第14話『さよならを言わない手紙』
朝の食卓に笑い声が戻った宿には、まだ淡い霧が立ちこめていた。
湯気のように揺れる空気のなか、美咲は一人、自室へと戻っていた。
かつて、妹・遥香が泊まったというこの部屋。
布団はすでに畳まれており、宿の人間の気配が手際よく整えてくれたのだろう。だが、どこかに“自分の気配”もまだ残っているような、そんな不思議な静けさがあった。
押し入れの奥から見つかった、あのノート。
遥香が「言葉を残していた」あのノートは、今、美咲の手の中にある。
何度かページをめくり、また閉じる。
妹の筆跡──まっすぐで、ところどころ震えていて、それでも確かに“ここにいた”という記録。
「ごめんなさい」「ありがとう」そして「誰か、わたしの言葉を見てくれるかもしれないから」。
最後のその一文だけが、なぜだか胸に刺さった。
──自分も、残したい。
ふと、そう思った。
誰かに読まれるかもしれない。でも、それでも構わない。
いや、むしろ誰かが読むことで、この言葉が“生きている”と証明されるのなら──それは、きっと、今の自分にとって唯一の救いなのかもしれない。
美咲は静かに、ノートの空白のページを開く。
そして、ペンを取った。
次に、ここに来る誰かへ。
ようこそ。
この部屋は、泣いてもいい部屋です。
わたしも、泣きました。
誰にも言えなかったこと、言いたかったけど言えなかったこと。
この宿で、思い出して、涙が止まらなくなって、でも最後には、少しだけ笑って帰れました。
あなたがどんな事情でここに来たのか、わたしにはわかりません。
だけど、ひとつだけ言えるのは、
「あなたの涙も、ここに置いていっていい」ということです。
わたしの妹は、ここで何かを残しました。
それが何だったのか、きっと彼女にしかわからない。
でも、その“何か”を見つけるように、わたしもここで、自分の言葉を探しました。
もしあなたも、探しているなら。
言えなかった言葉があるのなら。
この宿の湯気の中で、心をほどいてみてください。
泣いて、怒って、眠って、それから……笑ってください。
泣いたことのある部屋には、人の温度が残ります。
わたしが泣いたこの部屋に、あなたの涙も少し混じってくれたら──
それは、たぶん、ちょっとだけ、誰かを救うことになるかもしれません。
さよならを言わずに、帰ります。
また、来ます。
そのとき、もしこのノートがまだここにあって、
そのページの先に、あなたの言葉が続いていたら──
それは、きっと、わたしの宝物になると思います。
──美咲
書き終えたそのとき、美咲の手は、静かに震えていた。
でもそれは、過去の自分を責める震えではなかった。
ただただ、“言葉を持てた”ことの、ささやかな実感だった。
部屋の隅に、柱の小さなキズがまだ残っている。
妹・遥香が最後に刻んだ“ありがとう”の文字は、少し削れて、少し滲んで、それでも消えていなかった。
「……遥香。もう、ちゃんと返せたよ」
独り言のように、美咲はそうつぶやいた。
そしてノートを押し入れの、見つけやすい位置にそっと戻す。
その手には、もう迷いがなかった。
ドアを開けると、そこには灯が立っていた。
「……行かれるんですね」
美咲は頷く。
「はい。……でも、置いていきました」
灯は小さく目を細めた。
「それができたなら、きっと大丈夫です」
廊下には朝の光が差し込んでいた。
前に来たときは、見えなかった光。
見ようとしなかっただけかもしれない光。
階段を降りると、咲良が待っていた。
「送ってくよ。駅まで、歩いていけるし」
「……ありがとう。でも、もう大丈夫」
そう言いながら、美咲は笑う。
咲良が「そっか」と言って、少し照れくさそうに頷く。
「じゃあさ、また来なよ。予約なんかいらないからさ。……あ、でもさ、今度は泣かないでよね?」
「泣きませんよ」
美咲が笑いながらそう言うと、咲良もつられて笑った。
門を出るとき、振り返って見た宿は、あいかわらずの古さと静けさをまとっていた。
けれどそこに、美咲は“あたたかさ”を感じた。
──誰かに泣かせてもらった場所。
──そして、誰かを泣かせてあげられるかもしれない場所。
小さな手紙は、押し入れの中のノートにひっそりと綴られた。
それは“さよなら”を言わない手紙。
だからきっと、また出会える。




