかで期待してたのかもしれません。

 “家庭の味”って褒め言葉だって。

 ここで食べるごはんが、帰る場所みたいになればって。

 でも──違ったんですよね、たぶん」


 「ううん。違ってないと思うよ」


 灯はすぐには続けず、包丁を持っていた手を止めてから言った。


 「その子には、“まだ”その良さがわからなかっただけ。

 でも、わかられなくて傷つくのも、料理人だものね」


 「……そうですね」


 柚葉は、もう一度昆布の様子を見て、そっと鍋から取り出した。


     *


 深夜。

 宿の廊下は静まり返っていた。

 全室の明かりが落ちて、風除け戸の隙間から、かすかな夜風が吹き込む。


 そのとき、ひとつだけ灯っている明かりがあった。

 台所──いや、“厨房”というべき空間だ。


 そこに立っていたのは、もちろん柚葉。

 まな板の上には削り節、ボウルには下処理済みの野菜が揃っていた。


 彼女はひとり、何度目かの「やり直し」をしていた。


 いつもなら、もう寝ている時間だ。

 けれど、今日はどうしても妥協できなかった。


 彼女の中で何かが、ピンと張りつめたまま、緩むことを許してくれなかった。


 ──あんな言葉、慣れてると思ってた。


 「家庭料理みたい」

 「もっと旅館らしくしたほうが」

 「地味な味付けですね」


 でも今日のは、少し違った。

 “わざわざここまで来た意味がない”──その言葉が、胸の底に突き刺さっていた。


 ──わたし、意味のない人間になったのかな。


 そのとき。


 「……まだ起きてるの?」


 厨房の戸がそっと開き、悠真が顔を覗かせた。


 柚葉は一瞬だけ驚いた顔をして、でもすぐに笑った。


 「忍び足だったのに、バレましたか」


 「この時間の“出汁の香り”って、逆に目が覚めるんだよな。胃袋が叫んでくるから」


 柚葉は小さく吹き出す。


 「胃袋は正直ですからね。でも……ごめんなさい、ちょっとだけ。付き合ってもらってもいいですか?」


 「もちろん」


 悠真は、そのまま厨房の隅に腰かける。


 「……“家庭の味”って、悪いことなのかなあ」


 ぼそりと呟いた柚葉に、悠真は少し考える素振りをしてから言った。


 「うちの母ちゃん、料理ヘタなんだよ。

 でもさ、受験のとき、こたつで食った味噌煮込みうどんの味だけは、まだ覚えてる」


 「……うん」


 「“家庭の味”って、たぶん“記憶”なんだよ。

 でも“旅館”ってのは、“記憶”じゃなくて“物語”を出す場所。

 だから……柚葉さんがやってるのって、“記憶と物語の境目”なんじゃない?」


 柚葉は、その言葉をしばらく口の中で転がした。

 やがて、静かにうなずいた。


 「境目……か。なら、わたし、今夜はちゃんと橋をかけてみようかな」


 彼女は、温度計を手に取り、鍋の湯をじっと見つめた。


 「いい出汁って、沈黙みたいなんですよ。

 何も言わないけど、すべてを支えてくれる。

 ……誰にも気づかれなくても、わたしは、それでいいんです」


 悠真は、柚葉の横顔を見つめた。

 そこには、職人の顔と、どこか少女のような意地が同居していた。


     *


 翌朝。


 朝食の膳が、客のもとに運ばれる。

 その中に、一椀だけ特別な味噌汁があった。


 前夜、“家庭の味”と批評した客が、口をつけて、ふと箸を止める。


 「……なんだろう、これ。昨日のより、ずっと……“沁みる”」


 それは褒め言葉でもなく、評価でもない。

 ただ、素直な感想だった。


 柚葉は厨房の奥で、その言葉を聞いて、ひとつ深呼吸をした。


 誰にも気づかれない“こだわり”の夜を超えて──

 今日も、また普通に“家庭の味”を出すだけだ。


 でもその一匙は、たしかに「誰か」の朝を支えている。


 そのことだけが、柚葉の背中をすこしだけ軽くした。

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